第211話
馬の頭(かみ)の女性観~帚木~
雨夜の品定めでは、妻は子供っぽく無邪気な女を、
好みの女に育てていくのがいい、という説も出る。馬の頭(かみ)は弁舌さわやかに弁じたて、源氏の中将は聞き役にまわる。女の品定めは佳境に入り、つ
いに調度品や絵などの品定めにたとえるに及ぶ。
馬の頭(かみ)の女性観~ははきぎ~【日本古典文学大系】
馬(むま)の頭(かみ)、物定(さだ)めの博士(はかせ)になりて、ひゝらぎゐ(居)たり。
中将は、「このことわりを聞(き)きはてん」と、心に入≪れ≫てあへしらひ居(ゐ)給へり。
「よろづの事(こと)によそへておぼせ。木の道(みち)の工匠(たくみ)の、萬(よろづ) 物を心に任(まか)せて作(つく)り出(い)だすも、臨時(りんじ)のもて遊(あそ)
びものゝ、その物と、跡(あと)も定(さだ)まらぬは、そばつきざればみたるも、「げ
に、かうもしつべかりけり」と、時につけつゝ、さまをかへて、今(いま)めかしきに、
目移(めうつ)りてをかしきもあり。
大事として、まことに、うるはしき、人の調度(てうど)の、かざりとする、定(さだ)
まれるやうあるものを、難(なむ)なくし出(い)づる事(こと)、猶、まことの、物の
上手(ず)は、さまことに、見(み)え分(わか)れ侍≪り≫。 又、繪(ゑ)所に(上手(じやうず)多(おほ)かれど、墨(すみ)がきに選(えら)
ばれ、つぎつぎに、さらに劣(おと)り勝(まさ)るけぢめ、ふとしも見(み)えわか
れず。
かゝれど、人の見及(およ)ばぬ蓬莱(ほうらい)の山、荒海(あらうみ)の怒(いか) れる魚(いを)のすがた、唐(から)國の烈(はげ)しき獸(けだもの)のかたち、 目(め)に見(み)えぬ鬼(おに)の顔(かほ)などの、おどろおどろしく作(つく)り たる物は、心に任(まか)せて、ひときは目(め)驚(おどろ)かして、實(じち)には 似(に)ざらめど、さて、ありぬべし、
漢
語起源のことば
上の文章では
「物」、「中将」、「心」、「入」、「給」、「木」、「時」、「目」「移」、「大事」、「難」、「猶」、「上」、「侍」、「所」、「見」、「人」、
「山」、「國」が漢字で書かれている。しかし、このうち、音で読まれるのは「中将」「大事」「上ず」のみであとは訓読みである。 ひらがで書かれているものでも漢字音をあらわして
いるものもいくつかある。はかせ(博士)、りんじ(臨時)、てうど(調度)、ゑ(繪)、じち(實)である。
古代日本語には語頭にラ行音がくる音節はなかっ
た源氏物語の時代になると「りんじ(臨時)」のようにラ行ではじま
る漢語が使われるようになる。 ○
漢語(漢音・呉音):博士(はかせ)、中将、臨時(りんじ)、大事、調度(てうど)、 上手(じやうず手)、繪(ゑ)所、蓬莱(ほうらい)、實(じち)、 ○ 漢語起源のことば:馬(むま)、物(もの)、定(さだ)める、見(み)る、居(ゐ)る、 かざり、難(なむ)、入(いれ)る、作(つく)り、出(い)だす、時(とき)、 今(いま)、目(め)、出(い)づる、及(およ)ぶ、山(やま)、魚(いを)、 荒海(あらうみ)、唐國(からくに)、顔(かほ)、 ○ 訓(やまとことば):かみ(頭)、き(聞)く、心(こころ)、給ふ、こ
と(事)、木(き)、
みち(道)、たくみ(工匠)、まか(任)せる、あそ(遊)び、あと(跡)、 移(うつ)る、人(ひと)、猶、み(見)える、わか(分)れる、侍(はべ)る、 ゑ(繪)所(ところ)、おほ(多)い、すみ(墨)、えら(選)ぶ、おと(劣)る、 まさ(勝)る、いか(怒)る、はげ(烈)しい、けだもの(獸)、おに(鬼)、 おどろ(驚)く、に(似)る、
漢語と漢字起源のことば
○ 居(ゐ)る、今(いま)、及(およ)ぶ、山(や
ま)、 「居」「今」「及」「山」の古代中国語音はそれぞれ、居[kia]、今[kiəm]、及[giəp]、山[shean] である。中国語の介音[-i-]は隋の時代に発達してきたと考えられているが、居[kia]、今[kiəm]、及[giəp]、山[shean] はいずれも介音を含んでおり、介音の影響で頭音
