第86話 日本語の系統論

世界には5000を超える言語があるという。そのなかで日本語はどこに位置づけられるのだろうか。日本語の起源をたどることは、日本人のルーツを遡るという 難題に直面せざるをえない。しかも、その歴史は、日本という国家が成立するはるか以前に遡る。日本語の系統については大きく分けて二つの考え方がある。ひ とつは北方起源説であり、もうひとつは南島起源説である。

北方起源説では、日本語はモンゴル語や朝鮮語とともにアルタイ系の言語であると考える。日本語と朝鮮語が同系であるとする白鳥庫吉や金沢庄三郎の説もこれに 属する。朝鮮語学者の金沢庄三郎は『日韓両国語同系論』(明治43年)のなかで「韓国の言語は、わが大日本帝国の言語と同一系統に属するものにして、わが 国語の一分派たるに過ぎざること、あたかも琉球方言のわが国語におけると同様の関係にあるものとす」としている。金沢庄三郎は日本語が本家で朝鮮語が分家 であると主張している。明治43年初版といえば、日本が韓国を植民地として支配した、日韓併合の年である。こうした考え方は、日韓併合にも政治的に利用さ れるところとなった。

戦前は日本語アルタイ系説が主流で、新村出の『国語系統の問題』(1911)、金田一京助『国語史系統論』(1938)などがアルタイ説を支持している。国 語学者の橋本進吉は、アルタイ系言語にみられる母音調和が、奈良時代の日本語にもあることを発見して、日本語アルタイ系説をさらに裏づけた。

戦後は南島起源説が多い。南島起源説には古くは泉井久之助の説があり、村山七郎、川本崇雄、松本信宏、土田滋、崎山理などが支持している。朝鮮語と日本語は 共通の語彙が少ないのにたいして、オーストロネシア系(南島系)のことばのなかには日本語と似た単語が多いという。また、安本美典はビルマ語、カンボジア 系、インドネシア系の語彙との関係を指摘し、西田竜雄はチベット・ビルマ語と日本語の語彙の類似を指摘している。

日本語の音節が母音で終る開音節であるのは、オーストロネシア系の言語の影響であると南方起源説は主張する。さまざまな研究者が日本語の語彙と関係のあると 思われる語彙をランダムに指摘している。人体に関係のある語彙は言語にとって基本的な要素であり、借用されることは少ないとされている。その人体に関する 語彙を南島語のなかに探してみると、つぎのようなものがあるという。

  目mata(インドネシア語、マライ語、フィジー語、サモア語)、目maas(トラック諸島語)、
panga(タガログ語)、口gutu(サモア語)、口nutu(マオリ語)、
のど
nunsu(マライ・ポリネシア語)、

大野晋は1957年に『日本語の起源』(岩波新書)を出版してベストセラーになった。1957年版の『日本語の起源』で大野晋は日本語アルタイ語系説を展開 している。しかし1990年代に入ると大野晋は日本語タミル語起源説に変ってしまった。大野晋は『日本語の起源』(旧版)を絶版にして、新たに『日本語の 起源』(新版)ではインド南部やスルランカの一部で話されているタミル語と日本語の類似を指摘している。

大野晋は『日本語以前』(岩波新書)のなかで「もし仮に中国の雲南に、あるいはアジアの西部に一つの(原日本語・ドラビダ語というべき)中心があったとすれ ば、一つの波は東進して日本に着き、南進したものはインド大陸に進み入ってそこに広まった」という仮説を立てているところから判断すると、タミル語やドラ ビダ語が日本語の祖語だと主張しているわけではない。どちらが本家、分家といっているのではなくて、タミル語の属するドラビダ語族という系統の言語があっ て、日本語もタミル語もそれがおそらくはもはや存在しない何らかの共通の祖語から発展してきたのだと主張しているようである。

