第266話 弥生音~「やまとことば」のなかの古代中国語 「やまとことば」は日本古来のことばであるとされているから、「やまとことば」のなかに古代中国語があるというのは、自己矛盾になってしまう。 しかし、「や まとことば」は奈良時代、平安時代に成立した概念であり、8世紀以降に使われていた日本語のなかから、中国語の語彙を除いたものであるから、やまとことば (訓)のなかに弥生時代・古墳時代を通じて日本語のなかに取り入れられた中国の上古音の痕跡が残されている可能性がある。中国語の上古音(隋唐の時代以前 の中国語音)は隋唐の時代の漢字音と違うため、呉音や漢音とは違うことが多い。 ここでは、弥生時代から8世紀までに日本語のなかに取り入れれた中国語音を便宜上、弥生音と呼ぶことにする。 〇上古音[‑t]→唐代音[‑n] 漢字は象形文字だと一般にいわれるが、漢字の70%は音をあらわす声符とよばれる部分をもっている。しかし、同じ声符をもった漢字でも読み方が違う漢字も散見される。 嗚咽(エツ)・因(イン)、薩摩(サツ)・産(サン)、撒(サツ)・散(サン)、 日本漢字音のなかには訓ではタ行であらわれ、音では「ン」であらわれるものがある。これは中国語の韻尾[‑n] が隋唐の時代以前には[‑t] であったことを反映するものである。 日本語の音の「ン」は古代日本語にはなかった音であり、中国語音の影響で発達してきた音である。 本[puən] ホン・もと、盾[djiuən] ジュン・たて、断[duan] ダン・たつ、管[kuan] カン・ くだ、堅[kyen] ケン・かたい、肩[kyan] ケン・かた、満[muan] マン・みつ、 〇上古音[‑k]→唐代音[‑ng] 同じ声符をもった漢字がカ行であらわれる場合とウ音便になってあらわれる場合がある。 この場合、カ行音のほうが古く、ウ音便は唐代の中国語韻尾[ng] に対応している。 拡(カク)・広(コウ)、比較(カク)・交(コウ)、告(コク)・浩(コウ)、削(サク)・ 消(ショウ)、軸(ジク)・宙(チュウ)、隻(セキ)・雙(ソウ)、 日本漢字音でも、訓でカ行であらわれるものが音では音便形であらわれる場合がある。訓は古い中国語音の痕跡を留めているといえる。 莖[heng] ケイ・くき、景[kyang] ケイ・かげ、筺[khiuang] キョウ・かご、床[dzhiang] ショウ・とこ・ゆか、丈[diang] ジョウ・たけ、塚[tiong] チョウ・つか、揚[jiang] ヨウ・ あげる、楊[jiang] ヨウ・やなぎ、双[sheong]六・ソウ・すご(ろく)、 日本の古地名では中国語の韻尾[ng] をカ行で読むものが多くみられる。これらは古い中国語音の痕跡を留めているものであろう。 相[siang]模(さがみ)、相[siang]楽(さがら)、香[xiang]山(かぐやま)、伊香[xiang](いかご)、愛宕[dang](おたぎ)、餘稜[ləng](よろぎ)、當[tang]麻(たぎま)、久[kiua]良(くらぎ)、望[miuang]多(まぐた)、楊[jiang]井(やぎゐ)、渋[shiəp]川(しぶかは)、 〇韻尾脱落 韻尾の入声音([‑k][‑t][‑p])などは脱落することがある。同じ声符をもった漢字でも韻尾の[‑k][‑t][‑p] などを読む漢字と読まない漢字がある。また、度(ド・タク)、易(エキ・イ)などのように同じ漢字でも二通りの読み方のあるものもみられる。 悪(アク)・亜(ア)、憶(オク)・意(イ)、核(カク)・該(ガイ)、式(シキ)・試(シ)、 直(チョク)・値(チ)、莫(バク)・墓(ボ)、壁(ヘキ)・避(ヒ)、福(フク)・富(フ)、 割(カツ)・害(ガイ)、喫(キツ)・契(ケイ)、察(サツ)・祭(サイ)、説(セツ)・税 (ゼイ)、発(ハツ)・廃(ハイ)、必(ヒツ)・秘(ヒ)、列(レツ)・例(レイ) 「墓」の日本漢字音は墓(ボ・はか)とされているが、墓の古代中国語音は莫と同じ墓[mak] であり、日本語の訓、墓(はか)は古い中国語音の痕跡を留めたものである。したがって、墓(はか)も墓(ボ)も古代中国語の墓[mak] と同源である。 〇韻尾[‑k][ ‑t][ ‑p] の転移 中国語の発音は地域によってかなり異なり、一般に広東語では韻尾の[‑k][ ‑t][ ‑p] は弁別されるが、上海語では[‑k][ ‑t][ ‑p] は合流して[‑k] に近い音になり、北京語ではすべて失われている。 朝鮮漢字音では[‑t] は[‑l] に規則的に転移する。日本漢字音でも訓では[‑t] がラ行音に転移するものが、動詞などにみられる。 日本漢字音では[‑p] は旧仮名遣いにおいて蝶(てふ)などと表記する例もみられるが、中国語の韻尾[‑ng] あるいは[‑t] と弁別されない場合が多い。 古代中国語音 現代北京音 現代上海音 現代広東音 朝鮮漢字音 日本漢字音(音・訓) 剥[peok] bao/bo bok mok/bok pak ハク・はぐ 麦[muək] mai mek mahk maek バク・むぎ 竹[tiuk] zhu zok juk juk チク・たけ 牧[miuək] mu mok muhk mok ボク・まき 作[tzak] zuo zak jok jak サク・つくる 着[diak] shao shak jeuk chak チャク・つく 筆[piet] bi bik bat pil ヒツ・ふで 舌[djiat] she shek siht seol ゼツ・した 擦[tsheat] ca cak chaat chal サツ・する 出[thjiuət] chu cek cheut chul シュツ・でる 掘[giuət] jue jhuk gwaht kul クツ・ほる 蝶[thyap] die dhik dihp jeop チョウ・てふ 頰[kyap] jia gak haahp hyeop キョウ・ほほ 渋[shiəp] se sek sap sap ジュウ・しぶい 湿[sjiəp] shi sak sap seup シツ・しめる 汁[tjiəp] shi zak jap jip ジュウ・しる 日本の古地名では中国語の韻尾[‑p] にハ行音をあてているものがいくつかみられる。しかし、揖[iəp]宿 (いぶすき)などは「揖宿」では「いぶすき」とは読めなくなってしまったために地名の表記を「指宿」に変えてしまった。また、素麺で有名な揖保乃糸は 「保」を添加することによって「いぼ」と読ませている。