第218話
末摘む花の巻を読む
夕顔のことがいとおしく思い出される。なんとか夕
顔のような、あまり気の張らない、可愛い女性はいないものかと思いつづけていた折も折、ひとりの姫君が、誰とも会わずに、琴だけを友として暮らしていると
いう情報を得ます。源氏はやがてこの姫君とも結ばれるが、夕顔のあどけない優しさが心に残っているためか、この女性のぎこちない態度には魅力を感じませ
ん ある雪の降る朝、雪明かりでその姫君の顔を見る
と、鼻の先が真っ赤になっていて興ざめです。
1.
すゑつむ花【日本古典文学大系】
おもへども、なほ飽(あ)かざりし夕顔(ゆふがほ)の露に、おくれしほどの心地(ち)
を、年(とし)月ふれど、おぼしわすれず、こゝもかしこも、うちとけぬ限(かぎ)り
の、けしきばみ心(こころ)深(ふか)き方の御いどましさに、けぢかく、なつかしか
りしあはれに、似(に)る物なうこひしく、おもほえ給ふ。
「いかで、ことごとしきおぼえはなく、いとらうたげならむ人の、つゝましきことなか
らん、見(み)つけてしがな」と、こりずまに、おぼしわたれば、少(すこ)しゆゑづ
きて、きこゆるわたりは、御耳(みゝ)とめ給(たま)はぬ隈(くま)なきに、「さても
や」と、思(おぼ)しよるばかりの、けはひあるあたりにこそは、ひとくだりをも、ほ
のめかし給ふめるに、なびき聞(きこ)えず、もてはなれたるは、をさをさあるまじき
ぞ、いと目(め)なれたるや。
漢語起源のことば
この文章のなかでも、ひらがなで書かれた漢語が含
まれている。けはひ(氣配)、けしき(氣色)である。「心ち」は「心み」などと同様に訓借(当て字)である。「心ち」
の「ち」は現在では「心地」と書かれることが多いが、漢語には「心地」という成句はない。「心地」の「地」は音借(音の当て字)であり、意味は「心持ち」である。 現代の日本語では「けしき」は一般に「景色」と書
くが、源氏物語では「氣色」である。「氣色」とは「気持ちが顔色にあらわれること」であり、「景色」は風景である。「氣」の古代中国語音は氣[khiəi]である。日本漢字音は呉音は氣(ケ)、漢音は氣(
キ)とされている。日本語のエ段の音はイ段の音に近い。現在でも地名で気仙沼(けせんぬま)、土気(とけ)などは氣(け)と読まれている。「氣配」という
漢語はなく、国字である。
○
漢語(漢音・呉音):心地(ち)、気配(
けはひ)、氣色(けしき)、 ○ 漢語起源のことば:花(はな)、摘(つ)む、もふ、夕顔(
ゆふがほ)、ふる、おぼす、
わすれる、うちとける、限(かぎ)り、あはれ、御、似(に)る、物(もの)、こひし、
いかで、おぼえ、見(み)る、ゆゑづく、耳(みゝ)、とめる、なびく、目(め)、 ○ 訓(やまとことば):あ(飽)く、露、心ち
(地)、とし(年)、月(つき)、こゝ、
かしこ、こころ(心)、ふか(深)き、方(かた)、いどまし、なつかし、ことごとし、
らうたし、つつまし、給ふ、人、すこ(少)し、ゆゑ、きこゆる、わたり、くま(隈)、 あたり、ひとくだり、ほのめかす、きこ(聞)える、
○ 花 日本語の「はな」は中国語の花[xoa]あるいは華[hoa]と関係のあることばであろう。中国語の喉音[x][h]は倭音ではハ行であらわれる。「はな」
の「な」については不明である。
○ 摘(つ)む 「つむ」は漢字では「摘む」と書く。摘(つむ)は古代中国語の摘[tyek] である。韻尾の[-k]は普通カ行であらわれるので説明が必要である。韻尾が[-p] ならば、マ行に転移する例はある。[-p] と[-m] は調音の位置が同じであり転移しやすい。しかも、日本語は第二音節では清音が濁音になるという性質をもっている。 例:鴨[keap] かも、汲[xyəp] くむ、狭[heap] せまい、挟[hyap] はさむ、鋏[kyap] はさみ、 しかし、韻尾が[-k] がマ行であらわれる例はないことはないが、調音の位置や方法に共通点がないので、合理的な説明がむずかしい。現代の上海語では韻尾の[-p][-t][-k]は弁別されず、みな咽喉閉鎖音の[?]であらわれる。もし、「摘」が江南地方の発音の影響をうけていたとすれば、摘[tyep] に近い音をもっていたことになり、日本語の
「つむ」は摘[tyep] 同源だということになる。 韻尾の[-k] が日本語でマ行であらわれる例としては次のようなものがある。 例:燭[thjiok] ともる、極[giək] きわめる、摘[tyek] つむ、
