第220話  青海波の舞の夕べ

  行幸には、皇子(みこ)たちもみなお供します。春 宮(とうぐうう)も御臨席なさいます。楽人の乗り込んだ船も池を漕ぎまわり、唐(から)や高麗(こま)の舞など数えきれないほど多く演じられます。宮廷の 文化は唐や朝鮮半島とも深くつながっているのでした。舞も政(まつりごと)の重要な一部だったのでした。

 1. 青海波の舞~紅葉賀~【日本古典文学大系】

  行幸には、皇子(みこ)たちなど、世(よ)に殘(のこ)る人なく、仕(つか)うまつり給へり。
  春宮(とうぐう)もおはします。
 例(れい)の樂の舟ども、漕(こ)ぎめぐりて、唐土(もろこし)・高麗(こま)と盡(つ)くし たる舞(まひ)ども、種(くさ)おほかり。
 樂(がく)の聲、鼓(つゝみ)の音(おと)、世(よ)をひびかす。
 一日(ひとひ)の、源氏の御夕影(ゆふかげ)、ゆゝしう思(おぼ)されて、御誦(みず)經な  ど、所々にせさせ給ふを、聞(き)く人も「ことわり」と、あはれがり聞(きこ)ゆるに、春宮の 女御は、「あながちなり」と、にくみ聞(きこ)え給(たま)ふ。
 垣代(かいしろ)など、殿上人、地下(ぢげ)も、「心殊(こと)なり」と、世(よ)≪の≫人に 思(おも)はれたる有職(いうそく)のかぎり、整(とゝの)へさせ給へり。
  宰相二人(ふたり)、左衛門督(さゑもんのかみ)、右衛門督(うゑもんのかみ)、ひだり・右(みぎ)の樂(がく)のことをお行(おこ)ふ。
 舞(まひ)の師どもなど、世(よ)になべてならぬをとりつつ、おのおの籠(こも)り居(ゐ)て なん習(なら)ひける。

   漢語起源のことば

 源氏物語の時代、宮中では漢語がかなり使われてい た。春宮(とうぐう)、女御、殿上人、宰相、左衛門督(さゑもんのかみ)、右衛門督(うゑもんのかみ)、などである。春宮は皇太子の宮殿で東宮とも書く。
 衛府には近衛府、兵衛府、衛門府があり、それぞれ 左右に分かれていた。左衛門督は近衛の御門より左を担当する長官であり、右衛門督はは右側を担当する。
 馬頭(うまのかみ)のときは「頭」と書いて「か み」と読み。左衛門督(さゑもんのかみ)、右衛門督(うゑもんのかみ)は「督」と書いて督「かみ」と読む。「かみ」は頭「かしら」であもる。

 ○ 漢語(漢音・呉音):行幸、春宮(とうぐう)、例(れい)、樂(がく)、源氏、女御、
  殿
人、地下(ぢげ)、有職(いうそく)、宰相、左衛 門督(さゑもんのかみ)、右衛門督
  (うゑもんのかみ)、師、
 ○ 
漢語起源のことば:皇子(みこ)、世(よ)、舟、めぐる、高 麗(こま)、舞(まひ)、
  音(おと)、御、夕影(ゆふかげ)、思(おぼ)す、あはれ、御誦(みず)經、
  垣代(
かいしろ)、思(おも)ふ、かぎり、籠(こも)る、居(ゐ)る、
 ○ 
朝鮮語と同源:ひと(一日)、
 ○ 
訓(やまとことば):のこ(殘)る、人、つか(仕)へる、おはす、こ (漕)ぐ
  もろこし(唐土)、
つ(盡)くす、種≪くさ≫、聲、つゝみ(鼓)、ひびく、ひとひ(一日)、
  ゆゝし、所、給ふ、き(聞)く、ことわり、かいしろ(垣代)、聞こゆ、殿上、 心、
  こと(殊)、とゝの(整)へる、ふたり(二人)、督(かみ)、ひだり(左)、みぎ(右)、
  こと(事)、おこな(行)ふ、なべる、なら(習)ふ、