甲斐の国の「甲」も一字で「かひ」と読めたはずあが、「甲」は甲(コウ)になってしまったために 「斐」の字を添加した。 揖[iəp]保(いひほ)、揖[iəp]宿(いぶすき)、邑[iəp]楽(おはらき)、愛甲[keap](あゆか は)、 日本漢字音では中国語の韻尾[‑p] は転移する。 法[piuap] ホウ、甲[keap] コウ、葉[jiap] ヨウ、入[njiəp] ニュウ、泣[khiəp] キュウ、 吸[xiəp] キュウ、峡[keap] キョウ、集[dziəp] シュウ、渋[shiəp] ジュウ、 雑[dzəp] ザツ、湿[sjiəp] シツ、執[tiəp] シツ・シュウ、接[tziap] セツ、摂[siəp] セツ、 立[liəp] リツ・リュウ、 同じ声符をもった漢字でも中国語の韻尾は転移することもある。[t][k] はいすれも内破音であり、転移しやすい。 匹(ヒキ・ヒツ)、冊(サツ)・柵(サク)、益(エキ)・溢(イツ)、 〇韻尾[n][m] の転移 中国語の発音は時代によって異なるばかりでなく、地域によってもかなりの差がみられる。中国語では[n] と[m] が弁別される地域と弁別されない地域がある。
現代広東音と朝鮮漢字音では[‑n] と[‑m] は弁別されている。現代北京音と日本漢字音では[‑n] と[‑m] は弁別されず、[‑n] に合流している。 現代上海音では[‑n] と[‑m] は弁別されず、[‑n] に合流しているほか、韻尾[‑n][ ‑m] は失われることもある。 日本語の訓では「ン」で終わる音節はなく、[‑n][ ‑m] はナ行音またはマ行音となって、韻尾に母音をつけてあらわれる。ナ行とマ行はいずれも調音の方法が同じ(鼻音)であり転移しやすい。 〇韻尾[n] の読み方 古代中国語音 現代北京音 現代上海音 現代広東音 朝鮮漢字音 日本漢字音(音・訓) 殿[dyən] dian dhi dihn jeon デン・どの 壇[tan] tan dhe taahn tan ダン・たな 浜[pien] bin/bang bin pin pin ヒン・はま 君[giuən] jun jun gwan kun クン・きみ 蝉[zjian] chan shoe sihn seon ゼン・せみ 肝[kan] gan goe gon kan カン・きも 混[huən] hun when wahn hon コン・こむ 困[khuən] kun kuen kwan kon コン・こまる 中国語の韻尾[n] は日本語の訓ではラ行であらわれるっことがある。[n] と[l] はいずれも調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移しやすい。 辺[pyen] bian bi bin pyeon ヘン・へり 塵[dien] chen shen chahn jin ジン・ちり 漢[xan] han hhoe hon han カン・から<古語> 韓[han] han hhoe hon han カン・から<古語> 昏[xuən] hun hun fan hon コン・くれ 〇韻尾[m] の読み方 中国語の韻尾[‑m] は韻尾[‑n] と同じく、日本語の訓ではマ行(バ行)またはナ行であらわれる。日本語では[‑n] と[‑m] は弁別されていない。マ行とナ行はいずれも調音の方法が同じ(鼻音)であり、調音の位置も近い。 占[tjiam] zhan zoe jim seom セン・しめる 金[kiəm] jin jin gam keum キン・かね 兼[hyam] jian ji gim kyeom ケン・かねる 中国語の韻尾[m] は日本語の訓ではタ行またはラ行であらわれることがある。隋唐の時代の韻尾[‑n] の上古音は[‑t] に近かったと考えられている。中国語の韻尾[m] がタ行であらわれるのは、日本語では韻尾の[‑n] と[‑m] が弁別されていないからである。 中国語の韻尾[n]がタ行またはラ行であらわれることについてはすでに述べた。 音[iəm] yin yin yam eum オン・おと 琴[giəm] qin qu kahm keum キン・こと 嫌[hyam] xian yi yihm hyeom ケン・きらい 減[həm] jian ge gaam kam ゲン・へる 鍼[tjiəm] zhen zen zham chim シン・はり 日本の古地名では中国語の韻尾[n][m] はナ行、マ行、ラ行であらわれる。地名に漢字が使われるようになった時代にはまだ日本語には「ン」という音節がなかったものと考えられる。 信濃(しなの)、信太(しのだ)、因幡(いなば)、引佐(いなさ)、丹波(たには)、難波 (なには)、讃岐(さぬき)、敏馬(みぬめ)、雲飛(うねび)、乙訓(おとくに)、 伊参(いさま)、男信(なましな)、安曇(あづみ)、恵曇(ゑども)、印南(いなみ)、任 那(みまな)、 播磨(はりま)、平群(へぐり)、駿河(するが)、敦賀(つるが)、群馬(くるま)、 〇韻尾[‑ng] の転移 中国語の韻尾[ng] は日本語にはない音である。[‑ng] は[‑k] と同じ後口蓋で発音される音であり、中国語でも上古音は[‑k] に近かったと考えられている。日本漢字音では経(ケイ・キョウ)のような音に転移する。 [‑ng] は調音の方法が[‑n] と同じ(鼻音)であり、現代上海音では[‑n] であらわれることがある。また、日本語の訓ではナ行、マ行であらわれることがある。 [‑ng] はまた、日本語の訓ではラ行であらわれることもある。 [‑ng]・ナ行への転移(調音の方法が同じ・鼻音) 種[doing] zhong zong jung jong シュ・たね 常[zjiang] chang shang seuhng sang ジョウ・つね 嶺[lieng] ling lin lihng yeong レイ・みね [‑ng]・マ行への転移(調音の方法が同じ・鼻音) 公[kong] gong gong gung kong コウ・きみ<古語> 霜[shiang] shuang shan seung sang ソウ・しも 停[dyeng] ting dhin thing jeong テイ・とまる 灯[təng] deng den dang teung トウ・ともる [‑ng]・ラ行音への転移 平[bieng] ping bhin pihng phyeong ヘイ・ひら 輕[kyeng] qing qin ching cheong ケイ・かるい 〇韻尾の脱落 日本漢字音の音では[‑k][‑t][‑p]、[‑n][‑m][‑ng]などがあらわれ、訓では中国語の韻尾が失われているものがみられる。