第48話 朝鮮半島の漢字文化 朝 鮮半島は日本列島より早く漢字文化の洗礼を受けた。日本の弥生時代にあたる紀元前109年に漢の武帝は朝鮮半島北部に楽浪郡など4郡を置き植民地経営にの りだした。統治のための言語は当然中国語であった。紀元前37年ごろには高句麗が成立しているが、高句麗では早くから文字が使われていた痕跡がある。当然 漢字である。 朝
鮮語は、日本語と同じように、文字をもたなかったため、朝鮮半島では話しことばは朝鮮語、書きことばは漢文という時代が続いた。やがて、漢字を使って朝鮮
語を表記する工夫が行われるようになった。そこに生まれたのが「誓記体」、「吏読」および「郷札」である。李基文の『韓国語の歴史』、金思燁の『古代朝鮮
語と日本語』などを参考にしながらその軌跡をたどってみることにする。 ○ 誓記体 壬申年六月十六日 二人并誓記 天前誓 今自三年以後 忠道執持 過失无誓 若此事失 天大 罪得誓 若國不安大乱世 可容行誓之 又別先辛未年七月廿二日大誓 詩尚書礼伝倫得誓三年 この碑文はつぎのように読みくだすことができる。 壬申年六月十六日、二人并んで誓って記す。天の前に誓う。今より三年後に 忠道を執持し、過 失のないことを誓う。若(もし)此の事を失すれば、天の大罪 を得んことを誓う。若(もし)国 安からず大乱世になれば、可(よろし)く容(すべから)く(忠道を)行わんことを誓う。ま た別に先の辛未年七月二十 二日に大きく誓った。詩経、尚書、礼記、左伝を倫得(相次いで習 得)することを誓ったが、(その期間を)三年ときめた。 この文章は漢字で書かれているが、その語順は中国語とはまったくちがう。漢字を新羅語の語順で並べたものである。誓記体の構文は朝鮮語と同じである。しか し、朝鮮語の助詞とか活用語尾のような、文法的関係を表わす要素は表記されていない。新羅語、朝鮮語、日本語は語順が同じだから、助辞を補って読めば日本 語としても読みくだすことができる。 誓記体は、万葉集で『人麻呂歌集』などに用いられている略体表記と呼ばれる表記法と、まったく同じである。
戀事 意追不得 出行者 山川 不レ知来(万2414) これらの歌には日本語の助詞や活用語尾は表記されていないから、それを補って読む。
恋ふる事 なぐさめかねて 出で行けば 山も川をも 知らず来にけり 『人麻呂歌集』は誓記体と同じ表記法で書かれているということになる。日本語を漢字を使って表記する方法は、朝鮮半島で漢字を使って朝鮮語を表記する方法をふまえて、発展しているとみて間違いない。 壬申誓記石の壬申年は552年(あるいは612年)と考えられているから、6世紀ないしは7世紀初頭の朝鮮語の記録である。「可容行誓之」 は「よろしくすべからく行わんことを誓う」と読みくだしている。この「之」は朝鮮語の表記で動詞の終止形を示すものとされている。日本にもこのような 「之」の用例をみることができる。昭和54年に奈良市で『古事記』の撰述者である太安万侶の墓誌が発見された。銅版の墓誌には2行にわたって、つぎのよう に記されていた。 左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 「卒之」とある「之」が壬申誓記石で使われている「之」と同じで、動詞の終止形を表わす朝鮮語の書記法をそのまま用いている。 ○ 吏読 辛亥年二月廿六日 南山新城作節 如法以作 後三年崩破者 罪教事為 聞教令誓事之、 傍線を引いた文字は朝鮮語の助辞である。「節、以、者、教、為、令、之」は朝鮮語の送り仮名 (これを吐という)にあたる。これらの漢字の読み方は音 読みで、朝鮮語の助辞にあてられてい る。「節」は「、、のとき」、「以」は「、、で」で、この碑文はつぎのように読みくだすことが できる。
辛亥年二月二十六日、南山に新城を作るとき 法に如(したが)って作る。
後三年崩壊すれば、 罪せしめらるる事と聞かされ、
誓はしむる事なり つぎの文は慶尚北道金陵郡開寧面にある葛項寺の石塔記(758年建立)の一節である。
二塔天宝十七年戊戌中立在之 傍線の部分は吐である。「之」、「弥」、「妳」、「也」は活用語尾をあらわし、「中」、 「以」、「者」は助詞、「為」は接尾辞であり、「在」は敬語法である。碑文はつぎのように読み くだすことができる。 二塔は天宝十七年戊戌に立てられた。娚・姉・妹三人で立て た。娚は零妙寺の言寂法師であら せ られ、姉は照文皇太后君である。妹は敬信大王であらせられる。 「之」、「者」などは日本語の表記でもよく使われている。本来の中国語にはあまりない用法 で、和臭と呼ばれて、荻生徂徠など江戸時代の漢学者はできるだけ避けようと努めた。 この表記法は、万葉集で最も多く用いられている「常体」あるいは「非略体」と呼ばれる表記法 と同じである。朝鮮半島で工夫された、漢字で朝鮮語を書き表す方法は、同じアルタイ系言語であ る日本語の表記にも転用された。
