第97話 日本語の座標軸

日本列島は、ナウマン象など大型動物の化石が出ることから、大陸と陸続きだった時期があったことが知られている。マンモスハンターたちは、大陸から歩いて日 本列島に渡来した。長野県の野尻湖畔からはナウマン象やオオツノシカの化石とともに旧石器時代の石器や骨器が見つかっており、ナウマン象は当時の人類の狩 猟の対象だったと考えられている。

今からおよそ10万年ないし7万年前に、アルタイ山脈の周辺に住んでいた人類は、東に移動し、2万3千年前にはバイカル湖のあたりに達した。そして、シベリ ア平原に世界的に有名なマリタ遺跡を残している。捕獲したマンモスの肉を食料とし、残された皮や骨牙を余すところなく用いて、住居や道具を作って、小さな 集落で生活を営んでいた。彼らが制作したマンモスの絵や小像も残されている。バイカル湖のほとりに住んでいた旧石器人はモンゴロイドであり、その一部がサ ハリンから北海道、本州へとマンモスを追って移動して来たと考えられる。

 マンモスハンターたちはお互いにことばを使って集団でマンモスを追い込み捕獲していたに違いない。しかし、旧石器時代に日本列島に住んでいた人びとがどんなことばを発 していたかについては何のてがかりもない。マンモスを見つけた旧石器時代の人びとは「おーい、象が来たぞ」と叫んだのだろうか。しかし、それはありそうに ない。なぜならば「象」は中国語からの借用語であり、旧石器時代の日本語の語彙として使われていたとは考えにくいからである。象は万葉集では象(きさ)と 呼ばれている。

  昔見し 象(きさ)の小河を 今見れば いよよ清(さや)けく なりにけるかも(万316)
 み吉野の 象山(きさやま)際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだもさわく 鳥の声かも
 (万924)

 また、平安時代の辞書である『和名抄』には「象(岐佐)、獣の名なり、水牛に似て大耳、長鼻、眼細く、牙長き者なり」とある。文字時代に入ってからの日本語 では象は象(きさ)であったことが知られる。しかし、マンモスハンターたちの日本語が「おーい、象(きさ)が来たぞ」だったかどうかは分からない。万葉集 から現在までの時間距離は約1300年で有るのに対して、ナウマン象の時代から現代までは1万5000年も隔たっているからである。ただ、旧石器時代の人類が言語を獲得していたであろうことは脳の発達などからして、ほとんど疑いの余地はないという。

日本列島で土器が出現したのは約1万2千年前からである。考古学者の研究によると、日本の縄文人の骨格は、弥生人とはかなり異なっている。縄文人の頭骨は現 代の日本人に比べると大きい。顔は上下に短く頬骨は外側に張り出して顔幅が広い。眉間は盛り上がっていて、鼻の付け根の部分は深く窪んでいて彫りが深い。 このような骨格の特徴は現代のアイヌ人にも見られるという。この時代に日本列島で話されていたことばについては何もわかっていない。

 紀元前300年頃、大陸方面から稲作農業と金属器の文化が西日本に伝えられて、急速に東日本に広がっていった。日本列島に住む人々の生活は弥生時代になって大きく変化 した。農耕生活は狩猟・採集生活にくらべて食料の確保という点で格段に安定している。飢餓の恐れは減り、人口は急速に増える。狩猟採集の時代は獲物や植物 の実を求めて人びとは移動する。農耕の時代になると人びとは定住し、余剰生産物の交易もはじまる。弥生文化は縄文文化にたいして圧倒的な優勢文化だったの である。

山口県の日本海に面する土井ケ浜遺跡などの弥生遺跡から出土する初期の弥生人が、大陸から海を渡って来た人々であったことはほぼ間違いない。稲作文化をもっ て渡来した人々の影響を受けて、それまでは狩猟採集生活を営んでいた縄文人も、稲を作るようになった。縄文人のことばも、新たに渡来した人々の影響で、大 きく変わったにちがいない。

弥生人と縄文人の間には断絶がある可能性がある。農耕技術という優勢な文化をもった渡来人が大陸から押し寄せて、縄文人を放逐して弥生文化が生まれた可能性がある。日本列島に古くから住んでいた縄文人 も、鉄器や稲作を伴った弥生文化を受け入れて変容した。

弥生時代の日本語はすでに中国語の語彙を多量に受け入れている。従来「やまとことば」とされてきたことばのなかにも弥生時代に日本語のなかに入ってきたと考えられる語彙がたくさん含まれている。