これは、日本語が開音節(母音で終わる音節)の言語であったため、日本語の音韻構造に適応して中国語の韻尾が失われた結果だと思われる。 酢[dzak] サク・す、目[miuk] ・眼[ngean] モク・め、津[tzien] シン・つ、千[tsyen] セ ン・ち、田[dyen] デン・た、辺[pyen] ヘン・へ、帆[biuəm] ハン・ほ、黄 [huang] コ ウ・き、 打[tyeng] ダ・(う)つ、湯[thang] トウ・ゆ、方[piuang] ホウ・へ、名[mieng] メイ・な、 頭子音の転移 中国語の音節は [頭子音+介音([‑i‑]・[‑u‑] など)+韻尾] から成り立っている。中国語の頭子音には日本語にはない喉音、暁[x] や匣[h] をはじめ、有気音、渓[kh]、透[th]、滂[p] などがある。有気音は一旦息を止めて、一気に空気を吐き出す時にでる音である。 次の表は紐表と呼ばれ、頭子音の間の相互の関係を示したものである。横軸には調音の位置が同じ音が並び、縦軸には調音の方法が近い音が並んでいる。調音の位置が同じ音は音価も近く、転移しやすい。また、調音の方法が近い音は転移しやすい。 現在、日本漢字音といわれるものの中には音と訓がある。音には呉音と漢音があり、漢音は日本が本格的な文字時代に入った8世紀以降の長安の漢字音を規範としており、呉音は中国の南方音、今の江蘇省あたりの漢字音を取り入れたもだとされている。 しかし、日本語と中国語は音韻構造がちがう。日本語は開音節(母音で終わる音節)であり、中国語は閉音節で[‑k][‑t][‑p] や[‑n][‑m][‑ng] などの韻尾をともなう。また、中国語には喉音[h][x] があるのに対して、にほんごには喉音はない。 古代日本語にはラ行ではじまる音がなかったころが知られている。このような中国語と日本語の特徴をふまえたうえで、弥生時代、古墳時代の約1000年にわたる日本語に中国語の語彙がどのように取り入れられてきたかを検証してみることにする。 〇喉音 【影母[〇](零声母) 〇ア行:猒・厭[iap]・いとふ、烏[a]・う、鸎[eng]・うぐひす・<隹・とり>、怨[iuan]・うらむ、憂[iu]・鬱[iuət] ・うれふ、奥[uk]・おく・おき、音[iəm]・おと、音[iəm]・ね、 〇カ行(入りわたり音の痕跡):影[yang/kyang*]・かげ、鴨[ap/keap*]・かも、鴉[ea/ngea*]・からす・<鴉隹>、煙・烟[yen/(h)yen*]・けぶり、 〇ハ行(入りわたり音の痕跡):淵[yuen/(h)yuet*]・ふち、 〇サ行転移(入りわたり音の摩擦音化):苑[iuan/(h)iuan*]・その、 弥生時代、古墳時代に対応する中国の漢字音は隋唐の時代の中国漢字音よりも古い上古音に依拠している。上古音には入りわたり音があったとスウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレンは提起している。 入りわたり音は喉音[h] あるいは[k] に近い音であり、影(かげ)、鴨(かも)、鴉(からす)、煙(けぶり)、などではカ行であらわれ、淵(ふち)ではハ行であらわれる。 また、入りわたり音[h] は介音[i] などの影響で摩擦音化して苑(その)のようにサ行であらわれることもある。 上古音は古代中国語音(隋唐の時代の中国語音)などから復元・再構されたもので、[*] をつけて表記する。 〇牙音(舌根音) 【見母[k]】【渓母[kh]】【群母[g]】 〇頭音脱落:今[kiəm]・いま、禁[kiəm]・いむ、弓[kiuəm]・ゆみ、寄[kiai/kiat*]よる、犬[khyuan]・いぬ、 〇母音添加:起[khiə]・おきる、 〇カ行:金[kiəm]・かね、絹[kyuan]・きぬ、君[giuən]・きみ、肝[kan]・きも、琴[giəm/giət*]・こと、肩[kyan/kyat*]・かた、堅[kyen/kyet*]・かたし、堅[kyen/kyet*]魚[ngia]・かつを、樫[kyen/kyet*]かし、駒[kio/(h)mea*]・こま、葛[kat]・かづら、枯[kha]・かれる、苦[kha]・くるし、窮[giuəm]・きはみ・きはまる、汲[giəp]・くむ、郡[giuən]・こほり、 〇ハ行(調音の位置が後口蓋音に近い):篋[khyap]・はこ、機[kiəi/kiəd*]・はた、蓋[kat]・ふた、光[kuang]・ひかり、姫[kia/hia*]女[njia/mia*]・ひめ、古[ka]・故[ka]・ふるし、乾[kan]・ひる、干[kan]・ひる・ほす、廣[kuang]・ひろい、経[kyeng]・ふる、 〇入りわたり音脱落:群[giuən/(h)miuən*] むれ、宮[kiuəm/(h)miuəm*]・廟[miô]・みや)、京[kyang/(h)myang*]・みやこ、曲[khiok/(h)miok*]・まがり、 〇入りわたり音脱落:泣[khiəp/(h)liəp*]・なく<立>、 見母[k]、渓母[kh]、群母[g] は調音の位置が同じ(後口蓋)である。これらの漢字の多くは弥生音ではカ行またはハ行であらわれる。弥生時代・古墳時代の日本語ではハ行音はカ行音に近かったものと思われる。訓でハ行であらわれる漢字も音ではカ行に変化している。 篋[khyap](はこ・キョウ)、機[kiəi/kiəd*](キ・はた)、蓋[kat](ふた・ガイ)、光[kuang] (ひかり・コウ)、姫[kia/hia*]女[njia/mia*](ひめ・キ)、古[ka]・故[ka](ふるい・コ)、 乾[kan]・干[kan](ひる・カン)、廣[kuang](ひろい・コウ)、経[kyeng](ふる・ケイ)、 これらの例では、訓と音は音韻対応している。訓は中国語の上古音に対応するものであり、音は隋唐の時代の中国語音に対応している。 頭音が脱落したものもみられる。これらの中国語原音をみると、[‑i‑] 介音が介在していることがわかる。弥生時代・古墳時代の日本語では[‑i‑] 介音を伴う漢字は頭音が脱落したことがわかる。渓母[kh] は日本語にはない有気音であり、濁音に近い。古代の日本語では濁音が語頭にくることはなかったので、母音を添加して日本語の音韻体系になじみやすくしたものと考えられる。 