第52話 北 京音・朝鮮語音・日本漢字音 日本漢字音と中国語原音、あるいは朝鮮漢字音との 間には一定の音韻対応がある。例えば、調音の位置が同じ音は転移しやすい。また、調音の方法が同じ音は転移しやすい。日本語と中国語、朝鮮語はそれぞれ音 韻体系が違うので、中国語や朝鮮語にあって、日本語にない音は近い音で代替される。たとえば、中国語の喉音は日本語にはないので、借用語ではカ行で代替さ れる。朝鮮語や古代日本語ではラ行の音は語頭にたたないので、脱落するか、ナ行で代替される。 一から十までの数字について、現代の北京語音、日 本漢字音と朝鮮漢字音の関係はつぎのようになる。いずれも古代中国語音から一定の法則にしたがって変化してきている。基準となる古代中国語音は王力の『同 源字典』によった。
古代中国語音 現代の北京音 現代の朝鮮
語音 現代の日本語音 現代の日本語、中国語、朝鮮語の数詞は並べて見 てもほとんど何の関連性も見出せない。しかし、古代中国語音を基準点として比較して見ると中国語、朝鮮語、日本語の数詞が共通の語源から出ていることは一 目瞭然である。 ○ 韻尾音 現代の北京音では、古代中国音の韻尾[-t]、[-k]、[-p] はすべて失われている。朝鮮語音 では古代中国語の韻尾[-t] は一(il)、七(chil)、八(pal)のようにlで代替されている。[-k]、[-p] は六 (yuk)、十(sip)となって中国語の原音が 保たれている。日本 語では[-k]、[-t] はイチ(ichi)、ロク (roku)、シチ(shichi)、ハチ(hachi)などのように母音をともなって二音節になっているが、古代 中国語の韻尾は保たれている。[-p] は十「ジプ」となるべきところを、十「ジュウ」という音便 形で、かろうじて痕跡を留めている。 古代中国語の韻尾[-n]、[-m] は現代朝鮮語では区別されているが、日本語、現代の北京語では区別 は失われて、-nに合流している。古代中国語の三[səm] は現代朝鮮語ではsam、北京語では san、日本語ではサン(san) である。 ○語頭音 古代中国語の声母[nj-] は北京語、朝鮮語では失われている。古代中国語の二[njiei] は現 代の北京語では二(er)、現代朝鮮漢字音では二(i) となっている。日本漢字音では二(ni) となっ て、ナ行音になる。日本[njiet puən]の場合も、現代北京語では日本(ri-ben)、現代朝鮮語では日 本 (il-bon)となる。 古代中国語の声母[ng-] も北京語、朝鮮語では失われている。古代中国語の五[nga] は、現代北京語では五(wu)、現代朝鮮漢字音では五(o )となっている。日本漢字音では五(go) である。古代中国語音は五[nga] であり、鼻濁音だから「コ゚」となるべきところであるが、日本語では鼻濁音が語頭にくることはないので五「ゴ」で代替されている。 古代中国語の語頭音[l-]は、現代朝鮮語音では失われている。古代中国語の六[liuk]は朝鮮語音では六(yuk)である。日本語音は六(roku) である。古代の日本語ではラ行の音が語頭にくることはないので、これは新しい借用語であることがわかる。 日 本の漢字音が唐代の長安の標準語音に依拠するようになったのは、奈良時代以降であり、それ以前の借用語は江南音によっている可能性がある。また、朝鮮半島 で朝鮮漢字音としていったん定着したものを借用したものもある。古代日本語のなかの借用語(弥生音)は江南音や朝鮮漢字音などとも比較してみる必要があ る。 すべての単語について中国語の方言を網羅するのは 大変な作業であるが、少数の例でも変化の法則を垣間見ることができる。ちなみに、現代の中国語方言や朝鮮漢字音で「北京、上海、広東、平壌、日本、東京」 の発音を比較してみると、つぎのようになる。
北京語
広東語
上海語
朝鮮漢字音 現代の日本の漢和字典には漢字音として呉音と漢音 だけがとりあげてあり、朝鮮漢字音は全く記されていない。また、中国における漢字の読み方も、漢音の基礎となった唐代の音だけが記されていて、古代中国語 音はほとんど記載されていない。しかし、古代の日本文化が中国江南地方の文化の影響を受けていること、また中国文化が弥生時代に、中国大陸から朝鮮半島を 経て日本列島にたどり着いたことを考えると、朝鮮半島における漢字の使用が日本漢字音に与えた影響は無視することはできない。現代の中国語音との比較で見 る限り、日本漢字音は朝鮮漢字音にもっとも近く、中国語方言では北京語よりも、むしろ広東語の発音に近い。 古代中国語音を復元する作業は『詩経』の韻を調 べることによって行なわれている。また、漢字の声符も重要な手がかりを与えてくれる。漢字には発音を示す声符と、字義を示す義符がある。声符が同じ漢字は 同じ発音をしていた可能性がある。 ○頭音の脱落 これらの漢字は、文字ができた時には同じ発音であり、その痕跡を声符に留めているものと思われる。漢詩の韻の研究は韻部については、古代の発音の痕跡を残 しているが、声母(語頭音)については、何のてがかりも与えてくれない。漢字の声符は声母が転移したことを示唆している。 ○頭音の交替(カ行とサ行、サ行とタ行、カ行と
タ行) また、韻尾の音の交替があったことを示唆する 痕跡も多く残されている。 ○韻尾音の交替(nとt、kとt) ○韻尾音の脱落 日本語の訓のなかには中国語の古い発音の痕跡を留 めていると思われるものが、少なからずみられ る。 ○カ行頭音脱落 これらの例では、訓は弥生時代の中国語からの借用 音であり、音は奈良時代前後の借用音である可能性が高い。日本における漢字の読み方には音と訓があり、音には呉音、漢音、唐音などがあるとされている。し かし、訓読みがすべて「やまとことば」かというと、そうではないらしい。訓とされていることばのなかには、日本が本格的な文字時代に入る以前に中国語から 借用された語彙がかなりふくまれている。それを仮に弥生音と名づけることにする。 弥生音は隋唐の時代以前の中国語音を反映してお り、朝鮮漢字音の影響を受けているものもある。日本語に借用される過程で日本語の音韻構造に影響されて、音が転移しているものもみられる。しかし、その転 移のしかたには一定の法則があり、古代日本語の起源を解明する鍵になる。 |
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☆第62話 やまとことばのなかの中国語 |