日本が本格的文字時代に入ったのは記紀万葉集が成立した8世紀前半のことである。しかし、中国ではすでに紀元前に『詩経』や『論語』が成立しており、漢字の歴史青銅器などに記された文字、さらには亀甲文字にまでさかのぼることができる。 古代中国文明の東の端に位置する日本列島が、中国文明とはじめて接触をもったのは紀元前3世紀、弥生時代のはじめであり、それ以来弥生時代、古墳時代を通じて約1000年にわたって古代中国文明を受け入れ、稲作や鉄の文化をはぐくんできた。文明とともにことばも入ってきた。 それが漢字の訓のなかに含まれているに違いない、という考え方最初に提起したのはスウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレンである。カールグレンは『言語学と古代中国』(1926年・オスロ)のなかで、馬(うま)、梅(うめ)、竹(たけ)、麦(むぎ)などは8世紀以前い中国語から日本が取り入れた語彙ではないかと指摘した。 馬(うま)、梅(うめ)などは呉音・漢音などが定着する以前(弥生時代から古墳時代にかけての)漢字音であることからここでは弥生音と呼ぶことにする。 中国の音韻学 者、王力は中国語の音韻史を研究して、『同源字典』によって古代中国語音を推定している。漢字音は時代とともに変化し、地方によっても発音が異なる。王力 は「音ちかければ義近し」として、調音の位置の同じ音は意味も近い(同源である)、調音の方法の近い音も意味が近い(同源である)としている。 日本の漢字音は記紀万葉の成立した時代の中国語音、つまり唐代の中国語音を規範としている。漢音は唐代の長安の音に依拠しており、呉音は江南地方の音だとされている。 日本の漢字音には音と訓があって、音は中国語の漢字音に依拠したものであり、訓は漢字が日本に入ってくる以前から日本列島で話されていた「やまとことば」を漢字にあてたものであるとされている。 しかし、日本は本格的な文字時代に入る1000年も前から中国文明を受け入れ、弥生時代、古墳時代を通じて稲作や鉄をを取り入れ、仏教を受け入れてきたから、訓と呼ばれるもののなかにも中国語の上古音が含まれていたとしても不思議はない。 ここでは中国語の音韻史をたどりながら、漢字の訓のなかに含まれる古い中国語音の痕跡を検証してみることにする。 王力の『同源字典』は日本語には翻訳されてはいないが、白川静の『字通』に引用されているので、検証することができる。 漢字の韻 日本語は開音 節であり、音節は母音で終わるが中国語は閉音節であり、子音で終わる音節があるてめ、中国語音はそのまま日本語に取り入れられるのではなく、転移すること がある。しかし、調音の位置が同じ音は調音の位置が同じ音に転移し、調音の方法が同じ音は調音の方法が同じ音に転移するという法則には変わりがない。 中国語の詩は韻をふんでおり、韻を知ることが、まず古代中国語を知る基本になる。 〇韻表
王力『同源字典』による 上の表で横に並んだ音は旁転と呼ばれ転移しやすい。 また、縦に並んだ音は調音の位置が同じであり、転移しやすい。縦の転移を王力は対転と呼んでいる。中国語の音韻史を調べてみると隋唐の時代以前に[‑k] であった音は唐代には[‑ng] に変化したものだ多い。[‑k][ ‑ng]、[‑t][ ‑n]、[‑p][ ‑m]、は調音の位置が同じであり、転移しやすい。同様に次のような変化が一般的にみられる。 [‑k]→[‑ng]、 [‑t]→[‑n]、 [‑p]→[‑m]、 さらにまた、甲乙丙の枠を超えて転移する場合もあり、王力はそれを通転と呼んでいる。 〇同音同義: 舞[miua]:巫[miua]、獣[sjiu]:狩[sjiu]、不[piuə]:否[piuə]、賣[me]:買[me]、牙[ngea]:芽[ngea]、余[jia]:予[jia]、昭[tjiô]:照[tjiô]、授[zjiu]:受[zjiu]、富[piuək]:福[piuək]、暴[bôk]:瀑[bôk]、祝[tjiuk]:呪[tjiuk]、度[dak]:渡[dak]、上[zjiang]:尚[zjiang]、空[khong]:孔[khong]、帥[shiuət]:率[shiuət]、人[njien]:仁[njien]、 〇母音転移: 家[kea]:居[kia]、我[ngai]:吾[nga]、汝[njia]:爾[njiai]、潮[diô]:涛[du]、哮[xeu]:吼[xo]、播[puai]:布[pa]、独[dok]:特[dək]、雑[dzəp]:集・輯[dziəp]、丸[huan]:圓[hiuən]、半[puan]:分[piuən]、進[tzien]:薦[tzian]、濱[pien]:邊[pyen]、冷[leng]:涼[liang]、青[tsyeng]:蒼[tsang]、宏[hoəng]:弘[huəng]、封[piong]:邦[peong]、 