今[kiəm] (いま・コン)、禁[kiəm] (いむ・キン)、弓[kiuəm] (ゆみ・キュウ)、寄[kiai/kiat*] (よる・キ)、犬[khyuan] (いぬ・ケン)、 また、起(おきる・キ)のように語頭に母音が添加された例もみられる。「起」の古代中国語音は起[khiə] である。 群(むれ・グン)、泣(なく・キュウ)などでは音と訓は一見まったく別系統のことはのようにみえる。群(グン)は古代中国語音、群[giuən] に対応っするものである。「群」の上古音には入りわたり音があり、群[(h)miuən*] のような音であったと考えることができる。群(グン)は入りわたり音[h] が発達したものであり、群(むれ)は入りわたり音[h] が脱落したものである。[*] は上古音をあらわす。 同じように、泣(キュウ)は泣[(h)liəp*] の入りわたり音[h] が発達して泣[khiəp] となったものであり、泣(なく)は入りわたり音が脱落したものである。古代日本語ではラ行音が語頭に立つことはなかったので[l] はナ行に転移した。語頭の[l] がナ行に転移した例としては、梨(リ・なし)、練(レン・ねる)、浪(ロウ・なみ)などをあげることができる。 【疑母[ng]】 〇頭音脱落:我[ngai]・吾[nga]・あ・あれ・われ、牛[ngiuə]・うし<朝鮮語・so>、魚[ngia]・うを、焼[ngyô]・やく、鵞鷲[ngai dzu]・わし、岳[ngak]・をか、 〇カ行(調音の位置が同じ):語[ngai/ngiat*]・言[ngian/ngiat*]・かたる、顔貌[ngean mau]・かほ、鴈・雁[ngean]・かり、苅[ngiat]・かる、牙[ngea]・き(ば)、言[ngian/ngiat*]・こと、凝[ngiəng]・こる・こごる、 〇ハ行(後口蓋音は調音の位置が近い):牙[ngea]・は、芽[ngea/hea*]子[tzia/xia*]・はぎ、原[ngiuan]・はら、臥[ngua/hua*]・ふす、 〇サ行転移(摩擦音化):逆[ngyak/xyak*]・さか、 〇ナ行転移(調音の方法が同じ・鼻音):額[ngək]・ぬか、 〇マ行転移(調音の方法が同じ・鼻音):御[ngia]・み、御子[ngia]・みこ、御言[ngia ngian/ngiat*]・みこと・<御命>、迎[ngyang]・むかふ、眼[ngan]・め、芽[ngea]・め、焼[ngyô]・もゆる、 疑母[ng] は日本語では語頭にくることがない。[g] は濁音であり、[ng] は鼻濁音である。 日本語では音楽学校(オンカ゜ク ガッコウ)のように語中ではカ゜[ng] と発音され、語頭ではガ[g] と発音するのが、正しいとされてきた。しかし、東京方言では語中のカ゜[ng] もガ[g] と発音される傾向がある。 疑母[ng] は見母[k]、渓母[kh]、群母[g]、と同じく訓ではカ行またはハ行で発音されることが多い。しかし、疑母[ng] は鼻音であるため、ナ行、マ行であらわれることもある。 日本語では鼻濁音が語頭にたつことがないので、訓では脱落することもある。朝鮮漢字音では疑母[ng] は規則的に脱落する。日本語の訓は朝鮮漢字音に近いともいえる。 例:牙(a)、魚(eo)、御(eo)、岳(ak)、顔(an)、眼(an)、雁(an)など、 【暁母[x]】【匣母[h]】 〇頭音脱落:絵[huai]・ゑ、合[həp]・あふ、行[heang]・ゆく、横[hoang]・よこ、王[hiuang]子(わくご・<古語>)、 〇母音添加:興[xiəng]・おこる、 〇ハ行:羽[hiua]・は(ね)、匣[heap]はこ、花[xoa](はな)、灰[huəi]・はひ、荷[hai]子・はちす<蓮>)、挾[hyap]・はさむ、火[xuəi]・ひ、檜[huai]・ひ、降[hoəm]・ふる、吼[xo]・ほえる、 〇カ行(調音の位置が近い):香[xiang]・か、蟹[he]・かに、河[hai]・かは、蛤[həp]・かひ・<貝>、漢[xan]から、韓[han]・から、峡[heap]・かひ、蛺蠱[heap ka]・かひこ、霞霧[hea miu]・かすみ、畫[hoek]・かく、懸[hiuen]・かける、兼[hyam]・かねる、還[hoam]・かへる、涸[hak]・かれる、限[hean]・かぎり、王[hiuang]・きみ、莖[heng]・くき、熊[hiuəm]・くま、雲[hiuən]・くも、玄[hyen]・くろ、黒[xək]・くろ、悔[xuə]・くいる、昏[xuən]・くれ、 〇サ行転移(摩擦音化):榮[hiueng]・さかり、幸[heang]・さき・さち、猿[hiuan]・さる、兄[hiuəng]・せ、狭[heap]・せまい、 〇マ行(入りわたり音脱落):丸[huan/(h)muan*]・まる、廻[huəi/(h)muət*]・まはる、見[hyan/(h)myan*]・みる、向[xiang/(h)miang*]・むかふ、胸[xiong/(h)miong*]・むね、 暁母[x]・匣母[h] は日本語にはない発音であり、喉の奥で発音される。日本語の訓ではハ行であらわれることが多いが、調音の位置がカ行(後口蓋音)に近いため、カ行であらわれることも多い。 匣母[h] は濁音であり、日本語では濁音が語頭に立つことはないので、脱落することもある。興[xiəng](キョウ・おこる)の「お」は母音添加であろう。 匣母[h] は介音[i] などの影響で、摩擦音化してサ行に転移することもある。現代北京音では幸(xing)、狭(xi) であるが、古代の喉音は[k] に近い破裂音であり、現代北京音は摩擦音である。このことからも、古代の喉音が摩擦音化してきたことがわかる。 丸[huan/(h)muan*] (まる・ガン)、廻[huəi/(h)muət*] (まはる・カイ)、見[hyan/(h)myan*] (みる・ケン)、向[xiang/(h)miang*] (むかふ・コウ)、胸[xiong/(h)miong*](むね・キョウ)については訓は入りわたり音[h] が脱落したものであり、音は入りわたり音が発達したものであろう。同じ声符をもった漢字でマ行とカ行に読み分けるものもみられる。 毎(マイ)は入りわたり音[h] が脱落したものであり、海(カイ)は入りわたり音が発達したものである。日本語の海(うみ)は「毎」に母音「う」が添加されたものである。 