第207話
ひらがなの発明
『古
事記』、『日本書紀』、『万葉集』はいずれも漢字だけで綴られている。それに対して『源氏物語』はかな文字で書かれている。漢字は中国語を表記するために
発明されたものであり、漢字だけをもって日本語を表記するためには音、訓などさまざまな手法が駆使される必要があった。 これに対して、かな文字は日本語の音節に対応したものであり、中
国語にはなく、日本語にある用言の活用や助詞、助動詞などを書き表すことができる。
『源氏物語』の
作者は紫式部、成立の年代は、正確にはわからないが11世紀の初めとされている。紫式部自筆の源氏物語が存在しているわけではない。当時は印刷技術があっ
たわけでもなく、本は書写されたため、同じ源氏物語といっても諸本があり、本文にも異同がある。これらの異本を本格的に校訂したのは鎌倉時代に入ってから
である。 現在、底本としてよく使われているのは青表紙本と
呼ばれるもので、藤原定家の手が加わっているといわれる。現在は宮内庁書陵部蔵になっているが、複写した本が出版されているほか、国会図書館などではパソコ
ンで閲覧することができる。
源氏
物語を原文で読む
原文はほとんど
がひらがなで漢字が一部交っている。我々が高校などで習う『源氏物語』は実は現代の読者にも解読できるように、漢字仮名交り文に書き換えられたものであ
り、原文には句読点もなく、濁点ない。そればかりか、引用文の「○○」も表示されていないから、そのままでは素人には解読が困難である。有名な桐壺の巻の冒頭部分を青表紙本で見てみるとつぎのようになる。
い徒連乃御と記尓可女御更衣あま多さふらひ給介る奈可尓いとやむこと奈きゝハ尓盤安
ら怒可すくれ天と記めき多まふあり介りハしめより王連盤と於もひ阿可里給へる御可
多ゞゝ免さ満しき物尓おとしめ曾弥ミ多まふ於奈し程それより下らふの更衣堂ちハまし
てや寿可ら須
ここでは「かたかな」として使われているが、漢字の
草書体で書かれているものは漢字で表記してみた。この部分に使われている文字を整理してみるとつぎのようになる。
○
漢字による表記
御とき、女御、更
衣、給ふ、御かた、物、程、下らう、 ○ 日本語の音としての漢字の使用
徒(つ)、乃
(の)、記(き)、尓(に)、可(か)、多(た)、介(け)、奈(な)、 怒(ぬ)、於(お)、阿(あ)、里(り)曾(そ)、弥(ね)、寿(す)、須
(す)、 ○ 漢字音の韻尾が脱落したもの
連(れ)、盤
(は)、安(あ)、天(て)、王(わ)、免(め)、満(ま)、堂(た)、 ○ 濁音が表記にあらわれていないもの
いつ(徒)
れ、さふらふ、やむことなき、あらぬか(可)、
すくれて、ハしめより、 あ(阿)か(可)
り、おなし、やすからす(須)、 ○ カタカナ表記
ハ、ミ、
(1) 日本語は開音節で、それぞれの音節は母音で終わる
ため、漢字の韻尾は省略してかな としてつかわれているものが多い。
(2) 濁音に清音の漢字が使われている。古代日本語では
語頭に濁音がくることはなかった。 同じ漢字でも、語頭では清音として読み、語中・語尾
では濁音で読む。古代日本語の濁音と清 音は、いわば相補分布していたので、同じ漢字が使われていても、語頭にあれば清音、語中・ 語尾では濁音に読むという規則があったので、清濁を読み分けることができた。
(3) 現在の文字体系でいう「ひらがな」と「かたかな」
は完全には区別されていなかった。 「ハ」は「八」の仮名であり、「ミ」は「三」の仮
名であり、ひらがなにも、かたかなにも使わ れた。
『源氏物語』はひらがなで書いてあるとはいえ、青
表紙本の原本をみると、ひらがなの元となった漢字の原型が、かなり残されている。「ひらがな」は日本語を表記するための新しい文字体系である。しかし、漢字を知っている人なら誰でも読むことができた。「ひらがな」は漢字の草書体から発生したものだからである。
漢字から仮名へ
現在ひらがなとして使われている文字は決まってい
るが、この時代にはさまざまな漢字の草書体が用いられていて、一音一字にきまっているわけではない。
、それ以外の漢字は「こ
う」である。これは当時の人々が漢語の韻尾を聞き分けられたかどうかは不明であるが、規範的表記法というべきであろう。現代でもbとvを聞き分けられない人でも「ベースボール」「ヴァ
レーボール」などと書き分けることはある
い(以、意、伊、移、異)、つ(徒、川、津、都、頭)、れ(連、禮、礼、麗)、の(能、
野、乃、廼、農、濃)、と(登、東、度、砥、土、斗)、き(起、幾、喜、支、木、貴、
期、記、季)、に(爾、丹、耳、仁、児、而、尼)、か(可、加、嘉、閑、賀、家、香、
佳)、
これらの仮名を変体仮名とよぶことがあるが、変体
とは標準形から離れていることであって、当時としてはいずれも正体であった。ひらがなそのものが、変体漢字であったともいえる。