が脱落したものとみられる。 参照:第209話・世(よ)、第210話・身(み)、
○ 入≪れ≫る、 「入」の古代中国語音は入[njiəp] である。源氏物語では「入る」も「入れる」も同じ
く「入る」と表記しているので、日本古典文学大系では「入≪れ≫る」として「れ」を補って、これが他動詞であることを明らかにしている。日本語の「いる」「いれる」はいずれも中国語の「入」と同源である。日母[nj] は口蓋化の影響で頭音がしばしば脱落する。
例:餌[njiə] え、如[njia] 何・いかに、熱[njiat] あつい、若[njiak] わかい、
弱[njiôk] よわい、譲[njiang] ゆずる、柔[njiu] やはら、
「入」の朝鮮漢字音は入(ip) である。朝鮮漢字音では中国語の日母[nj]は規則的に脱落して「日本」は日本(il-bon) となる。また、餌、如、熱、若、弱、譲、柔の朝鮮
漢字音は餌(i)、如(eo)、熱(yeol)、若(yak)、弱(yak)、譲(yang)、柔(yu) である。朝鮮漢字音は古代日本語に近い。
○ 出(い)づる、 「出」の古代中国語音は出[thjiuət] である。日本語の「いづる」は古代中国語の出[thjiuət] の語頭に母音「い」を添加したものである。参
照:第210話・い(出)で、
○ 見(み)る 「見」の古代中国語音は見[hyan]である。漢字の「見(ケン)」と訓の「見(み)
る」では一見関係なさそうに見えるが、古代中国語の見[hyan] の祖語は見[hmyan] のような音であったと推定できる。[h]は入りわたり音であり、入りわたり音が発達したものが「見(ケン)」であり、入りわたり音の脱落したものが「見(みる)」である。 「見」と同じ声符号をもった漢字には、看[khan]、観[kuan]、顕[xian]、現[hyan]、などがあり、いずれも音義ともに近い。宮田一郎編の『上海語常用同音字典』(光生館)に
よると、現代の上海語ではmの前に入りわたり音が来るという。
例:馬(hma)、梅(hmai)、鰻(hman)、網(hmang)、妹(hmai)、夢(hmang)、埋(hma)、慕(hmu)、
米(hmi)、寐(hmai)、
日本語の「見(みる)」「見(ケン)」はいずれも、中国語の祖語見[hmyan] に由来するものである。 同じ声符をもった漢字でも、「海」の日本漢字音は海(カイ)であり、「毎」は毎(マイ)である。『上海語常用同音字典』によると、現代の上海音では「海」は海(hai) であり、「毎」は毎(hmai) だという。日本語の「海(カイ)」は海(hai) を継承したものであり、「海(うみ)」は毎(hmai) の入りわたり音が脱落して、語頭に母音が添加されたものである。このほかにも、入りわたり音の痕跡を伝える日本語をあげることができる。
例:馬(hma) むま、梅(hmai) むめ、鰻(hman) むなぎ、網(hmang) あみ、
妹(hmai) いも、夢(hmang) いめ、埋(hma) うもる、慕(hmu) おもう、
米(hmi) こめ、寐(hmai) ねむる、
結論として、日本語の見(みる)は、中国語の「見」と同源である。
○ かざり 日本語の「かざり」は「華[hoa]飾[sjiək]」ではなかろうか。「華飾」とは美しい飾りのこと
である。中国語の韻尾[-k] は普通カ行であらわれる。「かざり」
に対応する中国語音は調音の位置の同じ[-t] であることが多い。しかし、上海方言では飾[sjiək] も室[sjiet] も湿[sjiəp] も韻尾の[-k][-t][-p] は区別されず、みな喉門閉鎖音の[?]であらわれる。「飾」が上海音のように飾(sə?) に近い音をもっていたとすれば、華飾は日本語で華飾(か