 ○ 皇子(みこ)
 「みこ」は漢字では「皇子」、「御子」、「親王」とも書く。原義はおそらく「御子」であろう。

 ○ 舟
 スウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレン
(1889-1978)は『言語学と古代中国』(1920年・オスロ) において、日本語の「ふね」の語源は中国語の 「盆」ではないかとしている。現代の日本語では「盆」は「ふね」の意味には使われていないが、『古事記』にはそのような用法があるという。現在でも「湯ぶね」などという。
 舟に関係する中国語のなかでは盤
[buan]、舨[piuan]、舫[piuang]、艦[heam]などがあり、日本語の「舟」に音義ともの近い。「盤」は 「おおざら」、あるいは「たらい」である。「舨」は「舢舨」などといい、小舟である。「舫」は「もやいぶね」である。「艦」は軍船である。
(参照:
第218話、 第 219・經)、

 「舟」の朝鮮語はpaeである。日本語の「ふね」は朝鮮語のpaeと関係がある可能性もある。長崎のペーロンは舟の 競争である。

 ○ めぐる
 日本語の「めぐる」にあたる漢字は「廻」である。「廻」の古代中国語音は廻
[huəi] である。中国語の喉音[h-]・[x-] を語頭にもつ漢字のなかには日本語の訓でマ行に対 応するものがいくつか見られる。 
 中国語の喉音
[h]・-[x-] が日本語でマ行であらわれる例としては見[hyan](ケン・みる)、向[xiang](コウ・むかう)などをあげることができる。また 中国語の声符がカ行とマ行で読み分けられる例としては海[xə]・毎[mə]、忽[xuət]・物[miuət]、黒[xək]・黙[muək] などをあげることができる。
 「廻」の祖語は廻
[hmuəi]  のような音価をもっていて、入りわたり音[h-]  がうしなわれたものが廻(めぐる)となり、入りわたり音[h-]  が発達したものが廻(カイ)になったと考えられる。

 ○ 高麗(こま)
 「高麗」と書いて「こま」と読む。高麗
[lyai][l][m] に近く転移することがある。[l]は調音の位置が歯茎の後であり、[m] は両唇音で調音の位置が近い。調音の位置が同じ、 あるいは近い音は転移しやすい。
  例:陸(リク)・睦(ムツ)、勵(レイ)・萬(マ ン)、漏(ロウ・もる)、
   両(リョウ・もろ)、嶺(リョウ・みね)、戻(レイ・もどる)、

 ○ 御誦(みず)經
 「誦」の日本漢字音は呉音が誦「ジュ」、漢音は誦「ショウ」である。源氏物 語では「誦(ず)す」、「誦(ずん)ず」、「念誦(ねんず)」、「誦經(ずきやう)」などと読む。源氏物語では現在は拗音になっているものが直音であらわれる 場合が多い。(参照:第219話・さ≪射≫す)

  例:修法(ほ ふ)、朱雀院(すざくゐん)阿闍梨(あり)、上手(じやうず)、  
   文章(もんざう)、障子(さうじ)、精進(さうじ)、装束(さ うぞく)、
   正身(さうじみ)、菖蒲(さうぶ)、有職(いうそ く)、宿禰(すくね)

  これらの漢字の朝鮮語音は修(su)、朱(ju)、闍(sa)、上(sang)、章(jang)、障(jang)、精(jeong)、装(jang)、正(jeong)、菖(chang)、職(jik)、宿(suk)であり、直音の痕跡を留めているものがみられる。 古代日本語の「宿禰」も、朝鮮漢字音は宿禰(suk-ni)であり、日本語の宿禰(すくね)に近い。しかし、 「経」は仮名でかけば「きやう」であろう。

 ○ 垣代(かいしろ)
 「垣」の古代中国語音は垣
[hiuan]、日本漢字音は垣(エン)である。中国語の頭音[h-]は喉音であり、日本漢字音ではカ行であらわれるこ とが多い。源氏物語では垣 代(かいひろ)と読まれている。日本語の垣(か き)あるいは垣(かい)については中国語との関係が想定できる。「しろ」と「代」の関係については不明である。