舌音<舌頭音> 【端母[t]】【透母[th]】【定母[d]】 〇頭音脱落:天[thyen]・あめ、湯[thang]・ゆ・<陽>、荻[dyek]・をぎ、桶[dong]・をけ・<甬[jiong]>、 〇母音添加:痛[thong]・いたし、堕[duai]・おつ、弟[dyei]・おと、澱[dyen]・よどむ、 〇タ行:田[dyen]・た、竹[tiuk]・たけ、塔[təp]・たふ、畳[dyap]・たたみ、断[duan/duat*]・たつ、壇[dan]・段[duan]・たな・<棚>、種[diong]・たね、冢[tiong/tiog*]・つか、地[diet]・つち、釣[tyô]・つり、鳥[tyô]・とり、殿[dyən]・との、党[tang]・とも<友>、停[dyeng]・とまる、燈[təng]・ともる、 〇ナ行転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏):中[tiong]・なか、嘆・歎[than/thang/thak*]・なげく、脱[thuat]・ぬぐ、長[diang]・ながし、濁[diok]・にごる、塗[da]・ぬる、呑[thən]・のむ、登[təng]・のぼる、騰[dəng]・のぼる、 〇サ行転移(摩擦音化):沈[diəm]・しづむ、鎮[tien]・しづめ、知[tie]・しる(知)、潮[diô]・しほ、濯[diôk]・すすぐ、 端母[t]、透母[th]、定母[d] はいずれも歯茎の裏で調音される音である。[t] は清音であり、[d] は濁音である。[th] は日本語にはない発音であり、一旦とめた息を勢いよく吐き出すときにでる音で有気音と呼ばれる。 [t][th][d] は日本語ではタ行であらわれることが多いが、ナ行に転移することもある。ナ行音は[t][th][d] と同じ場所(歯茎の裏)で調音される鼻音である。 [t][d] は[‑i‑] 介音を伴う場合サ行に転移することがある。日本漢字音では沈(しづむ・チン)、鎮(しづめ・チン)、知(しる・チ)、潮(しほ・チョウ)、濯(すすぐ・タク)のように音ではタ行であらわれる音が訓ではサ行であわわれる。タ行イ段の音はサ行に転移したのである。 古代日本語では濁音が語頭に来ることはなかったので、濁音、有気音は頭子音が脱落することがあった。また、母音が添加されることもあった。 【泥母[n]】 〇ナ行:念願[niəm ngiuan]・ねがふ<願>)、 〇マ行転移(調音の方法が同じ・鼻音):【南[nəm]・みなみ】 古代中国語の泥母[n] は古代日本語ではナ行であれわれることが少ない。むしろ、中国語の[m] がナ行であらわれることが多い。 猫[miô] ねこ、苗[miô] なへ、名[mieng] な、鳴[mieng] なく、眠[mien] ねむる、 古代の日本語(弥生音)ではナ行とマ行が弁別されなかった可能性がある。 【来母[l]】 〇頭音脱落:綾[lieng]・あや、陸[liuk] おか、梁[liang]・やな、柳[liu]・やなぎ、良[liang]・よき、 〇母音添加:裏[liə]・うら、嵐[lam]・あらし、 〇ラ行:力士[liək]・リキシ、 〇タ行転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏):瀧[leong]・たき、嶺[lieng]・たけ、龍[liong]・たつ、立[liəp]・たつ、列[liat]・つらなる、留[liu]・とどまる、 〇ナ行転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏):浪[lang]・瀾[lan]・なみ、梨[liet]子・なし、練[liam]・ねる、 〇マ行転移(調音の位置が近い):嶺[lieng]・みね、燎[liô]・もゆる、漏[lo]・もる、 〇カ行(入りわたり音の痕跡):鎌[liam/(h)liam*]・かま、獵[liap/(h)liap*]・かり、栗[liet/(h)liet*]・くり、來[lə/(h)lə*]・くる、 輪[liuən/(h)liuən*]・くるま、籠[long/(h)long*]・こ・かご、 〇ハ行(入りわたり音の痕跡):陵[liang/(h)liang*]・はか、零[lyeng/(h)lyeng*]・ふる、落[lak/(h)lak*]・ふる、 ラ行音は古代日本語では語頭にたつことがなかった。万葉集のなかでラ行ではじまることばは「力士儛」ただひとつである。 中国語の来母[l] は日本語の訓ではタ行またはナ行に転移っすることが多かった。タ行、ナ行は調音の位置が[l] と同じ(歯茎の裏)であり、転移しやすい。 また、中国語の来母[l] は日本語の音韻構造になじみにくかったため、頭音が脱落したり、母音が添加されることがあった。朝鮮漢字音では来母[l] はつぎに[‑i‑] 介音を伴う場合は規則的に脱落する。 来母[l] の上古音には入りわたり音[h] が あったと考えられている。訓でカ行またはハ行に転移しているものは、中国語の入りわたり音の痕跡である。漢字には同じ声符の文字をカ行とラ行に読み分ける ものがいくつかみられる。カ行の漢字は入りわたり音の痕跡を留めたものであり、ラ行の漢字は入りわたり音が脱落したものである。[*] は上古音をあらわす。 果(カ)・裸(ラ)、格(カク)・洛(ラク)、監(カン)・覧(ラン)、諫(カン)・練(レ ン)、京(キョウ)・涼(リョウ)、兼(ケン)・簾(レン)、剣(ケン)・斂(レン)、など、 舌音<舌上音> 【照母[tj]】【穿母[thj]】【神母[dj]】 〇頭音脱落:赤[thjiak]・あか、射[djyak]・いる、置[tjiək]・おく、織[tjiək]・おる、縁[djiuan]・エン・よる、 〇母音添加:至[tjiet]・到[tô]・いたる、出[thjiuət]・いづる、 〇タ行:楯[djiuən/djiuət*]・たて、照[tjiô]・てる、衝[thjiong]・つく、 〇ナ行転移(調音の位置が同じ・歯茎の裏):乗[djiəng]・のる、 〇サ行転移(摩擦音化):指[tjiei]・さす、舌[djiat]・した、洲[tjiu]・す、渚[tjia]・す、 〇カ行(上古音の痕跡):神[djien/khuən*]・かみ・<坤>、 〇ハ行(上古音の痕跡・有気音):鍼[tjiəm/hiəm*]・はり・<針>、齒[thjiə]・は、春[thjiuən]・はる、穿[thjyuən/hjyuən*]・ほる、 照母[tj]・穿母[thj]・神母[dj] 系の発音は端母[t]・透母[th]・定母[d] 系の音が口蓋化して発生したもので、隋唐の時代以前は端母[t]・透母[th]・定母[d] 系の音に近かったものと考えられている。