第94話 言語の起源はひとつか 「はじめに言葉ありき」という。聖書によると、言語は神がエデンの園で人間に与えたものであり、人類は最初ただ一つの言語を話していたことになっている。その言語はヘ ブライ語であった。旧約聖書の創世記によれば、人間が天に達するような高さの「バベルの塔」を作ろうとしたことを怒った神が、これを作った人々の言語をい くつにも分けてお互いに通じないようにして、塔の建設をやめさせたのだという。言語の起源がひとつであれば、人類の言語は日本語も中国語もチャモロ語もア イヌ語もみな兄弟ということになる。 世界中に人跡未踏の土地がなくなった今、探検家や人類学者がえた結論は、文字をもたない種族は数多くあるが、言葉を話さない人間は未だに発見されていないと いうことである。近代言語学の発達によってヘブライ語よりも古い言語があることが分かってきた。そして言語神聖起源説も否定されている。しかし、言語は人 類に固有のものであり、人類とともに言語はあったということは確かであろう。また、未開の民族の言葉は単純であろうという大方の予測に反して、未開人の言 葉も文明人の言葉に勝るとも劣らない複雑さをもっていることも、次第に知られるようになった。 ヒトがチンパンジーから分かれたのは、DNAの類似性から推定すると七百万年前であるという。人類はいつから言語を話しはじめたのだろうか。考古学者の研究によると、現代人の祖先といえる人類はおよそ 20万年前アフリカに登場して、10万年前に移動を始め、ヨーロッパやアジアに到り、5万年前にはさらにそこからオーストラリアへ、太平洋の島々へ、南北 アメリカへと移動していったという。ネアンデルタール人は、約10万年前から3万年前にかけて生存し、人類はそのころまでには言語を獲得していたというの が定説である。 日本人の祖先は日本列島がまだシベリアと陸続きだったころ、マンモスを追ってここにやってきた。その原日本人が言語をもっていたことは疑う余地がない。日本語は現在世界で使われている5000とも6000ともいわれる言語のなかのひとつであり、日本人だけのために神が作りたもうた特殊な言語であるわけではない。数万年にわたる人類の歴史のなかでさまざまな変 遷を経て現代の日本語は形成されてきたものである。しかし、日本人の記録が中国の記録に表われるのは3世紀のことであり、人類が言語を獲得したと考えられ る10万年の歴史のなかで、おぼろげながらも記録がたどれるのは約2千年に過ぎない。 日本人はイザナギ・イザナミの子孫であり、日本語は神とともにあったと考えれば、日本語は日本列島で生れたことになる。しかし、ヨーロッパの言語がアダムと イブの時代より古い祖先につながっているように、日本語もまたイザナギ・イザナミよりふるい祖語にたどりつく蓋然性のほうが高い。日本列島にたどりついた 最初の人類はすでに言語をもっていたと考えるほうが自然なのである。その言語がどのような言語であったのか、文字を持たない言語は記録を残さないから、そ れを復元することはできない。 人類は1回だけ生まれて、さまざまな人種に分かれていったとしたら、人類の言語の祖語もまたひとつであるということになる。言語が人類の進化とともに生まれ、言語の発 生が一度だとすると、現在世界中にある言語はすべて世界祖語の末裔であり、言語として共通の特性をもっているはずである。しかし、インド・ヨーロッパ祖語 の構築に成功した歴史言語学者も、世界祖語を構築するにはいたっていない。 人間の言語は人間の脳が発達するのにつれて発達していったに違いない。最近の言語学者は、人間が誰でも言語を話す潜在能力をもっていて、人間だけが言語を操 ることができるのは、言語能力が生得のものであり、人間は生まれたときから普遍言語をインプリントされてくるのではないか、と考えるようになった。普遍言 語をインプリントされて生まれてきた赤ん坊は、大人ならとうてい覚えられないような複雑な言語をたちどころに解明し、習得することができる。 言語学者のノーム・チョムスキーはある講演で、「火星人からみたら、人間はすべて単一の言語を話している」と述べている。人間に特有な言語能力は、人間の脳の生得的 な性質に由来する。