ざり)となったとしても不思議はない。
○ 荒海(あらうみ) 「荒」の古代中国語音は荒[xuang] である。白川静の『字通』によれば「荒[xuang] は凶[xiong] に近く、凶荒という」とある。中国語の喉音[x][h] は介音[-i-] の前では、しばしば脱落する。日本語の荒(あら
い)は「荒」の倭音である可能性が高い(参照:第210話・ね(根))。
「海」の古代中国語音は海[xuə] である。同じ声符をもつ「毎」の古代中国語音は毎[muə] である。「海」と「毎」とは声符が同じであること
から、随唐の時代以前に海[hmə]という音の時代があって、入りわたり音の[h-]が発達したものが海[xuə]になり、[h-]が脱落したものが毎[muə]になったものと考えることができる。 日本漢字音の海(カイ)あるいは上海の海(ハイ)
は入りわたり音[h]の発達したものに依拠した音であり、海(う
み)は入りわたり音の脱落した海[muə]に母音(う)が添加されたものである。 参照:み(見)る、第
210話・馬(うま)、
○ 魚(いを) 「魚」の古代中国語音は魚[ngia] である。古代日本語では語頭に鼻濁音がくることばがな
かったから、中国語の頭音[ng-] は介音[-i-] の影響で脱落した。朝鮮漢字音では「魚」は
魚(eo)であり、の魚(いを)は朝鮮漢字音に近い。朝
鮮漢字音では中国語の疑母[ng-]は規則的に脱落する。
例:我(a)、芽(a)、臥(a)、眼(an)、雁(an)、岸(an)、顔(an)、五(o)、呉(o)、吾(o)、玉(ok)、御(eo)、
魚(eo)、語(eo)、言(eon)、業(eop)、疑(ui)、議(ui)、迎(yeong)、月(wol)、樂(ak/rak/nak)、
○ 難(なむ) 「難」の古代中国語音は難[nan]である。難(なむ)は中国語の難[nan] の韻尾[-n] がマ行に転移し、母音が添加されたものである。難と同系のことばでは、灘(なだ)、難波(なには)などがある。古代日本語には「ン」という音節はなかったので、中
国語の韻尾[-n] [-m]は弁別されず、マ行であらわれることがある。
例:文[miuən](ぶみ・ブン)、君[giuən](きみ・クン)、浜[pien](はま・ヒン)、
○ 上手(じやうず) 「手」の古代中国語音は手[sjiu]である。手(す)は呉音とされている。受領(ずり
やう)、誦經(ずきやう)などのように、中国語の手[sjiu]、受[zjiu]、誦[ziong] は呉音では、手(ず)、受(ず)、誦(ず)となることがある。中国語では隋の時代に口蓋化が起こったといわれ、呉音はそれ以前の中国語音に準拠している可能性がある。
○ 作(つく)り 「作」の古代中国語音は作[tzak] である。日本漢字音では「作(サク)」は音、「作(つく)る」は
訓とされている。日本語の「作る」は中国語の作[tzak] と音義ともに近く、同源であろう。日本語の「つくる」には「造」があてられることもある。「造」の中国語音は造[dzuk] であり、造作という成句もある。造[dzuk] は作[tzak] に近く、「つくる」は「造」・「作」と同源である。
○ 目(め) 「目」の古代中国語音は目[miuk]である。日本語の「め」は古代中国語の目[miuk]に依拠したことばである。漢字には同じ声符をもった
文字で韻尾[-k]が脱落する例はかなりある。
例:亜(ア)・悪(アク)、意(イ)・憶(オ
ク)、異(イ)・翼(ヨク)、易(イ・エキ)、
画(ガ・カク)、造作(ゾウサ)、試(シ)・式(シキ)、漬(シ)・責(セキ)、
時(ジ)・特(トク)、避(ヒ)・壁(ヘキ)、富(フ)・福(フク)、 墓(ボ)・莫(バク)、夜(ヤ)・液(エキ)、
「目」は「眼」とも音義ともに近い。「眼」の古代
中国語音は眼[ngean]である。鼻濁音の[ng-] は調音の方法が[m-] と同じでありマ行に転移した。そして、韻尾の[-n]は脱落した。中国語の[ng-]がマ行に転移した例としては次のようなものがあ