したがって、楯(たて)、照(てる)、衝(つく)が古く、楯(ジュン)、照(ショウ)、衝(ショウ)が新しい。 ナ行音はタ行音の転移したものであり、サ行音はタ行音の摩擦音化したものである。 口蓋化の影響で頭音の脱落したものもみられる。また、日本語の音韻構造に適合させるために、母音を添加したものもある。 穿母[thj] は有気音であり、カ行またはハ行に転移したものもある。神の古代中国語音は神[djien] とされているが、同じ声符をもった漢字に坤[khuən] があることから、「神」も神[khuən] に近い音価をもっており、それが神(かみ)になったものと考えることができる。[*] は上古音をあらわす。 【日母[nj]】 〇頭音脱落:熱[njiat]・あつし、如何[njia hai]・いかに、入[njiəp]・いる、柔[njiu/njiôk*]・やはら、弱[njiôk]・よはし、若[njiak/miak*]・わかい、 〇ナ行:汝[njia]・な・なれ、熱[njiat]・なつ<夏>、汝爾[njia njiai]・なむち・<汝>、柔[njiu/njiôk*]・にき・にこ・<和>、茹[njia]・にる・<煑>、潤[njiuən]・ぬれる・<霑・沾>、 〇マ行(口蓋化以前の音の痕跡):耳[njiə/miə*]・みみ・のみ、女[njia/mia*]・め、娘[njiang/miang*]・め・をみな、燃[njian/mian*]もゆる、 〇カ行転移(日母[nj] は疑母[ng]に近い):兒[njie/ngiə*]・こ・<睨>、 〇サ行転移(摩擦音化):染[njiam/djiam*]・しむ・そむ、 日母[nj] は泥母[n] が口蓋化したもので、ナ行、マ行などであらわれる。日母[nj] は不安定な声母でさまざまに転移する。日本漢字音では日本(ニッポン)、元日(ガンジツ)などとなる。「日本」は現代北京音ではri ben、朝鮮漢字音ではil bon などとなってあらわれる。 日母[nj] は朝鮮漢字音では規則的に脱落する。日本語の訓でも頭音が脱落した例が数多くみられる。 また、日母[nj] は疑母[ng] にも近く、兒(こ)などの例もみられる。兒と声符を同じくする漢字に睥睨(ヘイゲイ)があり、日母[nj] が疑母[ng] に近かったことがわかる。 日母[nj] は歴史的には次のような変化をとげたと思われる。[n]・[m]→[nj]→[dj]→[z] [*] は上古音をあらわす。 【喩母[j]】 〇頭音脱落:葉[jiap]・は・<蝶[thyap]>、 〇タ行(頭音の痕跡):寅[jien/djien*]・とら・<虎>、 〇ナ行転移(頭音の痕跡):野[jya/dia*]・の、 〇カ行(入りわたり音の痕跡):越[jiuat/(h)jiuat*]・こゆ、 喩母[j] は口蓋化の影響で頭音が脱落したものである。葉(は)と同じ声符をもった漢字に蝶(てふ)があり、葉は[t][th][d] 系の頭子音が脱落したものである。 寅[jien] を寅(とら)と読むのも頭子音[djien*] の痕跡であろう。 「野」と同じ声符をもった「舒」には記紀万葉の時代には杼(ド)という読みがあり、「野」にも野[dia*] のような上古音があり、それがナ行に転移したものと考えることができる。 越[jiuat] を越(こゆ)と読むのは入りわたり音[h] の痕跡であろう。[*] は上古音をあらわす。 【審母[sj]】【禅母[zj]】 〇頭音脱落:真[sjien]・ま、身[sjien]・み、矢[sjiei/sjiet*]・や、世[sjiai]・よ、臣[zjien]・おみ、淑[zjiuk]・よき、 〇母音添加:氏[zjie]・うぢ、 〇サ行:紗[sjiô]・さす、盛[zjieng]・さかり、城[zjieng]・しろ、蝉[zjian]・せみ、 〇カ行(口蓋化以前の音の痕跡):聲[sjieng]・こゑ・<馨[khyeng]>、是[zjie/hie*]・これ、 〇タ行(口蓋化以前の音の痕跡):束[sjiok/tjiok*]・つか、舂[sjiong/diong*]・つく、手[sjiu/tjiu*]・て、垂[zjiuai/diuat*]・たる、誰[zjiəi/tuət*]・たれ、常[zjiang/djiang*]・つね・とこ、時[zjiə/dək*]・とき・<特>、 〇ナ行転移(口蓋化以前の音の痕跡):嘗[zjiang/djiang*]・なむ、 審母[sj]・禅母[zj] は心母[s]・邪母[z] の口蓋化したものであり、日本語ではサ行であらわれる。 一方、審母[sj]・禅母[zj] には端[t]・透[th]・定[d] 系、あるいは見[k]・渓[kh]・群[g] 系の漢字が口蓋化したものもあり、前者はタ行であらわれ、後者はカ行であらわれる。嘗(なむ)はタ行系の音が転移したものである。[*] は上古音をあらわす。 審母[sj]・禅母[zj] には口蓋化の影響で頭母音が脱落したもの、母音が添加されたものもみられる。 歯音<正歯音> 【荘[tzh]】【初母[tsh]】【牀母[dzh]】 〇サ行:挿[tsheap]・さす、柴[dzhe]・しば、皺[tzhio]・しわ、巣[dzheô]・す、簀[tzhek]・す、 〇カ行(摩擦音化以前の音の痕跡・有気音):【斬[tzheam/heam*]・きる】 〇ハ行(摩擦音化以前の音の痕跡・有気音):【榛[tzhen/hen*]・はり】 〇タ行(摩擦音化以前の音の痕跡):【爪[tzheu/theu*]・つめ】【執[tshiəp/djiəp*]・とる】 荘[tzh]・初母[tsh]・牀母[dzh] は精[tz]・清[ts]・従[dz] に近く、サ行であらわれることが多い。 日本語の訓には荘[tzh]・初母[tsh]・牀母[dzh] が摩擦音化する前の痕跡を留めたものもみられる。カ行音・ハ行音はカ行系(後口蓋音)からの口蓋化の痕跡であり、タ行音はタ行系(前口蓋音)からの口蓋化の痕跡を留めている。[*] は上古音をあらわす。 【山母[sh]】【俟母[zh]】 〇頭音脱落:生[sheng]・いきる、秈[shean]・いね、色[shiək]・いろ、山[shean]・やま、 〇サ行:秈[shean]・しね・いね<稲>、澁[shiəp]・しぶし、霜[shiang]・しも、刷[shoat]・する、雙六[sheong-liuk]・すごろく、 山母[sh]・俟母[zh] は心母[s]・邪母[z] に近く、サ行であらわれることが多い、また、審母[sj]・禅[zj] に近く、口蓋化の影響で頭子音が失われることも多い。 