第99話 朝鮮語訳の聖書

 大野晋は今では日本語・タミル語起源説でしられているが、1957年に『日本語の起源(旧版)』を出版したときは日本語・アルタイ語系説であった。日本語・アルタイ語系説は明治以降多くの学者によって 唱えられ、当時の通説でもあった。ところが、大野晋は1990年代になるとタミル語起源説を提唱して、旧版は絶版にしてしまった。日本語はアルタイ系の言 語なのだろうか、タミル語と同じドラヴィダ語系の言語なのだろうか。

 ここでは、まず『韓日対照聖書 改訳改訂版新共同訳』日本聖書協会、1992年によって日本語と韓国・朝鮮語を比較してみることにする。(原文はハングル)

<ヨハネによる福音書>

1.初めにことばがあった。
      tae-cho- e  mal-sseum-   i     kye-si ni-ra 
     [太初]    -    お言葉          -が    ありました。(文語・ていねい形)

  ことばは神と共にあった。
      i   mal-sseum- i  ha-na- nim- gwa  ham-kke  kye-syeott eu-ni 
    また お言葉  -が 神    -と 共に      あられた。(過去・ていねい形)   

  ことばは神であった。
      i   mal-sseum-  eun  kot   ha-na- nim-  i-si-ni-ra
    また お言葉  -は  即   神    -でありました。(文語・ていねい形)

 

   ○ 朝鮮語では日本語と同じく、「太初」など中国語からの借用語が使われている。

   ○  朝鮮語は日本語と同じく、助詞によってことばを糊付けしていく、いわゆる膠着語である。
      e「に」、i「が」、gwa「と」など。

   ○  朝鮮語では日本語と同じく、あるいは日本語以上に敬語やていねい語が多く使われる。
      mal-sseum
malは「ことば」、sseumは尊称)、先生や目上の人、神などにはmal-sseum「お言  葉」のように尊称を使う。

kye-si-da(おられる、いらっしゃる、まします)も、尊敬語である。ke-si-raは文語形である。

ha-na-nim(キリスト教の唯一神、プロテスタントの神)、カトリックではcheon-ju(天主)を使う。

    ○  朝鮮語の語順は日本語と同じで、主語+目的語または補語+動詞である。

2.このことばは、初めに神と共にあった。
      keu-  ga   tae-cho- e   ha-na-nim- gwa  ham-kke   kye-syeot-    go
     それ    [太初] -に  神      -     共に    (過去・ていねい形)  あって

3.万物はことばによって成った。
      man- mul-  i  keu-ro mal-mi-am-a  ji-eun   ba   toe-eott-   
       [萬物]     -はそれ   によって       造られ  (断定)  成った(過去)

  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
      eu-ni   ji-eun        geot  i    ha-na-   do  keu- ga   eops-i-  neun
     だから 造られた もの  -   ひとつ  も それ が     なしに     

  toen   geot-   i         eops-   neu- ni- ra
    成った もの は    ない  のである(文語・ていねい形)

    ○  萬物は朝鮮語では萬物(man-mul)と発音される。中国語の韻尾-tは朝鮮語では規則的に-lになる。
    地下鉄
(chi-ha-chol)、万年筆(man-nyeon-pil)などのごとくである。日本語の刷(する)、擦(す  る)、払(はらう)、お祓い(おはらい)なども朝鮮語音の影響を受けた、古い時代の中国   語からの借用語である可能性がある。

<マタイによる福音書第6章>

 9. だから、こう祈りなさい。
    keu-reo-meu-ro  neo hui-  neun  i-reoh-ke    ki-do   ha-ra
   -      
だから    お前-たち  -は  このように  [祈祷]   しなさい(命令)。

  天におられるわたしたちの父よ、
                 ha-neul  e  kye-sin           u- ri  a-beo-ji  yeo 
         天  
-に おられる(ていねい形)     我ら    父親        よ  

  御名が崇められますように。
                 i-reum-  i  keo-ruk-hi  yeo-gim-eul  pat-eu-si-     o-myeo
     名前   -  神聖である   みなす   (受身)される ますように(連結語尾)