 ○ ひとひ(一日)
 「ひと」の「ひ」は朝鮮語の日
(hae)と同源である。「ひと」は「やまとことば」である。

 ○ 参照:世(よ)(第209話)、籠(こも)る (第210話)、居(ゐ)る(第211話)、
     夕影(ゆふかげ)(第213話)、思(おぼ)す・おも(思)ふ(第213 話)、
     あはれ(第213話)、音(おと)(第216話)、かぎり(第216話)、
     舞(まひ)(第219話)、

 歴史的仮名使い

 ○ 行幸
 漢字で書かれているが、ひらがなで漢語を表記しようとすれば行幸(きやう・かう)であろう。(参照:第219話・行幸)

 ○ 春宮(とうぐう)
 皇太子の異称で東宮とも書く。「東宮」は皇太子の御座所で、「春宮」は官舎をさすともいう。語源的には「東宮」であろう。
 「宮」の古代中国語音は宮
[kiuəm] である。「宮」の訓は宮「みや」である。日本語の 「みや」は古代中国語の宮[kmiuəm] の頭音[k-] が脱落したものであった可能性がある。
(参照:こ ま(高麗)、第210話・こも(籠)る)、第211話・うみ(海))、

 スウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレ ン(1889-1978)は古代中国語の[l-] には入りわたり音[k-] があったとしている。「宮」の声符は呂[lia] であり、古代中国語音に入りわたり音があったとす ると「宮」は宮[klia] であった可能性がある。そうだとすると、宮(キュ ウ)は入りわたり音[k-] が発達したものであり、宮「みや」は入りわたり音[k-] が脱落したものである蓋然性がある。[l][m] は調音の位置が近く、転移しやすい。(参照:こま (高麗))、

 ○ 女御
 「女」の古代中国語音は女
[njia]である。日本漢字音は呉音・女(ニョ)、漢音・女 (ジョ)である。しかし、「女御」とか「女房」のときは女(ニョウ)となることがある。
(参照:第208話第219話・ごぜん(御 前))、

 ○ 殿上人
 「殿上人」の場合は「でんじやうびと」である。「殿」は殿(との)と読まれることもある。「殿」の古代中国語音は殿
[dyən] である。日本漢字音は呉音・殿(デン)、漢音・殿 (テン)とされている。訓は殿(との)である。日本語には[-n] で終わる音節がなかったので[-n] に母音を添加して殿(との)とした。古代日本語に は母音調和があったので第一音節の殿(の)の母音「と」と添加された母音「の」は同じ調音の位置の音となった。(参照:第219話・大との(殿))、

 ○ 有職(いうそく)
 有職とは学問のあることで、音楽、書道芸能方面にすぐれてゐ人のこともさした。現代の日本漢字音では有職(ユウショク)となるところだが、源氏物語などでは有職(いうそく)と発音された。
 「有職」の古代中国語音は有職
[hiuə-tjiək]である。唐代には中国語の喉音[h-]は介音[-i-]の前では失われていた。日本漢字音では「有」は呉 音・有(ウ)、漢音・有(ユウ)とされている。
「職」の日本漢字音は呉音・職(シキ)、漢音・職 (ショク)である。「有職」では「いう・そく」と読む。源氏物語の漢字音では介音
[-i-] は脱落することが多い。(参照:御誦(みず)經)

 ○ 宰相
 「宰相」は漢字で表記されているが、ひらがなで書けば宰相(さいしやう)である。(参照:第211話

   谷崎潤一郎訳『源氏物語』~青海波の舞・紅葉賀~

  行幸には親王(みこ)たちなど、世に残るお方もなく供奉(ぐぶ)なさいました。
  春宮(とうぐう)もお供なさいます。例の音楽の船々が池の中を漕(こ)ぎめぐって、唐土(もろ こし)の楽(がく)、高麗(こま)の曲と、舞の手を尽くし、番組の種類も多いようでした。
  楽の声、鼓(つづみ)の音(おと)が天地を揺るがすばかりです。あの試楽の夕べの源氏の君のお 姿の美しさを、空恐ろしく思し召して、御祈禱(ごきとう) などをあちこちでおさせになりますの を、漏れ聞く人々ももっともなおんこととお案じ申し上げますのを、春宮の女御は「てもあんまり な」とお憎みになり ます。
  垣代(かいしろ)などには殿上人からも、地下(じげ)からも、優(すぐ)れているという評判の ある有職(ゆうそく)の限りをお集めになりました。
  参議(さんぎ)二人と、左衛門督(さえもんのかみ)、右衛門督(うえもんのかみ)とが左右の楽 のことを執(と)り行(おこな)います。
  人々は前から、舞の師などにも世の常ならぬ名手を招き寄せて、おのおの家に閉(と)じ籠(こ  も)って練習をしたのでした。