○ 經(ふ)る 「經」の古代中国語音は經[kyeng]である。中国語には後口蓋音[k]と喉音[h]があるが、日本語には喉音はない。そのため後口蓋
音[k]も喉音[h]もともにカ行であらわれることが多い。平安時代の
日本語のハ行音は両唇音で「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」に近かったとされているが、それ以前に日本語にはハ行であらわれるものもあった。經(ふる)は平安時代以前の日本漢字音の痕跡をとどめている。 (参照:第210話)。
例:經[kyeng](ケイ・ふる)、火[xuəi](カ・ひ)、灰[huəi](カイ・はい)、花[xoa](カ・はな)、 掘[giuət](クツ・ほる)、減[ngiuam](ゲン・へる)、桧[kuat](カイ・ひのき)、
漢字の海[xuə]の日本漢字音は海(カイ)であるが、「上海」など
は海(ハイ)である。カ行とハ行は近い。現在の日本漢字音ではカ行であらわれことばも、古代日本語ではハ行であらわれることがある。
○ うちとける 現代日本語の表記では「打ち解ける」と書く。「うちとける」の「うち」は打[tyeng] の頭音の前に母音「う」が添加されたものである。「とける」は「融ける」あるいは「溶ける」であろう。古代中国語の「融」は融[jiuəm]であり、「溶」は溶[jiong] である。いずれも、口蓋化によって頭音をうしなっていて、祖語は融[duəm]、溶[dong] あるいは溶[dok] である。喩韻[j-]の漢字の多くは定韻[d] の頭音が口蓋化によって失われたものである。
例:多[tai]・移[jiai]、途[da]・余[jia]、脱[thuat]・悦[jiuat]、誕[dan]・延[jian]、
澤[deak]・驛[jyak]、談[dam]・炎[jiam]、濯[diôk]・躍[jiôk]、
台湾の音韻学者、董同龢は『上古音韻表稿』のなか
で「融」の上代音は融[diong]であるとしている。「融」に融[diong]という音があったとすれば、韻尾の[-ng]はさらに時代をさかのぼれば入声音
[-k] にたどりつくから、「融」は日本語の「とける」と同源だと考えられる。 (参照:第213話・打つ)、
○ いかで 「いかで」は「やまとことば」のようにみえるが、漢字で書くと「如何で」であり、漢語に由来することばである。「如何」の古代中国語御は如[njia]・何[hai] である。日母[nj-] は脱落し、何[hai] の[h-]はカ行に転移した。 「如」の頭音[nj]は朝鮮漢字音では規則的に脱落し、「如」は如(yeo)となる。日本語の「いかに」は「如何」の朝鮮
語読みに近い。中国語を含む中国文化は弥生時代以降、朝鮮半島を通して日本に入ってきており、文字を
司る史(ふひと)の多くも朝鮮半島出身であった。
○おぼしわたる 「おぼす」は「おぼ(慕)す」と同源であると考えられる。(参照:第213話) 「わたる」は渡[dak]と関係のあることばであろう。中国語には過渡という成句がある。意味は「渡し」である。日本語の「わた
る」は中国語の「過渡」と同源ではあるまいか。 古代中国語の「過」は過[kuai] である。見母[k-] や匣母[h-] は介音[-u-] の前でしばしば脱落してワ行音であらわれる。(参照:第214話:わた(渡)す) 例:話[huai] ワ、和[huai] ワ、禍[huai] カ・わざわい、割[kat] カツ・わる、運[hiuən]・軍[kiuən]、
○ ゆゑづく 現代の日本語では「ゆえ」は一般に「故」と書く。しかし、語源的には「ゆゑ」は理由の由であろう。「ゆゑづく」は「由[jiu]づく」である。意味は「一流の名門らしいところ
が身についている」ことで「由」は由緒の由である。
○ 耳(みゝ)とめる 「耳」の古代中国語音は耳[njiə]である。日母[nj]はさらに遡れば女[njia](め)、乳[njia]母(めの
と)、などのように[m] であらわれる。日母[nj-] は明母[m-] の口蓋化したものである可能性がある。日本語の
「みみ」は中国語の「耳」と同源である。「みゝ」のようにマ行音が重ねられているのは、馬(むま)、梅(むめ)などの古代語には例が多い。 「みゝとめる」は「耳留める」である。