いわゆる変体仮名を現代使われているような「ひ
らがな」で表記してみると、源氏物語の原文はつぎのようになる。
いつれの御ときにか女御更衣あまたさふらひ給けるなかにいとやむことなきゝハにはあ
らぬかすくれてときめきたまふありけりハしめよりわれはとおもひあかり給へる御かた
ゝゝめさましき物におとしめそねミたまふおなし程それより下らふの更衣たちハまして
やすからす
『源
氏物語』を読み下す
山岸徳平校注の日本古典文学大系では次のように表
記している。ルビは( )で示した。
いづれの御時(とき)にか。女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむご
となき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時(とき)めき給(たま)ふ、ありけり。
はじめより、「われは」と、思(おも)ひあがり給へる御かたゝゞ、めざましき者におと
しめそねみたまふ。
おなじ程、それより下﨟(げらふ)の更衣たちは、まして、安(やす)からず。
源
氏物語の主人公はいうまでもなく、光源氏である。考えてみれば「光源氏」という名称も現代の日本語からみれば少し変である。源氏が姓で、光が名前あるいは
通称であろう。源氏とは源(みなもと)のことである。その漢語読みが源氏(げんじ)である。源頼朝(みなもとのよりとも)風にいえば源光(みなもとのひか
る)であろう。しかし、「光」は訓であり、「源氏」は漢語読みである。しかも、姓の「源」と名の「光」の順序が逆になっている。
○ 源氏 日本語の「みなもと」は「水の原(もと)」である。「水」は「源」の「氵」である。水(みず)の語源は朝鮮語の(mul) と同源である。「原」の古代中国語音は原[ngiuan] である。疑母[ng-] は古代日本語ではマ行であらわれるものが多い。韻尾の[-n ] は入声音[-n ] の転移したものであり、「原」の祖語は原[muat] であると考えられる。中国語の疑母[ng-] が日本語でマ行であらわれる例としてはつぎのよう
なものがある。
例:元[ngiuan] もと、芽[ngea] め、眼[ngean] め、御[ngia] み、雅[ngia]美・みやび、
詣[ngyei] もうでる、迎[ngyang] むかえる、
○ 物語 「物語」の古代中国語音は物[miuət]、語[ngia]である。白川静の『字通』によると語[ngia]は言[nagian]と双声である、という。してみると、源氏物語の物
語もまた古代中国語の「物言」に依拠した倭音である可能性がある。物[miuət]の韻尾の[-t]は[-n]と調音の位置が同じであり、転移しやすい。物(もの)は物[miuət] と同源である。語[ngia]は言[ngian]に近い。言[ngian] の韻尾の[-n]は[-t]と調音の位置が同じであり、訓は言(こと)である。日本語の「物語」は中国語と音義ともに近く、同源である。 ○ 下らふ(下﨟) 「下らふ」の「らふ」はひらがなで書かれているが、漢字で書けば「下﨟」である。「﨟」の古代中国語音は﨟[liap] あるいは﨟[lap] である。「下﨟」を「下らふ」と書いた人は、中国語の「﨟」の韻尾が[-p] であることを知っていた。つまり中国語音についても深い知識をもっていた、ということになる。 與謝野晶子訳『源氏物語』
『源氏物語』は原文のままでは意味が分からない部分が多いので、
現代語訳というものがいくつか出て、かなりよく読まれている。これを『源氏物語』の原文と対比してみると、日本語の変遷、あるいは日本語の表記の変化がよ
く分かる。 与
謝野晶子の『新訳源氏物語』の初版は明治45年から大正2年にかけて上・中・下巻にわけて出版されて、非常な評判を呼んだ。初版は全訳というよりも意訳で
あり、省略も多くあったという。いわゆる与謝野源氏は全訳ではない。また各章のはじめに与謝野晶子自身の歌などが入っている。
昭和13年になると『新訳源氏物語』を改訳して
『新新訳源氏物語』を出している。この新新訳では冒頭の「天皇」のところが伏せ字になっているという。戦争に向かう時代の雰囲気を反映しているといえるだ
ろう。
紫のかがやく花と日の光思ひあはざることわりもなし(晶子)
どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれ
る後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵(あ
いちょう)を得ている人があった。 最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃(たの)む所があって宮中にはいった 女御たちからは失敬な女としてねたまれた。 その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の焔(ほ