歯音<歯頭音> 【精母[tz]】【清母[ts]】【従母[dz]】 〇頭音脱落:折[tsyet]・をる、 〇母音添加:泉[dziuan]・いづみ、 〇サ行:酒[tziu/tziuk*]・さけ、刺[tsiek]・さす、清[tsieng]・さやか、静寂[dzieng tzyak]・しずか、酢[dzak]・す、進[tzien]・すすむ、擦[tziat]・する、 〇タ行(摩擦音化以前の音の痕跡):千[tsyen/tyen*]・ち、千鳥[tsyen tyô/tyen* tyô]・ちどり、妻女[tsyei njia/mia*]・つま、津[tzen]・つ、作[tzak]・つくる、造[dzuk]・つくる、集[dziəp/diəp*]・つどふ、床[dziang/diang*]・とこ、取[tsio/tuat*]・とる、 〇カ行(摩擦音化以前の音の痕跡):清[tsieng/xieng*]・きよし、浄[dziəng/hiəng*]・きよし、切[tzyet/xyet*]・きる、倉[tsang/xiang*]・くら、子[tziə/xiə*]・こ、薦[tzian/xian*]・こも、此[tsie/xie*]・これ、 精母[tz]・清母[ts]・従母[dz] は日本語のサ行に近い。 精母[tz]・清母[ts]・従母[dz] には上代音が端母[t]・透母[th]・定母[d] であり、それが摩擦音化したものが含まれておりタ行であらわれるものもある。 また、後口蓋音[k]・[h] が摩擦音化しものもあり、カ行であらわれることもある。[*] は上古音をあらわす。 介音[i][y] を伴うものは、折[tsyet]・をる、のように頭音が脱落するもの、泉[dziuan]・いづみ、のように母音が添加されたものもある。泉(いづみ)は「出水」であるという語源解釈もあるが、日本語の泉(いづみ)は中国語の泉[dziuan] と同源であろう。 【心母[s]】【邪母[z]】 〇頭音脱落:息[siək]・いき、三[səm]・み、小[siô/xiô]・を、 〇サ行:鵲[syak]・さぎ<鷺>、咲[syô]・さく、死[siei]・しす、栖[syei]・す、塞[sək]・せき・<関>、摺[ziuəp]・する、袖[ziəu]・そで、 〇タ行(摩擦音化以前の音の痕跡):散[san/tat*]・ちる、續[ziok/diok*]・つづき・つぎ、寺[ziə/dək*]・てら・<特>、 〇ナ行転移(摩擦音化以前の音の痕跡):似[ziə/diəg*]・にる、 〇カ行(摩擦音化以前の音の痕跡):辛[sien/xien*]・からし、消[siô/xiô*]・きゆ、小[siô/xiô*]・こ・を、心[siəm/xiəm*]・こころ、 〇ハ行(摩擦音化以前の音の痕跡:箱[siang/xiang*]・はこ、 心母[s]・邪母[z] 日本漢字音では音でも訓でもサ行であらわれるものが多い。しかし、音でサ行であらわれる漢字のなかでも訓ではタ行・カ行などであらわれるものもみられる。 タ行音・ナ行であらわれるものは、前口蓋音(歯茎の裏で調音される音)が摩擦音化したものであり、カ行・ハ行であらわれるものは、後口蓋音(口腔の奥で調音される音)が摩擦音化したものである。[*] は上古音をあらわす。 また、頭音が脱落したものもみられる。 唇音 【幇母[p]】【滂母[ph]】【並母[b]】 〇ハ行:剥[peok]・はぐ、幡[phiuan/phiuat*]・はた・<旗>、匍匐[bua-biuk]・はふ、濱[pien]・はま、腹[piuək]・はら、拂[piuət]・はらふ、祓[buat]・はらふ・<掃>、氷[pieng]・ひ、稗[pie]・ひえ、繙[biuan]・絆[puan]・ひも、平[bieng]・ひら、包含[peu-həm]・ふくむ、伏[biuək]・ふす、筆[piet]・ふで、鮒魚[pio ngia]・ふな・<鮒>、盤[buan]・ふね・<船・舟・舶>、邊[pyen]・へ、方[piuang]・へ、帆[biuəm]・ほ、吠[biuat]・ほえる、佛[biuət]・ほとけ、褒美[biu miei]・ほむ、 〇マ行転移(調音の位置が同じ・唇音):峰[phiong]・みね、方[piuang]・も、本[puən/puət*]・もと、 幇母[p]・滂母[ph]・並母[b] は日本語ではハ行であらわれる。日本語の(弥生音)では牙音系の漢字(暁母[x]・匣母[h]、見母[k]・渓[kh]・群母[ng]・疑[ng])もハ行であらわれることがあるが、牙音系の漢字の音はカ行であるのに対して、唇音系の漢字(幇母[p]・滂母[ph]・並母[b])は音もハ行であらわれる。古代日本語のハ行には二つの系統があった。 後口蓋音系:火(カ・ひ)、灰(カイ・はい)、花(カ・はな)、広(コウ・ひろい) 唇音系:幡(バン・はた)、腹[piuək](フク・はら)、筆(ヒツ・ふで)、帆(ハン・ほ)、 ハ行音は調音の位置がマ行と同じ(唇音)であり、転移することがある。また、語頭に母音が添加されることがある。 【明母[m]】 〇母音添加:網[miuang]・あみ、母[mə]・あも・おも、寐[muət]・いぬ・ぬる、未[miuət]・いまだ、夢[miuəng]・いめ・ゆめ、妹[muət/muəi]・いも、馬[mea]・うま・むま、味[miuət]・うまし、海[(h)muə*]・うみ、梅[muə]・うめ、芋[(h)miua*]・うも・<蕪[miua]>、埋[məi]・うもる、面[mian/miat*]・おも・おもて、 〇マ行:免[mian]・まぬかる、舞[miua]・まふ、眉[miei]・まよ、満[muan/muat*]・みつ、麥[muək]・むぎ、鰻魚[muan ngia]・むなぎ、目[miuk]・め、萌[məng]・もえる、黙[mək]・もだす、物[miuət]・もの、 〇ナ行転移(調音の方法が同じ・鼻音):名[mieng]・な、勿[miuət]・な、莫[mak]・な、鳴[mieng]・なく・なる、無[miua]・なき、苗[miô]・なへ、寐[miuət]・ぬる・ねる、 〇ハ行転移(調音の位置が同じ・唇音):墓[mak]・はか、文[miuən]・ふみ、桙[miu/miog*]・ほこ、滅亡[miat miuang]・ほろびる、 〇ワ行転移(調音の方法が近い・合音):綿[mian/miat*]・わた、罠[mien]・わな、尾[miuəi]・を、 〇カ行(入りわたり音の痕跡):門[miuən/(h)muət*]・かど、毛[mô/(h)mô]・け、米[myei/(h)myei*]・こめ、 明母[m] は調音の位置が幇母[p]・滂母[ph]・並母[b] と同じ(唇音)である。