第1話 古代日本語の来た道 ヨーロッパでは19世紀に言語系統論の研究が盛んに行われて、ヨーロッパのほとんどの言語はサンスクリットなどインド大陸のことばとともにインド・ヨーロッパ語族という言語系統に属することが明らかに
なった。しかし、日本語の系統については専門家のあいだにもさまざまな説があり、いまだに定説はない。 明治時代に来日した外国人も日本語に大いに興味をもった。英国大使館書記官補のアストンは明治12年に「日本語と朝鮮語との比較研究」を発表して日本語と朝鮮語との類縁関係を論じた。また、フィンランド
大使館の代理公使ラムステッドは、日本語がアルタイ系の言語である蒙古語や朝鮮語と関係があることを説いた。 日本では戦後、皇国史観がくずれてくると新たなアイデンティティーを求めて日本語の起源を求める本があいついで出版されるようになった。医師の安田徳太郎は『万葉集の謎』という本を書いてレプチャ語を日
本語の祖先だとした。「わたしはヒマラヤの谷底で、万葉時代の日本語を、現にしゃべっている民族につきあたった。それだけではない。かれらはわたしたちと同
じに、アカンとか、ソワソワとか、シドロモドロという言葉までしゃべっていた」。レプチャ語とはネパールとブータンの中間にあるシッキムで使われているこ
とばである。 国語学者の大野晋は1957年に『日本語の起源(旧版)』をだして、日本語ブームをリードした。この時点では、大野晋は日本語アルタイ語起源説だった。しかし、1980年代になると『日本語とタミル語』をだして『日本語の起源(旧版)』は絶版にしてしまった。 レプチャ語にしてもタミル語にしても、普通本屋では入門書すらほとんど手にはいらないので、検証することはむずかしい。 古代の日本には日本語はあったが、それを記録するテープレコーダーもなく、文字すらなかった。日本語には碑文や金石文もなく、日本が本格的に文字時代に入るのは八世紀である。古事記、日本書紀、万葉集の
時代にはまだカナもなく、日本語は中国語を記録するために作られた漢字によって記録されている。 現代の日本語のルーツを探ろうとすると記紀万葉の時代の日本語のなかに、それ以前の時代、弥生時代の日本語の痕跡をさぐるよりほかに方法はない。 幸いなことに万葉集の時代の漢字が唐でどのように読まれていたかは、唐詩の韻を研究することによって、かなり正確に復元できる。また、最近では隋唐の時代以前の漢字音も『詩経』(紀元前600年ごろ成立)などを研究することによって明らかにされつつある。これらの成果を取り入れることによって古事記、日本書紀、万葉集などに使われている漢字の音価を再構することができる。 また、日本の古地名のなかには漢字の読み方が呉音とも漢音とも違うものが数多くある。相模(さがみ)、香山(かぐやま)、當麻(たぎま)、因幡(いなば)、讃岐(さぬき)、敏馬(みぬめ)などである。文
字をもった民族が無文字社会に入ってきて最初に記録する言語は地名や人名などの固有名詞であろう。地名や人名も古代日本語を解明する鍵を与えてくれる。 古代の日本人はどんな名前をもっていたのであろうか。古事記、日本書紀を読むとさまざまな名前の日本人が登場する。天皇の名前なども、例えば、雄略天皇は「オホハツセワカタケ」と呼ばれていた。古事記で
は「大長谷若建」、日本書紀では「大泊瀬幼武」と表記されている。「ワカ」には日本書紀では「幼」、古事記では「若」があてられているが、これは後の解釈ではないかと思われる。「王」の中国語音は王(wang)である。相模の相(ソウ)が相(さが)、香山の香(コウ)が香(かぐ)、當麻の當(トウ)が當(たぎ)であるように古代の王(オウ)は日本では王(わけ)と呼ばれていたのではあるまいか。北「ホク」が北
条「ホウジョウ」と音便化したように、5世紀の王「ワカ」は8世紀には王「オウ」と音便化して発音されるようになったのである。 漢字の読み方には音と訓があり、音は中国語音に準拠したものであり、訓は日本古来のやまとことばを意味の同じ漢字を借りて表記したものだとされている。梅(バイ・うめ)、馬(バ・うま)、文(ブン・ふ
み)、君(クン・きみ)のごとくである。しかし、梅(うめ)、馬(うま)は文字時代以前における中国語からの借用である可能性が高い。古代日本語には濁音
ではじまることばはなかっただからバ行の濁音は古代日本語ではマ行で置き換えられた。文(ふみ)、君(きみ)についても同じことがいえる。古代日本語には
「ン」で終わる音節はなかった。だから、文(ブン)は文(ふみ)に君(クン)は君(きみ)に最後の音節に母音を付け加えて発音された。 日本には国学、漢学、西洋言語学ということばに関する三つの異なる学問の系統がある。国学は日本の古典を研究する学問である。本居宣長は『古事記』のなかに日本的なるものを見出し、日本文化の独自性を強
力に主張した。「漢(から)ごころを清くはなれる」ことによって、神の御典(みふみ)である『古事記』のなかに「やまとごころ」を見出そうとした。本居宣
長は古代アジアの歴史を規定した中国文化の痕跡を拭い去ることによって、『古事記』を日本の古代文化の中心に据えることができたのであるり、日本語の独自
性、日本文化の特異性を強調することができきた。この考え方は明治以降も受け継がれて、日本語は日本人、日本文化、近代国家日本と一体のものとして、西洋
文化の普遍性に対する、非西洋の特殊性を示す柱として位置づけられてきた。 漢学は中国文化の精髄である漢語の文献を研究し、漢字文化圏の東の果てである日本に中国文化の精華を伝えることを目的とした学問である。漢字の伝える文化が大切なのであり、唐詩の韻には関心を示したもの
の中国語の音韻体系などにはほとんど興味を示さなかった。中国人との対話はまれにしかなく、しかも筆談でことたりた。 明治以降はいってきた言語学は西洋の言語を対象としたものであり、インド・ヨーロッパ系の言語にはあてはまっても、それ以外の言語にはあてはまらないことが多かった。西洋言語学の知見は、その後未開言語
の研究などによって進展したが、日本語の系統論の発展にはほとんど寄与することがなかった。 日本の学問は師資相承であり、国学・漢学・一般言語学はほとんど互いに影響を与えたり、受けたりすることがなかった。国語学者は言語学について知らず、言語学者は日本語について知らない。そして、国語学
者も言語学者も中国語・朝鮮語をはじめとするアジアの言語についてはほとんど関心をはらわない、とう残念な結果になっている。理工系の学問では実用上の必
要から学際的研究が盛んになってきているが、ことばの学問は専門分野がますます狭くなり、統合する力に欠けているようみえる。 しかし、古代日本語の来た道を解明するためには、国学・漢学・一般言語学の知見を統合する努力が必要である。言語の起源の研究は、どうしても、思弁的になりがちである。検証可能な資料により、できるだけ
諸説を検証していく実証的な姿勢が求められているのではなかろうか。 |
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☆第106話 日本語と近いことば・遠いことば |