インド南部、および、北部の小さな飛び地ではタミル語が使われている。印欧語族に属する部族がインド亜大陸に来襲する以前には、インド亜大陸の大半ではタミ ル語が使われていたと考えられている。タミル語と日本語が同系だという説は定説にはなっていないが、アルタイ系説にたいするアンチ・テーゼとして受けとめ られている。

また最近では、日本語多重構造説が登場して、南方説と北方説を整合的に統合しようとする試みも行なわれている。日本語は南方系だが、そのうえに北方系の要素 がかぶさった、とする説である。日本語多重構造説にも2説あって、一方は南方語が基層だと考えるみかたであり、もう一方は北方語が基層だと考える。

南方語基層説では、縄文時代の日本ではオーストロネシア系の言語が話されていたが、縄文晩期から弥生初期にかけて朝鮮半島を経てアルタイ系言語を話す人々が渡来して、アルタイ語の文法構造のなかにオース トロネシア系の縄文語の語彙を取り入れて日本語が成立したとする。

北方語基層説では、日本列島では縄文時代まではアルタイ系の言語Aが行われていた。そこへ、優れた稲作文化を担った南島語族が入ってきて、言語Bをもたらしたと考える。

言語は接触によっても近隣の言語の影響を受ける。大航海時代以降はヨーロッパの言語がアフリカ大陸や南北アメリカ、太平洋の諸島やカリブ海諸島でも話されている。日本語のなかにも英語の語彙がたくさんは いってきている。

人類の歴史のなかで人間が言語を獲得したのは10万年前のことだと考えられている。しかし、そのなかで文字としてことばが記録に残されているのは最も古いも のでも数千年前のものにすぎない。文字として刻まれた言語の歴史には欠落があり、文字資料だけから言語の起源にいたる歴史をしることはできない。人類はア フリカ大陸に発生して世界に広がっていったというのが現在の学界の通説である。人類は古い時代から旅をし、民族移動を繰り返してきた。農耕生活がはじま り、人類が定住をはじめる以前の世界では、移動が常態であったといえるかもしれない。日本列島に住むようになった人々も日本列島にきてからことばを話すよ うになったわけではない。日本列島へたどりつく前にさまざまな言語の人びとと接触し、その言語の影響を受けてきたに違いない。

言語の系統論は生物の進化論の影響を受けて19世紀に確立された。生物の系統図は下等生物を底辺として人間を頂点として描かれている。言語も自然淘汰によっ て生成し、優れたインド・ヨーロッパ語族がその頂点にたっている。言語の優越性が民族の優越性の根拠とされた。ユダヤ人の言語であるセム語はインド・ヨー ロッパ語族の外におかれ、言語による民族差別に利用された。しかし、民族と言語の起源を同一視することはできない。生物は異種交配をせず、突然変異によっ て進化するが、人間の獲得物である言語は貸し借りされうる。言語の生成を系統樹によってのみ説明することはできない。言語の系統樹説にたいして、言語の伝 搬を重く見る波動説も無視することはできない。

日本語の周辺には、朝鮮語、中国語のほかにも、アイヌ語、南島語(オーストロネシア語)などがあり、日本語がその影響を受けていないとはいえない。しかし、 日本人は中学校から義務教育で英語は習っているものの、朝鮮語やアイヌ語については基礎的知識しかないのが実情である。ましてや、日本語とタミル語が類似 しているといわれても、その輪郭すらつかむことができない。以下の夜話では、朝鮮語、アイヌ語、チャモロ語(グアム、サイパンの言語)、台湾原住民の言 語、それにタミル語について、日本語との関係をどこが似ていて、どこが異なるのか、言語形態を類型としてとらえてみることにする。

もくじ

☆第87話 日本語とアイヌ語

★第88話 アイヌ神謡集を読む

☆第89話 日本語と朝鮮語

★第90話 日本語とタミル語

☆第91話 日本に一番近い南島のことば~チャモ ロ語~

★第92話 台湾原住民のことば

☆第93話 比較言語学の方法

★第95話 言語の類型

☆第106話 日本語と近いことば・遠いことば