○ 目(め)なれる 日本語の「め」は中国語の目[miuk] あるいは眼[ngean] の韻尾が脱落したものである。眼[ngean] の声母[ng] は[m]と調音の方法が同じであり転移しやすい。目[miuk] と眼[ngean] は音義ともに近い。 (参照:第211話・目)
「なれる」は馴[ziuən] である。「馴」の祖語は馴[njiuən] に近い音価をもっていたのではあるまいか。日母は不安定な声母であり、日母[nj-] は後に[dj] または[zi] に変化した。同じような例として似[ziə](ジ・にる)をあげることができる。
人体をあらわす日本語には中国語起源と思われるこ
とばが多い。言語学者のスワデシは人体名称などどの民族、言語にも共通する語彙を基礎語彙とよび、基礎語彙に共通なものが多ければおおいほど言語の類縁関
係が深い、と主張した。日本語と中国語は系統的には類縁関係がないと考えられているが、なぜか人体をあらわす語彙に同源のものが多い。
例:目[miuk]・眼[ngean] め、耳[njiə] みみ、眉[miei] まゆ、頬[kyap] ほほ、頸[kieng] くび、 口嘴[kho-tziue] くち、口辺[kho-tziue-pyen] くちびる、舌[djiat] した、牙[ngea] は、 顔貌[ngean-meõ] かほ、手[sjiu] て、腹[piuk] はら、肝[kan] きも、脛[hyeng] はぎ、
○ なびく 「なびく」は「靡く」と書く。「靡」は麻[mea]と非[piuəi]の合成文字である。麻[mea]の[m]は鼻音であり、調音の方法が[n] と 同じである。調音の方法が同じ音は転移しやすい。日本語の「なびく」は
「麻」と「非」の合成語であろう。このような合成漢字には「駒」=「馬+句」、「麿」=「麻+呂」などがある。
○ 参照:物(もの)(第207話)、御(
第208話)、夕顔(ゆふがほ)(第211話)、 忘(わす)れる(第212話)、おもふ(第213話)、あはれ(第213話)、 似(に)る(第213話)、限(かぎ)り(第216話)、こひし(第216話)、
谷崎潤一郎訳『源氏物語』~末摘花~
どう思ってみてもやはりいまだに心残りな夕顔(ゆうがお)の、露に先立たれたあの折
のお気持ちを、年月を経てもお忘れになれません。ここでもかしこでも、へんに様子ぶ
った方々ばかりが、お互いに警戒し合い、競争し合っていらっしゃるのをご覧になりま
しては、あのなつかしく親しみやすかった面影(おもかげ)の類(たぐい)なさを、今
も恋しくお思いになります。
どうかして重々しい身分の者でない、世にも可愛らしい人柄の、気兼ねのいらないよう
なのを見つけたいものよと、性懲(しょうこ)りもなく思いつづけていらっしゃいます
ので、少しでもすぐれているような評判のあるたりのことは、漏れなく聞き込んでおい
でなされて、ひょっとしたらとお思いになる素振りのあるようなのには、一筆二筆ほの
めかしてごらんになるらしいのですが、そのお言葉に靡(なび)かないで逃げてしまう
ようなのは、まずもってありそうにないというのも、さりとは曲がなさ過ぎることです。
2.
赤鼻の姫君~すえつむ花~【日本古典文学大系】
最近では冷暖房も完備して、寒さに頬を赤くした子
どもや、鼻先が赤く染まった人を見かけることはなくなったが、平安時代の宮廷では寒さは宮廷の麗人にも迫っていた。ユーモラスな一節である。
「ふりにける頭(かしら)の雪をみる人も劣(おと)らずぬらすあさのそでかなわかき者は、かた ちかくれず」とうち誦(ず)し給ひて、鼻(はな)の、色に出(い)でゝ、「いと寒(さむ)し」 と見(み)えつる御おもかげ、ふと思ひ出(い)でられて、ほゝゑまれ給ふ。
「頭中将に、これを見(み)せたらん時、如何(いか)なることを、よそへいはむ、つねに、う かゞひ來(く)れば、いま、見(み)つけられなん」と、すべなうおぼず。
漢語起源のことば
「わかき者は、かたちかくれず」とあるのは白氏文
集からの引用である。白氏文集に「夜深煙花尽。霰雪白粉々。幼者形不蔽。老者体無温。悲喘与寒気。併入鼻中辛。」とあり、源氏物語の筆者紫式部はもちろん
白氏文集を読んでいて「幼者ハ形不レ蔽レ、老者ハ体ニ無レ温、悲喘ト与二寒気一、併セテ入リテ二鼻中一辛」の部分に言及している。そのことは当時
の源氏物語の読者もそれを読んでいたことを前提としている。
「頭中将」は「頭(とう)の中将(ちうじ
やう)」と読む。「馬頭」のときは「馬(うま)の頭(かみ)」と読む。日本語の漢字は音には呉音、漢音、訓などがあるばかりでなく、訓でも何種類かの読み