  麦(むぎ・バク)、 金(かね・キン)、絹(きぬ・ケン)、 舌(した・ゼツ)、
 肝(きも・カン)、 竹(たけ・チク)、浜(はま・ヒン)、 牧(まき・ボク)、
 文(ふみ・ブン)、 筆(ふで・ヒツ)、壇(たな・ダン)、 幕(まく・バク)、
 着(つく・チャク)、剥(はぐ・ハク)、染(そめる・セン)、沁(しみる・シン)、

 これらの語彙はいずれも子音の部分が中国語音と対応していて、日本が本格的な文字時代に入る前の時代、弥生時代から古墳時代にかけて、中国語から日本語のなかに入って きたものと考えられる。優勢な農耕民族のことばが狩猟採集民族のことばのなかに取り入れられて、混交し日本語はクレオール化したと考えられる。

現代の日本語はいわゆる膠着語であり、名詞のあとに助詞(後置詞)をはいりつけて格と表し、動詞の後に助動詞などをはりつけて時制や相、態などを表す構造に なっている。これは朝鮮語などと同じ構造であり、中国語とはかなり違う。しかし、弥生時代以降日本語のなかにはかなりの数の中国語の語彙が入ってきてい る。

『古事記』や『日本書紀』にみられる神話の舞台も、弥生文化がその背景に読みとれる。たとえば、天の石屋戸の場面の記述をみると「天照大御神は機屋で神に奉る 神衣を機織女に織らせていた。するとスサノヲノ命はまだら毛の馬の皮を剥ぎ取って落とし入れてきた。天照大御神はこれを見て天の石屋戸にたてこもってし まった。八百万の神が集まって相談し、常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせることにした。次に天の金山の鉄を採って鏡を作らせた」とある。

縄文時代の家畜は犬くらいで、馬や鶏はいない。『魏志倭人伝』には「その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし」とある。また、『古事記』応神天皇の条に「百済 の王が牡馬一匹、牝馬一匹を貢上した」とあるから、日本にはもともと馬がいなかった可能性すらある。蚕の飼育や機織も縄文時代の情景にはなじまない。鉄は 米とともに弥生時代になって日本列島に入ってきたものである。

つぎに、スサノヲノ命は、食料をオホゲツヒメノ神に求める。「オホゲツヒメノ神の頭からは蚕が生まれ、目からは稲の種が生まれ、耳からは粟が生まれ、鼻から は小豆が生まれた。陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた。これが五穀の種となった」という。これはまさに農耕時代のはじまりの物語である。また、八俣の おろち退治には酒船に酒を満たして大蛇に飲ませ、酔いつぶさせてしまう。酒を醸すのも穀物の栽培があってはじめてできることである。日本の神代とは石器時 代のことでも、縄文時代のことでもなく、弥生時代のことである。

縄文文化は東日本を中心とした文化であり、マンモスハンターの文化の後裔であると考えられる。縄文時代の日本語をAとし、弥生時代になって渡来人がもたらした言語をBとすると、言語Aと言語Bは、ともにアルタイ系言語であった可能性がある。しかし、言語Aと言語Bは同じアルタイ系でも、2万3千年前にバイカル湖のほとりで別れた親戚であり、ほとんど相互に理解不能だったに違いない。

朝鮮半島を経て日本列島にやってきた言語Bは、おそらく高句麗語系のアルタイ語であったものと思われる。百済は高句麗系で言語Bと同系だから高句麗・百済系といってもいい。朝鮮半島から弥生文化とともに入ってきた言語Bは、朝鮮半島にある時代にすでに、言語C(中国語)から多くの中国語の語彙を取り入れてクレオール化していた。それが「やまとことば」に中国語系の語彙を供給したと考えることができる。

これが、古代中国語の音韻と「やまとことば」の語彙との対応を検証してえられた、日本語形成のシナリオである。言語の系統は主として文法構造を中心に分類さ れる。語彙は変りやすいが、文法構造は語彙にくらべて変化しにくい。日本語はアルタイ系の文法構造、音韻体系のうえに、長い間にわたって中国語の語彙を受 け入れている。日本語は弥生時代の当初からクレオール化を経験した混交言語である。

日本には、日本人という人種、あるいは日本語という言語は、純粋でなければならないという考え方があるように思われる。しかし、純粋な言語というようなもの は世界中にあるのだろうか。ことばは時代とともに変化する。日本語は日本列島に住みついた旧石器時代の人びとの時代から縄文時代、弥生時代を経て形成さ れ、何度も生まれ変わってきた。古事記や万葉集のことばが、縄文時代から弥生時代という1万年を越える時代を通じて日本列島で話し続けられてきた「やまと ことば」であり、「やまとことば」は不変であったと考えることはできない。