言語に規則があるのは、人間が規則的な言語を作ったためではなく、言語が自然の法則に従っているためである。世界のあらゆる言語の底に は、同一の記号操作があるとチョムスキーは考える。 ここ数年の研究では、言語間差のさまざまな選択肢を辞書部門の下位部分に限定し、初期能力に帰属させることができる、言語の一般原理が確認され、ある程度の成果をおさめております。言語表現のもつ形式と関係とを決定している、言語の「演算 システム」は、実は不変であると言えるのです。この意味で、理性を持った火星人ならば仮定したように、単一の人間言語が存在するのです。個別言語の獲得と いうのは、簡単な、利用可能なデータを基にして、語彙的な選択肢を固定する過程なのです。研究の目標でいまや現実的なやり方で少なくとも定式化はすること ができるものは、一つには、許される有限の語彙的変異の範囲内でそのような選択肢をすべて固定することにより、ハンガリア語であれスワヒリ語であれ個別言 語を、文字どおり導くことができる、ということです。(チョムスキー『言語と思考』松柏社叢書p.46) チョムスキーは深層構造と表層構造という言葉で、普遍言語が現実の言語として表れる仕組みを説明している。チョムスキー学派の言語観は、この50年の間にかな り発展し、修正も加えられている。チョムスキーは知の革命家であり、自説を破壊しながらつぎつぎに新しい理論を展開しているが、その考え方の骨子を著者流 に説明すればつぎのようになる。 例えば、ラテン語ではCanis hominen mordet.といえば「犬が人間を咬む」であり、Homo canem mordet.といえば「人間が犬を咬む」ということになる。ラテン語は格の表示が明確であり、canis(犬)、homo(人間)は主格でありcanem(犬を)、hominen(人間を)は目的格であることが明示されている。だから、ラテン語では、単語の順序を入れ替えても意味が取り違えられることはない。しかし、英語ではA dog bites a man.とA man bites a dog.では意味が逆になってしまう。ラテン語では格が関係を示し、英語では語順が関係を示す。しかし、それは表にあらわれた言語の表層構造であって、深層構造はラテン語も英語も同じである。 日本語ではどうであろうか。「犬が人間を咬む」、にしても「人間が犬を咬む」にしても、主語+目的語+動詞という語順が一般的である。しかし、日本語には助詞があるから「犬を、人間が咬 む」と語順を変えて同じことを言うこともできる。それにたいして、中国語は前置詞や後置詞がないから、語順は意味を伝えるうえで決定的な役割をはたす。 「犬咬人間」と「人間咬犬」の違いは、語順によってしか伝えられない。 ラテン語は語順が自由な言語であり、中国語は語順を変えられない言語である。英語は語順がかなり不自由な言語である。日本語は後置詞(助詞)があるので、語順を変える こともできるが、基本的にはSOV(主語+目的語+動詞)という語順をもった言語である。英語や中国語はSVO(主語+動詞+目的語)という語順の言語で ある。言語の構造は多様であるが、さまざまな言語は語順とか、前置詞、後置詞などという言語のもついくつかの仕組みのなかから、いくつかを選んで組み合わ せることによって意味の伝達を可能にする文法を成り立たせていることになる。 ある言語の基本的語順が日本語や朝鮮語のようにSOVであれば、後置詞(助詞など)が使われることが多く、疑問詞は文末にくるのが通例である。逆にある言語の基本語順 が英語やドイツ語、フランス語などのようにSVOであれば、前置詞が使われることが多く、疑問詞は文頭におかれることが多い。「犬が人間を咬む」のか「人 間が犬を咬む」のか、どの言語を使っても間違いなく意味を伝達できるのは「言語は深層構造が同じであり、それが個別言語の限られた文法規則によって変形さ れ、表層構造に割り付けられている」だけだからだというのであるということになる。 言語の深層構造を語順によって示すか、前置詞や後置詞によって示すか、あるいは格変化によって示すのかは言語によって異なる。