第3話 文字時代のはじまり 5世紀の日本語は渡来人が書いたものであり、日本人が書いたものではあるまいという見解もあるが、当時文字を扱う専門集団である史(ふひと)は渡来人であ
り、渡来人が大和朝廷を支える専門集団となり、その子孫がやがて日本人を形成していくわけだから、古墳時代の文字使用者が日本人であったか、渡来人であっ
たかという問いはほとんど意味をなさない。
朝鮮半島では日本より早くから漢字が使われていた。高句麗では国の初め(紀元前37年)から漢字が使われている。漢字は中国語を表記するための文字であっ
たが、朝鮮語を表記するのにも用いられた。朝鮮半島では誓記体、吏読、郷札など、漢字を使って朝鮮語を表記する試みが早くから試みられていた。 慶州にある石丈寺の跡から1940年に「壬申誓記石」という石碑が発見された。そこには「若國不安大乱世 可容行誓之」と記されていた。「若(もし)国安からず大乱世になれば、可(よろし
く)容(すべからく)<忠道を>行わんことを誓う」と読める。この文章は漢字で書かれているが、その語順は中国語とはまったく違う。漢字を新羅語の語順で
並べたものである。このような漢字の用法を誓記体という。日本語は朝鮮語と語順が同じだから万葉集などでもこの方法が用いられた。『人麻呂歌集』にある次
の歌はその例である。
戀事 意追不得 出行者 山川 不レ知
来(万2414)
恋ふる事 なぐさめかねて 出て行けば 山も川も 知らず来にけり また、壬申誓記石にある「可容行誓之」の「之」は中国語にはない用法だといわれている。これと同じ漢字の用法が日本にも残されていた。昭和54年に奈良市で古事記の筆録者である太安万侶の墓誌が発見された。そこには銅板でつぎのように記されていた。 左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以葵亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳
「卒之」とある「之」は壬申誓記石で使われている「之」と用法が同じで、朝鮮語の動詞の終止形を表す書記法がそのまま用いられている。 古代の「やまとことば」は漢字で書かれているが、隋唐の時代の中国語の知識だけでは解明できないものがある。たとえば、日本の古地名や天皇のおくり名である。地名や人名のなかには普通
に呉音や漢音と呼ばれる音ではない、より古い時代の漢字音が使われていることがある。また、朝鮮漢字音の痕跡も認められる。日本語は弥生時代の初めから中
国語から多くの語彙を借用して「やまとことば」のなかに取り入れてきた。また、朝鮮半島を経由してきた借用語も多く、朝鮮漢字音の影響もみられる。 |
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