〇韻尾脱落: 改[kə]:革[kək]、臭[thjiu]:嗅[thjiuk]、柔[njiu]:弱[njiôk]、捜[shiu]:索[sheak]、目[miuk]:眸[miu]、施[sjiai]:設[sjiat]、枯[kha]:渇[khat]、更[keang]:改[kə]、存[dzuən]:在[dzə]、欣[xiən]:喜[xiə]、言[ngian]:語[ngia]、鵞[ngai]:雁[ngean]、 〇[‑ng][ ‑k] 転移(調音の位置が同じ・後口蓋): 逆[ngyak]:迎[ngyang]、董[tong]:督[tuk]、 〇[‑n][ ‑t] 転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏): 害[hat]:患[hoan]、弁[bian]:別[biat]、曳[jiat]:引[jien]、 〇[‑ng][ ‑n] 転移(調音の方法が同じ・鼻音): 強[giang]:健[gian]、剛[kang]:堅[kyen]、 〇[‑ng][ ‑m] 転移(調音の方法が同じ・鼻音): 陵[liəng]:隆[liuəm]、鵬[bəng]:鳳[biuəm]、鏡[kyang]:鑑[keam]、疼[duəm]:痛[thong]、 〇[‑n][ ‑m] 転移(調音の方法が同じ・鼻音): 岸[ngan]:巌[ngeam]、 音近ければ、義近し 日本語の五十音図はア、カ、サ、タ、ナ、ハ、マ、ヤ、ラ、ワ、の十行だが、中国語の頭子音には日本語にはない有気音や喉音などがある。それを調音の位置(喉音、牙音、舌音、歯音、唇音)と調音の方法(清音、有気音、濁音、鼻音など)で整理したのが下の表である。 紐表
王力『同源字典』による 王力は「音近ければ義近し」として次のような語は同源だとしている。調音の位置が同じ音は音価も近く、同源語が多い。また、調音の方法が同じ音は音価も近く、同源語が多い、というのが王力の提言である。 [調音の位置が同じ] 〇後口蓋音の転移: 國[kuək]:域[hiuək]、教[keôk]:校[heôk]、久[kiua]:舊[giuə]、起[khiə]:興[xiəng]、筥[kia]:筺[khiuang]、枯[kha]:涸[hak]、花[xoa]:華[hoa]、句[ko]:曲[khiok]、隙[kyak]:間[kean]、頸[kieng]:莖[heng]、剛[kang]:強[giang]、廣[kuang]:寛[khuan]、悔[xuə]:恨[hən]、観[kuan]:看[khan]、合[həp]:協[xiap]、匣[heap]:函[ham]、篋[kyap]:匣[heap]、 〇唇音の転移: 半[puən]:分[piuən]、背[puək]:負[biuə]、脈[mek]:派[phe]、報[pu]:復[biuk]、暴[bôk]:爆[peôk]、判[phuan]:別[biat]、 〇口蓋化による転移: 少[sjiô];小[siô]、純[zjiuən]:粋[siuət]、深[sjiəm]:甚[zjiəm]、處[thjia]:所[shia]、登[təng]:昇[sjiəng]、読[dok]:誦[ziong]、冬[tuəm]:終[tjiuəm]、忍[njiən]:耐[nə]、年[nyen]:稔[njiəm]、 〇破擦音の転移: 走[tzo]:趨[tsio]、倉[tsang]:蔵[dzang]、清[tsieng]:浄[dzieng]、斬[tzheam]:殺[sheat]、侵[tsiəm]:襲[ziəp]、 〇前口蓋音の転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏): 超[thô]:卓[teôk]、丁[tyeng]:寧[nyeng]、至[tjiet]:致[tiet]、傳[diuan]:轉[tiuan]、屯[duən]:村[tsuən]、断[duan]:絶[dziuat]、 〇[l][m] 転移(調音の位置が近い): 命[mieng]:令[lieng]、來[lə]:麥[muək]、勉[mian]:励[liat]、 〇[th][l] 転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏): 涕[thyei]:涙[liuei]、灘[than]:瀬[lat]、 〇頭音の脱落: 跳[dyô]:躍[jiôk]、影[yang]:景[kyang]、夜[jyak]:夕[zyak]、畜[thiuk]:育[jiuk]、遼[lyô]:遥[jiô]、翁[ong]:公[kong]、 、 |
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