その変換装置が人間の脳に埋め込まれてい て、赤ちゃんはその演算プログラムを獲得する。人間は誰でもこの演算プログラムを獲得することのできる能力をもって生れてくる。異なった言語を話す人は、 深層構造を個別の演算プログラムにしたがって、表層構造に変換しているだけだ、ということになる。 赤ん坊は深層構造を翻訳する仕組みを3歳くらいまでに獲得する。3歳を過ぎた大人がそれを習得することは困難である。6歳までは確実に言語を獲得できるが、それ以後は確実性が徐々にうすれ、思春期を過ぎ ると外国語を完璧にマスターする例はごくまれである。 チョムスキー学派によれば、順序を規定しないスーパールール(原理)は普遍的であり、かつ人間生得のものであるという。子どもは言語を学習するのではない。子 どもは成長するにつれて歯が生えてくるように、あるいは歩行を覚えるように、人間の生得の能力として言語のプログラムを獲得するのである。 日本語は基本的にSOV言語であり、後置詞(助詞)を使い、疑問詞を文末に置く言語である。中国語はSVO言語であり、前置詞も後置詞も使わない。しかし、日本語も中国語も深層構造は同じで、それを変換する方式が違うだけである。普遍文法は同じだと考えれば、世界の言語は多様ではあるが、基底では類似してい てあたりまえだということになる。 日本人は漢文を読むとき、返り点やレ点をつけて日本語の語順になおして読む。たとえば論語の冒頭の部分はつぎのようになる。
子日、学而時習レ之、
不ニ亦
説一乎、 これを、さらに日本語の助詞や活用語尾を補って、日本語に変換する。
子日わく、学びて時に之を習う、亦た説(よろこ)ばしからず乎(や)、 中国語の文章を日本語でも理解できるのは、日本人も中国人も、脳に言語中枢をもっており、脳の左半球にある言語中枢が複雑な心的計算によって、言語を成生できるからである。中国語も日本語も表層構造は ちがうが、深層構造は同じであるということになる。 チョムスキー は、言語は表面的の多様性にもかかわらず、相違するところはきわめて少ないと主張する。基底は深層構造を生成し、変形規則は深層構造を表層構造に変換す る。普遍文法は、すべての人間言語の充たさなければならない条件の研究であり、深層構造は言語から言語へと相違することがわずかである、とチョムスキーは 論ずる。中国語と日本語は系統を異にするといわれているが、言語であることにおいて普遍性をもっているとすれば、日本語も中国語も同じであるということに なる。 ジョン万次郎は『英米対話捷径』(1859年、安政6年)という英語の入門書を書いて、返り点やレ点を使って、英語を日本語にして説明している。 あ
なた べしレ
いうニ
何にても あなたの こころにあることを一 善 日でござる いかが ごきげんレ
あなたさま ようござるか (『ジョン万次郎の英会話』Jリサーチ出版による) 英語もまた、文法構造を入れ替えることによって、日本語に変換できる。ジョン万次郎は土佐の漁師の子で、15歳のときに漂流して、アメリカの捕鯨船に救助さ れた。10年間もアメリカで教育を受けて、日本人が西洋のことばといえばオランダ語しか知らないときに、英語を身につけて帰国した。英語の語順を日本語に 変換するばかりでなく、発音もみごとに日本語式に変換している。英語と日本語は表層構造はまったく違う言語であるが、深層構造は変異することが少ない、と いうことになる。 人間言語の著しい多様性に眼を奪われていると、諸言語の普遍性など成り立つはずがないと思われるかもしれない。しかし、人間は、正常な子供ならば、訓練を受けずに複雑 な構造の言語を獲得することができる。人間である限り、言語の学習能力に個人差はほとんどない。それは生得的言語能力が、人間という種を特色づける特質の 一部であり、遺伝的に決定されているからである。言語はその多様性にもかかわらず、諸言語に生じうる多様性はきびしく制限されており、さまざまな言語は、 言語理論によって許される仕組みのうち、いずれを選択するかによって異なっているだけである。 |
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