第46話 ソウル街角ウオッチング

  ソウルの街はハングルの洪水である。漢字の表示のほとんどない。街で耳慣れないことばを聞いていると、これがわが隣国なのかと不思議な気分になり、朝鮮語 は本当に日本語に近い言語なのかと、いぶかしく思えてくる。ソウルの中心街から地下鉄(チハチョル)に乗ってみることにする。ロッテホテルのすぐ前がsi-cheong(シジョン゜)である。si-cheong は「市廳」の朝鮮語読みである。

 朝鮮語では韻尾の-tは規則的に-lに 転移するので、地下鉄(チカテツ)はチハチョルになる。また、朝鮮語ではラ行の音は語頭にこないから「ロッテホテル」という名はハイカラな外来語のイメー ジを韓国の人には与えるに違いない。老人や田舎の人は語頭にくる「ロ」の音は発音できないから「ノッテホテル」と発音してしまうはずである。

 ソウルの地下鉄はハングルの読めない人のために、駅にナンバーがついているのが、せめてもの救いである。ハングルは表音文字なので地下鉄の駅名をローマ字にしてみると、次のようになる。

  ①    si-cheong、②eul-ji-ro-ip-gu、③eul-ji-roga、④eul-ji-roga、⑤tong-dae-mun -un-dong-jang、
 ⑯
jam-sil

 これがもし漢字で書いてあったら、同じ漢字文化圏に属する日本人には、もっと理解できるはずである。地下鉄の駅名を漢字で書いてみると、次のようになる。

 ①市庁、②乙支路入口、③乙支路三街、④乙支路四街、⑤東大門運動場、⑯蚕室、

中国語の庁(ting)、東(dong)、動(dong)、場(chang) はそれぞれ鼻濁音「ン゚」である。日本漢字音では庁「チョウ」、東「トウ」、動「ドウ」、場「ジョウ」と発音されるが、朝鮮漢字音では庁(cheong)、東(tong)、動(dong)、場(jang)のように鼻濁音を保っている。「乙支路入口」の「入」の古代中国語音は入[njiəp]である。朝鮮漢字音では語頭の[nj-] は 失われて入(ip) となる。古代中国語の語頭の日母[nj-] は朝鮮漢字音では規則的に失われて、日本は日本(il-bon)になる。朝鮮語では「入口」は入口(ip-gu)、「出口」は出口(chul-gu) で、いずれも中国語からの借用語である。

「門」は門(mun) 、「運」 は運(un) である。「蚕」 は蚕(jam) である。日本語では門(モン)、運(ウン)、蚕(サン)となり、韻尾の[-n] [-m]は区別されないが、朝鮮漢字音では区別されている。これは古代中国語の韻尾の違いを反映したものである。古代中国語では「門」、「運」、「蚕」はそれぞれ門[muən]、運[hiuən]、蚕[dzəm]で、[-n][-m]が区別されている。現代の北京語では[-m] [-n] の区別は失われて門(men)、運(yun)、蚕(can)で、いずれも語尾は-nになっている。

「乙」、「室」の古代中国語音は乙[eat]、室[sjiet]である。古代中国語の韻尾の[-t] は朝鮮漢字音では規則的に-lに変化する。室[sjiet]は朝鮮漢字音では室(sil)であり、出口の出[thjiuət] も出(chul)になる。

トイレのハングル表示も「男」は男(nam)、「女」は女(yo)である。いずれも中国語語源である。韓国語の女(yo)は古代中国語音の女[njia]の頭音の[nji-] が失われたものである。朝鮮半島の地名も朝鮮漢字音で読まれている。

平壌(pyeong yang)、 仁川(in cheon)、 板門店(pan mun jeom)、 慶州(kyeong ju)、 光州(kwang ju)、       済州島(je ju do) 漢江(han gang)   洛東江(nak tong gang)、 元山(won san) 蔚山(ul san)

朝鮮漢字音は古代中国語音を基準点にすると、規則的に対応している。[  ]内が古代中国語音である。

平壌[being-njiang]、 仁川[njien-thjyuən]、 板門店[piuan-muən-tyəm]、 慶州[khyang-tjiu]、 光州[kuang-tjiu]、  済州島[tzsyei-tjiu-tô]、 漢江[xan-kong]、 洛東江[lak-tong-kong]、 元山[ngiuan-shean]、 蔚山[iuət-shean]

 「壌」、「仁」の語頭の[nj-]は失われて、朝鮮漢字音では壌(yang)、仁(in)になる。「店」の韻尾は、朝鮮漢字音ではmnが区別されて店(jeom)である。

「漢」は中国語音、朝鮮語音では喉音[xan]であるが、日本漢字音ではカ行に置き換えられて漢(カン)に転移している。この場合、朝鮮漢字音のほうが日本漢字音より中国語原音に近いといる。

「洛」は、朝鮮語では語頭にlの音がくることないので、洛(nak) となってnに転移している。この場合は日本漢字音の方が朝鮮漢字音よりは中国語原音に近い。

「元」の語頭の鼻濁音[ng-]は朝鮮漢字音では失われるので、元(won)となる。中国の通貨は元「ゲン」であり、韓国の通貨は「ウオン」であるが、漢字で書けば同じく「元」である。