10. 御国が来ますように。
                na-ra-i  im-  ha-eop-si-     myeo  
     国  []   なされ(勧誘)  ますように(文語形の語尾・尊敬)  

  御心が行われますように。
                 tteut -i  ha-neul  e-seo   i-run  geos 
    志-が              -にて      成り (接続語尾)  

  天におけるように地の上にも。
                 katt- i  ttang-e  seo-do    i-ru-eo      ji -i-da
    同じく 土地-に にも  成る(命令) (補助詞)

    ○   国は朝鮮語でna-raである。日本の奈良も渡来人が朝鮮語のna-raにならって命名したのではない  か、といわれてい る。

    ○   中国語の「臨」は朝鮮語では臨(im)と発音する。朝鮮語では語頭にr音が立たないので、語頭  のrは脱落して臨(im)となる。r音が語頭に立たないのはアルタイ系言語の共通の特徴で、モン  ゴル語もr音は語頭に立たない。日本語も古代日本語では借用語以外はr音が語頭に立つこと  ばはない。日本漢字音では臨「リン」であるが、朝鮮語では韻尾の-m-nは区別さて臨(im)とな  る。意味は「国が降臨しますように」である。

11.わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
         o-neul-nal  u-ri-     e-ge  il-yeong- hal    yang-sik-  eul  ju-     eop- si-go
   今日    我われ に  [日用]  たべる  [糧食]     -     与え   くださり(勧誘)

中国語からの借用語「日用」は朝鮮語では日用(il-yong)であり、中国語原音の日用(njiet-jiong)の  語頭音nj-は脱落し、語尾の-t-lに転移している。「日本」を朝鮮語で日本(il-bon)というのも同  じである。「糧食」の語頭音rが脱落して糧食(yang-sik)となるのは前出の臨(im)と同じであ   る。

12.わたしたちの負い目を赦してください。
                   u-ri- ga   u-ri- e-ge  joe   ji-eun   ja- reul          sa- ha-yeo
     我ら-が 我ら-に  []  犯した  []-を  []  すした(過去・ていねい形)

    わたしたちも自分に負い目のある人を、赦しましたように。
                    jun-geot  katt-i     u-ri  jeo  reul       sa   ha-yeo                                 ju-eup-si-go
     こと   のように 我  []-を   [] し(未来・ていねい形) たまえ

   ○   朝鮮語のhadaは日本語の「する」に相当することばである。過去形はhayeot-ta、過去ていねい  形はha-yeos-seum-ni-da、未来推量形はha-yeok-ket-ta、未来推量ていねい形はha-yeok-kes-
    seum-ni-da
である。「ありがとう」はkam-sa-ham-ni-da(感謝ham-ni-da)はていねい形、あいさ  つのan-nyeong-ha-sim-ni-kka(安寧ha-sim-ni-kka)尊敬・ていねい形に疑問の-kkaが加わったも  のである。

○ 朝鮮語のu-riは主格にも所有格にももちいられる。

13.わたしたちを誘惑に遭わせず、
                   u-ri-  reul  si-heom-  e  teul-ge ha-ji  ma-     eup-si-go  
         我ら
  -     [試験]  -に 落とし入れ   (否定) たまうな 

  悪い者から救ってください。
                   ta-man  ak-   e-seo  ku- ha-si  eup-so  seo 
         ただ   [] から  []  って   やってください 

   中国語からの借用語で朝鮮語では「テスト・試練」と「誘惑」のふたつの意味で使われる。この場合は「誘惑」である。
前出の臨
imと同様、朝鮮語では「験」の韻尾-m-nは区別は保たれている。北京語では「験」はyan-m-nの区別は失われているばかりか頭子音も失われている。広東語では「験」はyimで現在でも韻尾の区別が保たれている。 