方がある場合があるので、解読はしばしば困難を伴う。
○ 漢語(漢音・呉音):ず(誦)す、頭中将、 ○ 漢語起源のことば:ふる、見(み)る、ぬらす、そで、若い、色、出(い)
で、御おもかげ、 ほゝゑむ、時、如何(いか)、つねに、思ふ、來(く)る、おぼす、 ○ 訓(やまとことば):かしら(頭)、雪、人、おと(劣)る、者、かた
ち、かくれる、
鼻(はな)、給ふ、寒(さむ)し、これ、うかがふ、 ○ 朝鮮語と関係のあることば:あさ、
○ ふる 「ふる」は雪が「降る」と、時を「経る」をかけている。「降」の古代中国語音は降[hoəm]であり、「ふる」は中国語の喉音[h-] がハ行であらわれれいる。「経」の
古代中国語音は経[kyeng]で、「ふる」は中国語の[k-] が日本語ではカ行に転移している。匣母[h-] と見母[k-] は調音の位置が近く、転移しやすい。(参照:第
210話)、
○ 濡(ぬ)らす 「濡」の古代中国語音は濡[njio]である。日母[nj-] は泥母[n-] に近く、日本語ではナ行であらわれることがあ
る。日母[nj-] は呉音ではナ行であらわれ、漢音では「ジ」であらわれる。肉(にく)、熱(ねつ)のように、はやくから「やまとことば」のなかにとけこんでいることばもある。日本語の「ぬらす」は中国語の「濡」と同源である。
例:肉[njiuk] ニク、熱[njiat] ネツ、耳[njiə] ニ・ジン、児[njie] ニ・ジ、然[njian] ネン・ゼン、 日[njiet] ニチ・ジツ、若[njiak] ニャク・ジャク、柔[njiu] ニュウ・ジュウ、人[njien] ニン・ジン、
○ 袖(そで) 「袖」の古代中国語音は袖[diu]である。「由」と声符とする漢字には由[jiu](ユウ)、油[jiu](ユウ)、袖[diu](シュウ)、軸[diuk](ジク)、抽[thiu](チュウ)、笛[dek](テキ)などがある。日本語の「そで」は中国語の
袖[diu] と関係のあることばであろう。「そで」
の「で」は日本語の「手」の連想であろう。楊(ヨウ・やなぎ)の「ぎ」などの場合も日本語の「木」の連想が含まれている。
○ 若(わか)い 「若」の古代中国語音は若[njiak]である。日本漢字音は呉音・若(ニャク)、漢音・
若(ジャク)である。朝鮮漢字音では日母[nj-]は規則的に脱落して、若(yak)、弱(yak)、日(il)、などとなる。日本語の「わかい」は中国語の頭音[nj-]が脱落してワ行に転移したことばであろう。 弱「よわい」も中国語の弱[njiõk]の頭音が脱落してヤ行に転移したことばである。ア
行、ワ行、ヤ行は転移しやすい。
例:行(いく・ゆく)、言(いう・ゆう)、王(オ
ウ・ワウ)、蛙(ア・ワ)、など、
○ 色 「色」の古代中国語音は色[shiək]である。日本語の「いろ」は古代中国語音の色[shiək]の頭音が口蓋化の影響で脱落したことばである。韻尾の[-k] はラ行に転移した。(参
照:第209話・世(よ)、第210話・山(やま))、 韻尾の[-t] がラ行に転移することは多いが、[-k] がラ行に転移する例もいくつかあげることができる。 例: 悪[ak] わるい、黒[xək] くろ、或[hiuək] ある、涸[hak] かれる、識[tjiək] しる、織[tjiək] おる
○ 御おもかげ 日本語の「おもかげ」は漢字で書くと「面影」である。「面」の古代中国語音は面[mian]であり、日本語の「おも」は語頭に母音「お」が添加されたものである。韻尾の[-n] は脱落している。韻尾の[-n] がタ行に転移したものが面(おもて)である。 「影」の古代中国語音は影[yang] である。同じ声符をもった漢字に景[kyang] がる。「影」の祖語は影[kyang] に近い音価をもっていたと考えられる。日本語の「かげ」は中国語の「影」あるいは「景」と同源である。日本語でも、人名などでは「景虎」と書いて「かげとら」と読ませたりする例もある。
○ ほゝゑむ 日本語の「ほほ」は中国語の頬[kyap] と同源である。「ほほ」
の「ほ」は中国語の韻尾[-p] をあらわしている。古代中国語の[k-] は日本語では、しばしばハ行であらわれる。 例:蓋[kat] ふた、骨[kuat] ほね、姫[kiə] ひめ、古[ka] ふるい、廣[kuang] ひろい、 干・乾[kan] ひる・ほす、果[kuai] はたす、經[kyeng] へる、