る。(参照:第208話・御)
例:芽[ngea] め、御[ngia] み、雅[ngea]美・みやび、元[ngiuan] もと、
護[ngo] まもる、迎[ngyang] むかえる、詣[ngyei] もうでる、
また、眼[ngean] のように中国語の韻尾[-n]が脱落した例には次のようなものがある。
例:津(シン・つ)、辺(ヘン・へ)、田(デン・
た)、酸(サン・す)、帆(ハン・ほ)、
袁(エン・を)、文字(もじ)、今宵(こよひ)、本意(ほい)、
半蔀(はじとみ)、
また、同じ声符をもった漢字でも韻尾の[-n] が保たれているものと、脱落したものに読み分けられてい
る例もある。
例:軍(グン)・輝(キ)、尹(イン)・伊
(イ)、播(ハ)・番(バン)、亀(キ・キン)、
○ 顔(かほ) 日本語の「かほ(顔)」は「やまとことば」であると一般に考えられている。「かほ」には「顔」の字があてられている。「顔」の古代中国語音は顔[ngean]である。日本語の「かほ」は「顔貌」と関係のあることばではないだろうか。「顔貌」の中国語音は顔[ngean] 貌[meô] である。貌[meô] の[m-] は[p-] と調音の方法が同じであり、聴覚印象も近い。日本語の「かほ」は中国語の「顔]貌」と音義ともに近く、同源であろう。中国語の顔貌の意味は
「顔かたち」るある。
○ 唐國(からくに) 「からくに」には「唐国」の漢字があてられている。源氏物語の時代の中国は唐であるから、「唐国」という文字があてられている。しかし「から」に対応する
漢語は漢[xan] であり、「から」の語源は「漢」であろう。現在の
日本語でも中国で使われている文字を中国文字とはいわずに、漢字という。 「國(くに)」の語源は郡[giuən] であると、スウェーデンの言語学者ベルンハルト・
カールグレン(1889-1978) は『言語学と古代中国』(1920年・オスロ)のなかでいっている。日本語の「く
に」は中国語の「郡」が行政用語として入ってきたものであろうという。たしかに、朝鮮半島の北部には楽浪郡、帯方郡などがおから、この地方に住む人びとにとっては「郡」はひとつの国の役割を果たしていたにちがいない。いかがであろうか。
歴史的仮名使い
○ かうも
しつべかりけり、
歴史的仮名使いでは「かう」と「こう」が使い分け
られている。「かう」にあてられている漢字は陽韻[-ang]のもが多く、「こう」にあてられている漢字は東韻[-ong]のものが多い。
[かう]:更[keang]衣、格[keak]子、香[xiang]、剛[kang]、郷[xiang]、高[kô]、強[giang]、
交[keô]、向[xiang]、行[heang]、江[kong]、好[xu]、号[hô]、降[hoəm]、 [こう]:鴻[kong]臚館、勾[ko]欄、公[kong]、口[kho]、功[kong]、弘[huəng]、興[xiəng]、
孔[khong]、厚[ho]、紅[hong]、
○ てうど(調度) 現代の仮名使いでは「調度」は「ちょうど」と書く。しかし、歴史的仮名使いでは調度(てうど)となっている。歴史的仮名使いに「ちやう」という表記がな
かったわけではない。また、「ちよう」と表記される漢字もある。「ちやう」と表記だれる漢字は耕韻[-eng]、陽韻[-ang]のものが多い。「ちよう」は東韻[-ang]である。
[てう]:調[dyô]度、朝[diô]、銚[dyô]、誂[dyô]、嘲[zjiô]、鳥[nyu]、条[dyu]、超[thiô]、 [ちやう]:丁[tyeng]、町[tyeng]、長[diang]恨歌、帳[tiang]、丈[diang]夫、挑[dyô]、 [ちよう]:重[diong]陽、
さらに「てふ」と書くこともあった。蝶(てふ)、帖(でふ)では「ふ」は蝶[thyap]、帖[thiap] の韻尾[-p]
