第6話 やまとことばのなかの借用語

 「やまとことば」のなかに、中国語からの借用語が含まれている可能性があることを最初に指摘し
たのは、スウエーデンの言語学者カールグレンであった。カールグレンは『言語学と古代中国語』
(1920)という論文のなかで、日本語の馬「うま」、梅「うめ」、絹「きぬ」、竹「たけ」、麦「むぎ」、鎌「かま」、など24の単語をあげて、これらは古い時代に中国語から借用されて、日本語のなかに取り入れられ たことばである主張した。

 これに対して日本人の言語学者亀井孝は”Chinese Borrowings in Preliterate Japanese”「文字時代以前の中国語からの借用語」という英語の論文を書いて詳細に反論している。確かにカールグレンが例示した単語のなかには論拠不十分なものも含まれて いるように思われる。亀井孝はカールグレンのあげた例を三つに分けて反論している。

1.あるいは認めてもよいかと思われる例
  郡(くに)、絹(きぬ)、馬(うま)、梅(うめ)

2.多分に疑わしい例
  琢(とぐ)、剥(はぐ)、築(つく)、析(さく)、槅(かき)、熱(なつ)、閾(ゆか)、邑(いへ)、室(さと)、松(すぎ)、麦(むぎ)、竹(たけ)、盆(ふね)、坩(かま)、鎌(かま)、秈(しね)、

3.間違いなく誤りと認めうる例
  湿(しほ)、蛺(かひこ)

 亀井孝は日本の国語学者のなかでももっとも一般言語学に造詣の深い学者の一人である。 しかし、亀井孝にして「やまとことば」の純粋性に対する確信に迷いはなかったのであろう。カールグレンの投げかけた主題は検証され、発展されるべきもので あった。しかし、日本の学界は外国の学者に対して鎖国することによって、純粋に日本的なるものを守ろうという方向に動いてしまったのである。

中国では最近、王力などによって『詩経』など紀元前600年ころに成立した詩の押韻の研究が進み、古代中国語の音韻構造が明らかになってきた。それにとも なって、「やまとことば」のなかには隋唐の時代よりかなり前の中国語音に準拠した借用語があるのではないかということが、次第に明らかになってきた。

漢字は象形文字であるからアルファベットと違い、発音が変わっても文字の形が変わることがない。例えば馬という文字は馬(メ・マ・バ)と読み方が変わったと しても「馬」と書かれる。それに対して、表音文字であるアルファベットでは発音が変わると、やや遅れて文字も変わってしまう。英語のhorseは古代英語ではhros, horsであり、中期高地ゲルマン語ではros, ors、 現代ドイツ語ではross、古代ノルウェー語ではhrossとして表れる。ラテン語ではcurrereで「走る」という意味である。ところが漢字文化圏では馬は古代から現代まで「馬」だから、ことばの変化をたどることはむずかしい。

馬は朝鮮語ではmalであり、モンゴル語ではmoirである。中国語の「馬」は騎馬民族からの借用語である可能性がある。『魏志倭人伝』には日本には馬はいないと書かれている。万葉集では「馬」は馬、宇麻、宇 万、牟麻などとしてあらわれる。「梅」は万葉集では梅、烏梅、宇米、有梅、于梅などとしてあらわれる。中国語の馬、梅のことだが日本語では中国語と発音が 違うことをなんとか示そうとしているようにもみえる。

カールグレンの提言を検証してみると、梅(うめ)、馬(うま)、ばかりでなく、味(うまい)、美(うまし)、没(うもる)、牧(むまき)、ばかりでなく夢(い め)、妹(いも)、未(いまだ)や海(うみ)も文字時代以前における中国語からの借用であることが明らかになる可能性がある。

「やまとことば」のなかには古代中国語からの借用語があり、漢代の中国語音を反映している。日本漢字音は、呉音も漢音も、隋唐の時代の中国語音に準拠したしているが、その前に、漢代の古代中国語音を継承 した弥生時代の借用音があることが明らかになる。

 



もくじ

☆第56話 言語学者カールグレンの卓見

★第62話 やまとことばのなかの中国語

☆第63話 国語学者亀井孝の反論

★第64話 国学の伝統

☆第65話 やまとことばは純粋か(1)

★第66話 やまとことばは純粋か(2)

☆第67話 やまとことばは純粋か(3)