しかし、調音の方法は泥母[n]・日母[nj]・疑母[ng] と同じ(鼻音)である。 明母[m] はマ行であらわれることが多く、同じく鼻音のナ行に転移することもある。また、調音の位置が同じ(唇音)ハ行であらわれることがある。 唇音[m] は調音の位置が合音であるワ行に近いため、ワ行であらわれることもある。 例:棉(メン・わた)、罠(ビン・ミン・わな)、尾(ビ・を) 明母[m] は日本語の訓では語頭に母音が添加されることも多い。馬(バ・うま)、梅(バイ・うめ)などが中国語に由来っすることはスウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレンが1920年代に『言語学と古代中国』で指摘しているところである。 明母[m] は現代上海音では入りわたり音があって[hm]に聞こえるという。上代中国語にも入りわたり音[h] があって、その痕跡が日本語の訓でカ行にあらわれるものと考えられる。 例:門(モン・かど)、毛(モウ・け)、米(マイ・ベイ・こめ)、 朝鮮語との同源語 朝鮮半島は紀元前から楽浪郡など漢の植民地がおかれ、古くから古代中国文明の影響を受けていた。このため朝鮮語も中国語の語彙をたくさん受け入れている。 日本語は朝鮮語と文法構造がほとんど同じであり、語彙は中国語の影響を多く受けている。朝鮮語の音韻構造は古代日本語と類似している点が多い。 ◉ラ行音が語頭にくることがない。柳[liu]・yu(やなぎ)、浪[lang]・nang(なみ)、 ◉日母[nj] は脱落する。熱[njiat]・yeol(あつい)、入[njiəp]・ip(いる)、閏[njiuən]・yun・
うるう、柔[njiu]・yu(やわら)、茹[njia]・yeo(ゆでる) ◉疑母[ng] は脱落する。魚[ngia]・eo(うを)、御[ngia]・eo(お)、牛[ngiuə]・u (う
し・<so は朝鮮語の牛)、 ◉韻尾の[t] は規則的に[l] に転移する。拂[piuət]・pul(はらふ)、擦[tsheat]・chal(す る)、出[thjiuət]・chul(でる)、括[kuat]・kwal(くくる)、惚[xuət]・heul(ほれる)、 掘[giuət]・kul(ほる)、没[muət]・mol(うもる)、物[miuət]・mul(もの)、 日本語・朝鮮語はともに中国語に由来する語彙をたくさんもっている。しかし、日本語は朝鮮語と文法構造はかなり類似しているが共通の語彙が少ないといわれている。 つぎにあげる語は日朝同源語だと考えられるものである。 朝・a chim(あさ)、言・ip(いふ・<口>)、笠・kat(かさ)、歩行・keol(かち)、神・ keum(かみ)、鷗・kal mae(かもめ)、城・ki(き)、串・kos(くし)、釧・ku seul(く しろ)、靴・ku du(くつ)、国・na ra(奈良)、蜘蛛・keo
mi(くも)、小網・sadul(さ で)、城・cas/ki(さし・き)、寒・chan(さむい)、猪・sa sem(しし)、島・seom(し ま)、妙・栲・tak na mu(たへ)、足・満・ta ri(たる)、垂・teu
ri eul(たれる)、月・ tal(つき)、爪・thop(つめ)、鶴・tu ru mi(つる)、友・tong
mu(とも)、鳥・sae(カ ラス・ウグヒスのス)靡・na pu ku(なびく)、涙・nun mul<眼水>)、縫・nuFu(ぬ ふ)、沼・neupp(ぬま)、告・mal/no rae(のる)、歯・i
pal(は)、畑・patt(はたけ)、 原・peol(はら)、針・pa neul(はり)、春・pom(はる)、日・hae(ひ)、火・pul(ひ)、 吹・pul da(ふく)、船・pae(ふね)、星・pyeo(ほし)、實・yeol mae(み)、水・mul (みづ)、村・ma eul(むら)、裳・chi ma(も)、弱・yak(よわい)、海・pa
da(わだ)、 ◉朝鮮語でip は「口」のことだが、日本語の「言う」と関係のあることばであろう。日 本語でも「言う」という意味で「口にする」などということがある。 ◉古語では「徒歩にて参ろう」などという。御徒町の御徒も同源である。 ◉朝鮮語では国のことをna ra という。日本の奈良は朝鮮語のna ra と関係のあること ばであろう。 ◉カラス・ウグヒスなどのスは中国語の隹[tjiuəi] (意味は鳥)と同源であろう。 ◉「わたつみの」は海にかかる枕詞であるが、朝鮮語のpa da(海)と日本語の海(うみ) を併記したものである。朝鮮語では両点といって、中国語と朝鮮語を併記することが古 くからある。 日本語の音韻構造 日本語の音韻構造は五十音ですむが、中国語の音節は子音や母音の数が多くその組み合わせは膨大な数にのぼる。それのみか、中国語には頭子音と主母音のあいだに介音(わたり音)があって、音韻の構造をされに複雑にしている。 例えば、「良」は良[liang] であり、頭子音[l] +介音[i] +主母音[a] +韻尾[ng] から成り立っている。 また、「浪」は浪[lang] であり、介音[i] はみられない。これを日本漢字音では良(リョウ)・浪(ロウ)と読み分けている。 しかし、古代日本語にはラ行ではじまる音がなかったので、「良」は介音[i] の影響で頭音が脱落して良(よき・よい)に転移した。 また、「浪」は介音[i] がないので、頭子音の[l] は調音の位置が同じ(歯茎の裏)のタ行に転移し、韻尾の[ng] は調音の方法が同じ(鼻音)マ行に転移した。 なお、朝鮮漢字音でもラ行が語頭に立つことがないので、良は良(yang)、浪は浪(nang)
に転移する。古代日本語と朝鮮語は音韻構造も近似していたものと考えられる。 日本語の五十音図は平安時代の僧・空海、円仁などがサンスクリットの音図を参考にしてつくったものであるが、音韻学的にはダ行はタ行の濁音であるだけでなく、ナ行の濁音でもある。また、バ行はハ行の濁音であるだけでなくマ行の濁音でもある。 例:男(ナン・ダン)、呑(のむ・ドン)、鈍(にぶい・ドン)、濁(にごる・ダク)、 馬(マ・バ)、美(ミ・ビ)、麥(むぎ・バク)、眉(まゆ・ビ)、牧(まき・ボク)、 日本語でも調音の位置の同じ音は転移しやすい。また、調音の方法の同じ音は転移しやすい。
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