今まで、「やまとことば」は純粋だと考えられてきたから、「やまとことば」のなかに中国語の語彙がかなり含まれていることを指摘した学者はいない。日本語の 語彙は、同じアルタイ系であるはずの朝鮮語と共通のものが少ないことだけが強調されてきた。日本語は2万年前に朝鮮語と分かれた言語であり、文法の構造は 朝鮮語にきわめて近い。しかし、弥生時代以降2千年以上にわたって中国語の語彙を受け入れ続けてきたため、語彙は中国語系の語彙が多い。

ヨーロッパの言語学によると、すべての音変化は例外のない法則によって遂行されるという。つまり、音変化の方向はひとつの集団に属するすべての成員にとって常に同じであり、変化にさらされた音を含むすべ ての単語は、例外なしにその変化をこうむる、という。

ところが日本漢字音の場合はどうであろうか。日本漢字音には呉音と漢音がある。

 

馬  幕  万  美  眉  武  無  望  牧  文

呉 音

マ  マク マン ミ  ミ  ム  ム  モウ モク モン

漢 音

バ  バク バン ビ  ビ  ブ  ブ  ボウ ボク ブン

もし、日本漢字音のもとになった中国語音が同じであったとしたら、なぜ馬(マ・バ)などのように違った発音が伝わることになったのだろうか。中国のなかで音 韻変化があったとしたら、例外なく同じ方向に変化するのが音韻法則であったのではないのか。呉音は中国江南地方の漢字音に依拠しており、朝鮮半島を経由し て日本にきた借用語の音であるとされている。それに対して漢音は中原の中国語音に依拠しており、日本が文字時代に入ってから直接中国から入ってきた音だと されている。呉音のほうが古く、漢音のほうが新しい。

上の例では呉音がマ行であり、漢音がバ行である。古代日本語では濁音が語頭にくることはなかった。だから、より古い時代の借用音である呉音ではマ行音(鼻 音)で発音され、遅れて日本に入ってきた漢音ではバ行音(漢音)で発音される。遣唐使などが中国に行き、また中国から音博士などが渡来した漢音の時代に は、日本語は中国語の影響で語頭に濁音が立つようになったのである。

日本漢字音は中国の江南音に依拠しているのか中原音に依拠しているのか、またいつの時代に借用されたかによって発音が違うこともある。

 

金   絹   文   麦   牧   筆   舌   眉   

 訓

かね  きぬ  ふみ  むぎ  まき  ふで  した  まゆ  

 音

キン  ケン  ブン  バク  ボク  ヒツ  ゼツ  ビ   

日本が本格的な文字時代に入る前に中国語から日本語に入ってきた語彙はやまとことばとして訓のなかに紛れ込んでいる。日本語には「ン」で終わる音節はなかったから、古代中国語で-nまたは-mで終わる音節は母音を添加して開音節(母音で終わる音節)に転移させた。金(かね)、絹(きぬ)、文(ふみ)などはその例である。日本語には子音(-k-t)などで終わる音節がなかったから母音を添加して開音節(母音で終わる音節)に転移させた。麦(むぎ・バク)、牧(まき・ボク)、筆(ふで・ヒツ)、舌(し た・ゼツ)などの例があげられる。これらの借用語は語頭の母音も濁音から鼻音あるいは清音に転移している。眉(まゆ・ビ)なども日本語では二音節に発音さ れているが、中国語からの借用語の例であろう。

 弥生時代までの日本語は文字がなかったので、記録のうえで何の痕跡も残していない。しかし、「やまとことば」は縄文時代、弥生時代、古墳時代を通じて形成されてきた日 本語が歴史上はじめて文字化され、記録に残されたものだから、「やまとことば」のなかに弥生時代の日本語の痕跡を探し求めることはできる。

 本居宣長の時代には「やまとことば」は敷島のやまとの国に、ことだまのさきわう国に神代の時代から伝わったものであり、古事記や万葉集はまじりけのない、漢語を含まな い純粋な日本語で書かれていると考えられてきた。しかし、古代の日本語だけが世界の言語から孤立した起源をもち、「やまとことば」は純粋な日本語であった という考えは否定されざるをえない。日本語の文法構造は朝鮮語にきわめてちかく、語彙は古代日本語の時代から中国語からの借用語を数多く取り入れているこ とはもはや疑う余地がない。

もくじ

☆第86話 日本語の系統論

★第89話 日本語と朝鮮語

☆第93話 比較言語学の方法

★第94話 言語の起源はひとつか

☆第95話 言語の類型

★第96話 クレオール誕生

☆第106話 日本語と近いことば・遠いことば