のお)を燃やさないわけもなかった。
谷崎
潤一郎訳『源氏物語』
与
謝野晶子と同じ頃、谷崎潤一郎もまた『源氏物語』の翻訳をはじめていた。谷崎は結局3回源氏物語を翻訳している。谷崎は原文の余情を重視し、「原文と対照
して読むためのものではない」としている。ここに引用したのは昭和48年の中公文庫版であり、谷崎の新々訳源氏物語をもとにしている。
何という帝(みかど)の御代(みよ)のことでしたか、女御(にょうご)や更衣(こう
い)が大勢伺候(しこう)していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰(だれ)
よりも時めいている方がありました。 最初から自分こそはと思い上っていたおん方々は、心外なことと思って蔑(さげす)んだり嫉 (ねた)んだりします。その人と同じくらいの身分、またはそれより低い地位の更衣たちは、 まして気が気ではありません。
第1回目は昭和14年から16年にかけて刊行され
た全26巻本『潤一郎譯源氏物語』である。完全な翻訳になったのは戦後の第2回目で、昭和26年5月から刊行の新譯である。第3回目は新仮名遣いを採用す
るに当たって手が加えられた『新々訳』である。
谷崎は途中からは口述で訳業をすすめている。その
間の事情は『高血圧症の思ひ出』に、次のように記されている。
「私はそれまで助手を使はず、単独で働いてゐたのであるが、眼が不自由になるにつれ
て、どうしても秘書を雇ふ必要を感じ、四五人の人を試みた後に、京都の古い呉服屋で
旧家の一人娘である伊吹和子氏に五月中旬からから来て貰うことにきめた。この人は京
都大学に通ふかたはら、澤瀉(おもだか)博士の門に入つて万葉を研究してゐるので、
源氏の翻訳の手伝ひをするには申し分なかった」
『新
譯源氏』は旧仮名使いで書かれていたため、秘書には旧仮名使いのできる秘書を探していたのである。もっとも谷崎潤一郎の秘書といっても給料6千円は中央公
論社が払っていたというから、雇用関係は中央公論社との間にあったとも考えられる。そのあたりの事情は伊吹和子著『われよりほかに~谷崎潤一郎最後の12
年』にくわしい。
秘書の席は低い文机で、先生と並んだ左側の隅に、座布団を敷いて坐るようになってい
たので、こちらからは先生を、右に見上げる格好になる。 私は、かねて渡されていた硯に朱墨を磨り、筆記用の写経筆を持って身構えた。 先生は、机の上に何種類かの注釈書や参考書を披げ、件(くだん)の旧訳本を見ながら、 一心に想を練って、口の中で何度もつぶやいてから、一くぎりずつ、ぽつり、ぽつりと 口述される。 私はそれを、言われた通りに書き込んでいった。
『われよりほかに』は人間 谷崎潤一郎がみごとに描
かれており、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
瀬戸
内寂聴訳『源氏物語』
瀬戸内寂聴の現代語訳『源氏物語』は1996年
(平成10年)に刊行されている。瀬戸内も2002年に新装版をだしている。瀬戸内源氏は原文ものもつ雰囲気は伝えながらも、現代の読者が注釈なして現代
文として読みとおせるように、独自の文体で書かれている。
いつの御代(みよ)のことでしたか、女御(にょうご)や更衣(こうい)が賑々(にぎ
にぎ)しくお仕えしておりました帝(みかど)の後宮(こうきゅう)に、それほど高貴
な家柄の御出身ではないのに、帝に誰よりも愛されて、はなばなしく優遇されていらっ
しゃる更衣がありました。 はじめから、自分こそは君寵(くんちょう)第一にとうぬぼれておられた女御たちは心
外で腹立たしく、この更衣をたいそう軽蔑したり嫉妬(しっと)したりしています。 まして更衣と同じほどの身分か、それより低い地位の更衣たちは、気持ちのおさまりよう
がありません。
源
氏物語は今から千年も前に書かれた物語である。作者の紫式部は生年は明らかでないが、大体970年ころで、長和3年(1014)ごろ没したらしい。紫式部
という名前からも式部省の役人の家系の娘であったことが知られる。式部省というのは公文書の審査などを行う役所である。紫式部は文人的気風の家庭で育った
ことになる。 内容は光源氏と呼ばれる、稀に見る美貌の持ち主
で、文武両道にすぐれた皇子が主人公である。平安時代の宮廷を背景に、人並以上に好色な主人公の女遍歴が描かれていく。 物語としての魅力はもちろんのこと、紫式部が宮仕
えしていた一条天皇の宮廷の様子や、当時の日本語がどのようなものであったかも分かり、興味がつきない。
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