君之齒母 吾代毛所レ知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名(万10) これらの歌はつぎのように読みくだされている。
君がよも 吾が世も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな ここでも万葉集の表記法は、朝鮮半島における経験をふまえているとみて間違いない。 ○ 郷札 [原文] 金思燁の訳文はまことに詩的で、つぎのようになっている。 [訳文] 郷札は語幹の部分は原則として朝鮮語の訓で読み、助辞など文法的要素は音読する。たとえば「‐隠」は[-n]で 日本語の「、、は」にあたる。吏読に比べて朝鮮語の助詞や活用語尾がていねいに書き込まれている。漢字は音読と訓読が混用されていて、どれを音読して、ど れを訓読すべきか、判別のつきかねる場合も多い。韓国の郷歌研究の大家である梁柱東の『古歌研究』によると、この歌はつぎのように読みくだす。(原文のハ ングルの部分はローマ字で表記した。訓読の文字は傍点で示した。音読の文字は傍線で示した。) 生死路隠 此矣有阿米次肹伊遣 吾隠去内如辞叱都 毛如云遣去内尼叱都 於内秋察早隠風未 此矣彼矣浮良落尸葉如 一等隠枝良出古 去奴隠處毛冬乎丁 阿也 弥陀刹良逢乎吾 道修良待是古如 郷 歌の解読はかなり専門的な分野だが、古代新羅の人びとが、漢字を使って新羅語の歌を表記しようとした苦闘の跡が素人にもみてとれる。ここには中国語からの 借用語、漢字を朝鮮語にあてはめた訓読のことば、中国語音を借りて朝鮮語の音を表わしたもの、音読みにするのか訓読みにするのかの手がかりを与えるために 末音添記したもの、と四種類の使い方が識別できる。 [中国語からの借用語] 生死路、弥陀刹、道、 音借の文字は助詞(隠、矣、米、遣、良、)、疑問詞(古)、助動詞(内)、活用語尾(阿、良、乎)などに使われている。また「於内」のように2字の音を借りて、朝鮮語の「何」という意味を表わす場合もある。 [末音添記] 末音添記という表記法は、両点とともに古代朝鮮語解読の鍵となる。末音添記は漢訳仏典などでもよく用いられている。「南無阿弥陀仏」、「南無妙法蓮華経」などの「無」は「南」の末音が[-n]ではなくて[-m]であることを表わすための、末音添記である。「ナム」はサンスクリットで「帰依する」を意味することばで、「阿弥陀仏に帰依する」、「法華経に帰依する」という意味になる。中国語の韻尾[-m]と[-n]は地方によって、区別されているところと、混用されているところがある。「南」は北京語ではnan、広東語ではnaahm、上海語ではneu、福建語ではlamとなり、朝鮮漢字音ではnam、日本漢字音ではnanとなる。サンスクリットの原音ではnamなので、その原音を明記するために末音「無」を添記したものである。 日本の古地名でも、甲斐、揖保、 紀伊、斐伊川などは、末音添記である。「甲斐」の場合は、甲[keap] の韻尾が甲(コウ)でなくではなく、古音の甲(カヒ)であることを喚起するために「斐」を添記している。「揖保」の揖[iəp] も揖(ユウ)ではなく、古音の揖「イヒ」であることを示すために、「保」を添記したものである。現代語では「三味線」の「味」も三線の「三」が「サン」ではなく「サム」と発音されるように添記したものである。 郷 歌は未だに完全に解読されているわけではない。郷歌は新羅語の古音を留めているので、まずその音の復元が、乏しい資料からは困難である。また、郷歌は漢字 の音と訓を混用しているため、どれを訓で読んで、どの漢字を音で読むかを特定することが専門家でもむずかしい。中国語専用の文字であった漢字で、朝鮮語と いうまったく系統の異なる言語を表記することがいかに困難であったか、郷歌は雄弁に物語っている。郷札は高麗初期までは存続したが、その後はしだいに消滅 の道をたどった。表記法が複雑すぎて、解読が困難だったためである。しかし、朝鮮半島で試みられた漢字による朝鮮語表記法は、朝鮮半島出身の史たちによっ て万葉仮名など、漢字による日本語表記法へと行き継がれていく。そしてまた、万葉仮名も、平安時代に「かな」が発明されることによって、消えていく運命を たどるのである。 |
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