   対訳「源氏物語」

 源氏物語の原文に谷崎潤一郎訳の『源氏物語』を重 ねてみると、谷崎潤一郎はかなり原文に忠実に現代語訳していることが分かる。原文には句読点がなく、ひらがなが多いので読みにくい。動詞の終止形で区切っ てみても、その動詞の主語を特定できない文章もある。日本語の文章は主語が主体ではなく、動詞が核になっていて、その動詞をさまざまな副詞句が修飾してい る。目的語だけが明示されていて、主語が明らかでないものもある。

   行幸にはみこたちなどよにのこる人なくつかうまつり給へり
 ≪行幸には親王(み こ)たちなど、世に残るお方もなく供奉(ぐぶ)なさいました。≫

   春宮もおはします
 ≪春宮(とうぐう) もお供なさいます。≫

   れいの樂の舟どもこぎめぐりてもろこしこまとつくしたるまひども種おほかり
 ≪例の音楽の船々が 池の中を漕(こ)ぎめぐって、唐土(もろこし)の楽(がく)、高麗(こま) の曲と、舞の手を尽くし、番組の種類も多いようでした。≫

   がくの聲つゝみのおとよをひびかす
 ≪楽の声、鼓(つづ み)の音(おと)が天地を揺るがすばかりです。≫

   ひとひの源氏の御ゆふかげゆゝしう思されてみず經など所々にせさせ給ふをきく人もことわりとあ はれがりきこゆるに春宮の女御はあながちなりとにくみきこえたまふ
 ≪あの試楽の夕べの 源氏の君のお姿の美しさを、空恐ろしく思し召して、御祈禱(ごきとう)など をあちこちでおさせになりますのを、漏れ聞く人々ももっともなおんこととお案じ 申し上げますの を、春宮の女御は「でもあんまりな」とお憎みになります。≫

   かいしろなど殿上人地下も心ことなりとよ人におもはれたるいうそくのかぎりとゝのへさせ給へり
 ≪垣代(かいしろ) などには殿上人からも、地下(じげ)からも、優(すぐ)れているという評判 のある有職(ゆうそく)の限りをお集めになりました。≫

   宰相ふたり左衛門督右衛門督ひだりみぎのがくのことをおこなふ
 ≪参議(さんぎ)二 人と、左衛門督(さえもんのかみ)、右衛門督(うえもんのかみ)とが左右の 楽のことを執(と)り行(おこな)います。≫

   まひの師どもなどよになべてならぬをとりつつおのおのこもりゐてなんならひける
 ≪人々は前から、舞 の師などにも世の常ならぬ名手を招き寄せて、おのおの家に閉(と)じ籠(こ も)って練習をしたのでした。≫

[源氏物語を読む]

☆第207話 ひらがなの発明

第208話 桐壺の巻を読む

第209話 帚木の巻を読む

第210話 雨夜の品定め~帚木~

第211話 馬の頭(かみ)の女性観~帚木~

第212話 賢い女について~帚木~

第213話 空蝉の巻を読む

第214話 夕顔の巻を読む

第215話 町屋の朝~夕顔~

第216話 夕顔の死~夕顔~

第217話 若紫の巻を読む

第218話 末摘む花の巻を読む

第219話 紅葉賀の巻を読む

★第220話 青海波の舞の夕べ~紅葉賀~

第221話 琴の調べ~紅葉賀~

第222話 花の宴の巻を読む

第223話 葵の巻を読む

第224話 賢木の巻を読む

第225話 花散里の巻を読む

もくじ