第5話 カナ以前の日本語 8世紀になると古事記、日本書紀、万葉集が成立し、日本語の形が見えてくる。仮名ができるのは平安時代になってからだから、奈良時代の日本語は漢字だけで
書かれている。古事記は「やまとことば」を漢字で表記したものだと考えられている。日本書紀は日本語的な表現も含まれているものの、中国語としても読める
ように漢文で書かれている。日本語として読むときにはレ点や返り点をつけて、送り仮名をつけて読む。万葉集は詞書の部分は漢文で書かれているが、歌は漢字
の音や訓を使って「やまとことば」で書いてある。 万
葉集の歌のなかには、その読み方がわからなくなってしまっているもの、読み方に諸説あるものなどがあって、万葉集は完全に解読されているわけではない。万
葉集の漢字の使い方は、朝鮮半島で発達した誓記体、吏読、郷札など、漢字で朝鮮語を表記する方法を継承している。柿本人麻呂の歌に有名な「東(ひむがし)
の 野にかぎろひの 立つ見えて かへりみすれば 月傾きぬ」という歌がある。この歌は万葉集では次のように表記されている。 東野炎 立所レ見而 反見為者 月西渡(万48) この歌では「東(の)野(に)炎(の)」というところは日本語の助詞は表記されていないが、「立所レ見而」の「而」、「反見為者」の「者」は日本語の助詞を表記するために用いられている。これは朝鮮半島で行われた吏読(リトウ)という漢字の使い方と同じである。例えば、葛項寺造塔記(758年)には「姉者照文皇太后君、、、妹者敬信大王、、、」のように「者」は朝鮮語の主語をあらわす助詞に使われており、日本語に置き換えれば「、、は」にあたる。柿本人麻呂は朝鮮半島における誓記
体や吏読など朝鮮語を漢字で書き表すために考案されたさまざまな書記法を駆使して、漢字で日本語を書き表そうとしている。 万葉集には解読不能な歌が何首もある。秀歌というわれる歌でも読み方は確定しているわけではない。 渡津海乃 豊旗雲爾 伊理比紗之 今夜乃月夜 清明己曾(万15) わ
たつみの 豊旗(とよはた)雲に 入日さし 今夜(こよひ)の月夜 清明(あきら)けくこそ しかし、最後の清明(セイメイ)は日本語の何をあらわしているかについては、古来さまざまな解釈がなされている。古くは「スミアカクコソ」と読まれていたが、江戸時代に賀茂真淵が「アキラケクコソ」と
読みかえた。主な読み方をあげてみると次のようになる。
サヤニテリコソ(佐々木信綱)、キヨクテリコソ(伊藤左千夫)、キヨクアカリコソ(武田祐吉)、サヤケカリコソ(斎藤茂吉)、キヨラケクコソ(折口信夫)、 斎藤茂吉は「ここは、スミ・アカク、或は、キヨク・テリ、或は、キヨク・アカリの如く小きざみ 万葉集の歌は「やまとことば」の姿をよく伝えているといわれる。しかし、いわゆる「やまとことば」は純粋ではなく、弥生時代以降中国文化との接触のなかで、
中国語から借用された語彙が数多くふくまれている。弥生時代の借用語は日本語のなかに定着していて、万葉集の時代にはもはや外国語であると意識されなく
なってしまっていた。次にあげる漢字の訓は他人のそら似にしてはあまりにも中国語音に似すぎていないだろうか。 巣
(ソウ・す)、洲(シュウ・す)、舌(ゼツ・した)、竹(チク・たけ)、筆(ヒツ・ふで)、麦(バク・むぎ)、帆(ハン・ほ)、牧(ボク・まき)、幕(バ
ク・まく)、枯(コ・かれる)、指(シ・さす)、死(シ・しぬ)、染(セン・そめる)、占(セン・しめる)、耐(タイ・たえ る)、透(トウ・とお
る)、剥(ハク・はぐ)、舞(ブ・まう)、迷(メイ・まよう)、 これらの単語は発音が近く、意味は音も訓も同じである。訓で読まれ、やまとことばと考えられてきたことばのなかに古い時代の中国語からの借用語が含まれてい
ないか、検証してみる必要がある。これらの音と訓の間の対応関係が確認されれば、これらのことばは弥生時代、古墳時代における中国語からの借用語だから、
呉音でも漢音でもなく、「弥生音」と呼ぶのがふさわしい。「弥生音」は「やまとことば」のなかにその痕跡を残している。 |
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