をあらわしている。 しかし、源氏物語の時代に、はたして「てふ」「てう」が正確に書き分けられていたかとなると、疑問も残る。源氏物語「桐壺」の冒頭に
でてくる「下﨟」は活字本では「げらふ」と書かれているが、青表紙本といわれる写本では「下羅う」と書かれている。
仮名使いは約束事であり、「てう」と書いたからと
いって調(て・う)と発音したわけではないだろう。現代の仮名使いでも調(ちょう)と書いたからといって調(ちょ・う)と読むわけでもない。「やまとこと
ば」をひらがなで書くにも、さまざまな工夫宇が必要であったが、漢語をひらがなで書くには、漢語の音韻構造に対する知識が不可欠であった。
○ じやうず(上手) 上手は現代の仮名使いでは上手(じょうず)であるが、歴史的仮名使いでは「じやうず」である。「じやう」のほかに「じよう」という表記もある。「じやう」と「じよう」は使わ
れる漢字が異なっている。「じやう」は陽韻[-ang]、耕韻[-eng]が多く、「じよう」は東韻[-ong]、蒸韻[-əng]が多い。
[じやう]:上[zjiang]手(じやうず)、
本性[sieng](ほんじやう)、吉祥[ziang](きちじやう)、
声[thjieng]明(しやうみ
やう)、精[dzieng]進(しやうじ)、装[tzhiang]束(しやうぞ
き)、 菖[thjiang]蒲(しやうぶ)、成[zjieng]仏(じやうぶ
つ)、上[zjiang]﨟(じやうら
ふ)、 [じよう]:丞[zjiəng](じよう)、
追従[dziong](ついじよう)、
縄[djiəng](じよう)、
勝[sjiəng](しよう)、
装束には装束(さうぞき)という読み方もある。「さう」には陽韻[-ang]、耕韻[-eng] などがもちいられていて、「じやう」と似ている
が、「じよう」とは違う音をあらわしているようである。
[さう]:装[tzhiang]束(さうぞき)、精[dzieng]進(さうじ)、菖[thjiang]蒲(さうぶ)、
上[zjiang]衆(さうず)、正[tjieng]身(さうじみ)、相[siang]、生[sheng]、早[tzu]、
草[tsu]、双[sheong]、倉[tsang]、筝[tjiu]、
谷崎潤一郎訳『源氏物語』~帚木・馬の頭(かみ)の女性観~
馬頭(うまのかみ)は審判の博士(はかせ)になって、ひとりで弁じ立てています。
中将は今の議 論を最後まで聞いてしまおうと、熱心に相手をするのでした。
「いろいろのことに擬(なぞら)えて考えてごらんなさいませ
たとえは細工人は、よろずの器を 思いのままに作り出しますが、その場限りの翫弄物(もてあそびもの)、これというきまった型の ない品物ですと、一風変
わった洒落(しゃれ)たものを拵(こしら)えましたら、なるほどこれも 趣向であると思われて、当世向きに、目先を変えたところが嗜好(しこう)に叶い、
面白いことも あるでしょう。 けれども、大切なものとして本当にきちんと整った調度品の装飾とする、一定の様式のあるものを 欠点なく作り出すことになりますと、やはり本当の名人は、そうでないものと様子が違って見分け られます。
また絵所(えどころ)には達者な絵師が大勢いますが、下絵を画(か)かしてみただけでは、誰が 誰に勝(まさ)っているとも、ちょっと区別がつきません。
ですが、人間が見たことのない蓬莱(ほうらい)の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国(からくに)に 棲(す)む凄い獣(けもの)の形、眼に見えぬ鬼の顔などと
いった仰々しい仮作物(かさくぶつ) は、空想に任せて思い切って人目を驚かすように画きさえすれば、実際とはかけ離れていましょう とも、それで通って
しまうでしょう。
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