  聖書の翻訳を通して日本語と朝鮮語を比較してみると日本語と朝鮮語の特徴についていくつかのことが分かってくる。

○日本語と同じ特徴:●日本語と異なる特徴

朝鮮語は日本語と同じように、中国語からの借用語が多くみられる。
太初
tae-cho、萬物man-mul、祈祷ki-do、臨im、日用il-yong、糧食yang-sik、者ja、赦sa、罪jui、試験si-heom、悪ak、救ku

朝鮮語の語順は基本的には日本語と同じで、主語+目的語+動詞の順である。文章の最後に動詞がくる。

日本語、朝鮮語ともにいわゆる膠着語であり、名詞のあとに助詞がついて主格、所有格、目的格などをあらわす。前置詞は用いられない。

 [前の音節]

~は

~が

~を

~と

~に

(場所)

~に

()

~も

~から

~で

母音終わり

-neun

-ga

-reul

-wa

-ui

-ege

-do

-e seo

子音終わり

-eun

-i

-eul

-gwa

日本語にも朝鮮語にも尊敬表現、ていねい表現などがある。朝鮮語は尊敬表現やていねい表現が日本語より発達している。これは中国語やヨーロッパの言語にもない特徴である。

● 借用語は朝鮮語の音韻体系によって転移するので、中国語原音の発音とも、日本漢字音の発音とも異なっている。

 ①中国語韻尾の-tは規則的に-lになる。万物(man-mul)、日用(il-yong)
②朝鮮語では中国語韻尾の
-n-mは区別されているのに対し日本語では「ン」となって弁別され ない。例:臨(im)、試験(si-heom)
③朝鮮語では中国語韻尾の
-ngが保たれているのに対し日本語では音便形になる。
   例:日用
(il-yong)・「ニチ-ヨウ」、糧食(yang-sik)・「リョウ-ショク」
④朝鮮語ではラ行音が語頭にくることがないので、中国語原音のラ行音は語頭では脱落する。糧   食
(yang-sik)。古代日本語でもラ行ではじまることばはなかった。ラ行ではじまることばがない のはアルタイ系言語の特色のひとつとされている。
⑤朝鮮語では語頭に濁音がくることがない。語中では濁音となる。日本語でも語頭では清音のも のが語中では濁音になる。例:
a-bo-ji(父)など、

 ハングルでは父a-po-jiと書いて語中ではpはbと発音される。朝鮮語では語頭に濁音がたつことはない。語頭では清音で発音される音が語中では規則的に濁音になる。清音と濁音が語頭と語中で相補分布する。古代日本語でも濁音が語 頭にくることはなかった。

朝鮮語には母音調和があって、陽母音(a,o)は陽母音と結びつき、陰母音(i,u,eo,eu)は陰母音の接尾辞や助辞と結びつくと性質がある。これはアルタイ系言語の特色のひとつであり、古代日本語にも母音調和があったといわれている。

● 朝鮮語の音節は子音で終わるものもある。例:kot「則」、kye-syeot, toe-eott, geot,など、しかし、これは多分に表記法上の問題であって、話ことばでは韻尾の子音はつぎの音節の母音とリエゾンするので、聴覚印象的には開母音に近い。

  朝鮮語の語彙は日本語に似ているものは少ないが、文法構造はきわめて日本語に近い。語彙は、方言などもあって変わりやすい。しかし、言語がその意味を伝え る構造・文法構造は語彙ほどには変わらない。従来、言語の系統は語彙や音韻の比較によって、主になされてきたが、文法の構造を比較することによって、深層 構造の比較をすることができる。

朝鮮語の解釈は、基本的には辞書と文法書をたよりに行ったが、東京韓日バプテスト教会の黄洛孝牧師の指導を受けた。


もくじ

☆第28話 対訳万葉集

★第46話 ソウル街角ウオッチング

☆第47話 朝鮮漢字音の特色

★第48話 朝鮮半島の漢字文化

☆第50話 日本語のなかの朝鮮語

★第51話 現代中国語と韓国・朝鮮語

☆第52話 北京音・朝鮮音・日本漢字音

★第77話 記紀のなかの朝鮮語の痕跡

☆第89話 日本語と朝鮮語

★第106話 日本語と近いことば・遠いことば