「ゑむ」の漢字は「笑」であるが、日本語の「ゑ
む」は漢字の「笑」と同義であなるが、音は関係なさそうである。
○ 如何(いか)に 「末摘む花」の冒頭の部分の引用に「いかで」というのがあった。「いかで」も「いかに」も漢語の「如何」と同源である。「如」の古代中国語音は如[njia]である。朝鮮漢字音では疑母[nj-] が脱落して、如(yeo)である。古代日本語でも疑母[h-] はカ行に転移した。 (参照:いか(如何)で)
○ 常(つね)に 「つねに」の常用訓は「常」である。「常」の古代中国語音は常[zjiang]である。「常」は訓では常夏「と
こなつ」のように「とこ」とも読む。頭音の声母[zj]は定母[d-]の口蓋化したもので、「常」の祖語は
常[dang]に近い発音だったものと考えられている。「つね」は韻尾の[-ng] がナ行に転移したものであり、
「とこ」はカ行に転移したものであろう。韻尾の[-ng]は調音の位置が[-k] と同じである。[-ng]、 [-n]、[-m]はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じである。調音の位置が近いおとや、調音の方法が同じ音は転移しやすい。
[-ng] がナ行・マ行に転移した例:常[zjiang] つね、兄[xyuang] あに、弓[kiuəng] ゆみ、浪[lang] なみ、 様[ziang] さま、霜[shiang] しも、誦[ziong/jiong] よむ、窮[kiuəm] きわまる、澄[diəng] すむ、 [-ng] がカ行に転移した例:常[zjiang] とこ、床[dzhiang]とこ、塚[tiong] つか、 茎[heng] くき、 双[sheong]六・すごろ )、桶[dong] おけ、丈[diang] たけ、衝[thjiong] つく、舂[siong] つく、 仰[ngiang] あおぐ、
迎[ngyang] むかへる 、楊[jiang] やぎ・やなぎ、
揚[jiang] あげる、 影[yang] かげ、翁[ong] おきな、長[diang] ながい、行[heang] ゆく、横[hoang] よこ、
○ あさ あさ(朝)は朝鮮語のあさ(a-chim)と同源だとされている。
○ 参照:時(第208話)、 出(い)で(第210話)、來(く)る(第210話)、 思ふ(第213話)、○みる・み(見)せる(第213話)、
音便形の表記の方法 「すべなうおぼす」
という表現の「すべなう」は「すべなく」の音便形である。「末摘む花」の冒頭の部分には「物なう、戀しく」という表現があった。「物なう」は
「物なく」の音便形である。「戀しく」は音便化すると「戀しう」となるはずである。
音便化は日本語でも、中国語語源のことばでもよく起こる。
例:格[keak]子 かうし、拍[peak]子 はうし、麹[kiuk]子 こうじ、など
現代の日本語でも「格子」は「こうし」と書くから
といって「こ・う・し」と発音するわけではない。東京や京都も「と・う・きょ・う」「きょ・う・と」
などと発音するわけではない。それはいわば表記上の約束事である。ローマ字ではTokyo、Kyotoと表記するからといって、「トキョ」「キョト」と
読むことを想定しているわけではない。表音文字は発話の不完全な模写であり、近似値である。
しかし、源氏物語の時代に「すべなく」は口語では音便化していたからころ「すべなう」と表記したのであろう。しかし、「すべなう」と書いてあるからといっ
て、「す・べ・な・う」と発音したのではあるまい。「すべなう」は音便形を示すための近似値であり、音価は「すべのう」に近かったかもしれない。
谷崎潤一郎訳『源氏物語』~末摘む花・赤鼻の姫君~
「ふりにける頭(かしら)の雪を見る人も おとらず濡(ぬ)らすあさの袖かな」
『幼者形不レ蔽
(わかきものかたちかくれず)』と誦(ずん)じ給うて、鼻の先が花の色になったえ らく寒そうに見えたおん面影を、ふと思い出されて、ついほほえみをお漏らしになります。
頭中将にあれを見せたら、どんな形容をするであろうか、いつも様子を窺(うかが)いに来る人で あるから、今に見つけられるであろうと、厄介(やっかい)にお思いになります。
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