「蔚」は慰、尉ともに日本漢字音は蔚(い)だが、古代中国語音は蔚[jiuət]で韻尾に-tの音があった。朝鮮漢字音の蔚(ウル)は中国語の韻尾-t-lの音で留めている。朝鮮漢字音のほうが、日本漢字音より古いかたちを残していることになる。

ソウルの街に出るとyaki-balta-bangなどの看板が目につく。「薬」、「理髪」、「茶房」である。「薬」は日本でも最近目にする「薬局」の看板である。朝鮮語ではラ行の音は語頭にこないから中国語の理[liə] は、朝鮮語では理(i)になる。「理髪」の「髪」は語中では濁音になって、髪(pal) ではなくて髪(bal) となる。食堂(sik-dang)に入って、冷麺(naeng-myeon)でも食べて、麦酒(maek-ju)でも飲みたいのだが、一歩観光ルートをはずれると、メニューもすべてハングルだけで書かれている。

日本と韓国は漢字を共有しているはずなのに、韓国では漢字はもはやほとんど使われていない。また、もし漢字のメニューがあったとしても、朝鮮漢字音は日本漢字音とはかなり発音が違う。漢字(カンジ)も朝鮮漢字音では漢字(han-ja)である。ハングルで書いてあるメニューも、漢字で表記すればつぎのようになるはずである。 

料理(yo-ri)、 冷麺(naeng-myeon)、 参鶏湯(sam-gye-ttang)、 河豚湯(pok-eo-tang)
 肉醤
(yuk-jang)、 魚粥(eo-juk)、 麦飯(po-ri-ban)、 豆腐(to-bu)、 饅頭(man-du)

 日本語の「ふぐ」は朝鮮語の河豚(pok) と同源である。日本語の魚(うお)は中国語の魚の朝鮮語音である魚(eo) である。「豆腐」、「饅頭」は日本語も朝鮮語も中国語からの借用語である。

朝鮮語で「麦」は麦(po-ri) である。『古事記』に五穀の起源の話があり、速須佐之男之命に殺された大宜津比売の体から五穀が生まれたとされている。「頭は蚕になり、目は稲穂になり、耳からは粟が生まれた。鼻は小豆になり、陰(ほ と)からは麦が生まれた。尻には大豆ができた」とされている。陰(poto) から麦(pori) が生まれたというのは、朝鮮語の語呂合わせである。朝鮮語では語尾の-t-lになるから、陰(poto) と麦(pori) は近い。

韓 国では故朴大統領の時代に、国語浄化運動が行われて漢字が姿を消した。漢字ばかりでなくすべての日本文字、アルファベットもみられなくなった。現在でも韓 国では学校で教える漢字の数は中学校で900字、高等学校で900字と制限されている。北朝鮮ではハングルだけで、たてまえ上漢字はまったく使用されてい ない。しかし、韓国では最近は国際化の影響もあって韓国企業の広告が世界中で目につくようになった。現代(Hyundai)、三星(Sam Seong)、大宇(Daewoo)、双竜(Ssang Yong)などローマ字の看板が、韓国国内ばかりでなく、ニューヨークやシンガポールでも目につく。成田空港などで韓国企業のロゴが入ったカートを見るのも稀ではない。そこにはハングルはほとんどなく、もっぱら漢字とアルファベットが用いられている。

現 在の日本では韓国・朝鮮の地名・人名は、現地読みするものと、日本語読みするものが入り混じっている。首都の「ソウル」は漢字がないから日本語でも「ソウ ル」だが、慶州も「キョン゚ジュ」というよりは「ケイシュウ」といったほうが通りがいい。戦前の「ソウル」は京城であり、中国語では今でも漢城である。

戦 後、新聞や放送では一時、中国・朝鮮の地名・人名を現地音のカナ表記にした。しかし、仁川(ニンセン)が急に仁川(インチョン)になったりして、従来の慣 行と大きく異なっていたため一般に理解されなかった。朝鮮戦争中は「パンムンジャム」、「インジョン」などの地名は「板門店」、「仁川」と漢字で書いた。 放送でも板門店(ハンモンテン)、仁川(ジンセン)と読まないと年配者には理解されなかった。

最 近では韓流ドラマの人気俳優「ペ・ヨンジュン」や「チェ・ジウ」やサッカー選手の「アン・ヨンハツ」、「リ・ハンジュ」、野球選手や芸能人の「ソン・ドン ヨル」、「チョ・ソンミン」、「チョ・ヨンピル」などの名前が、現地の発音に近い形で、カナで書かれるようになった。放送で現地読みが採用されたのは1994年のことである。それまでは、韓国大統領の名前も日本漢字音で読まれていた。李承晩、朴正煕、全斗煥は李承晩(リ・ショウバン)、朴正煕(ボク・セイキ)、全斗煥(ゼン・トカン)であった。最近では朝鮮語読みで呼ばれるようになった。

盧泰愚(ノ・テウ)、金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、
盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李承晩(イ・スルマン)、朴正煕(パク・ジョンヒ)、
全斗煥(チョン・ドファン)

昭 和58年に崔昌華という在日韓国人の牧師がNHKに出演した時に自分の名前は崔昌華(チョエ・チャンホア)だと申し出たのに、放送では崔昌華(サイ・ショ ウカ)と紹介された。これに対して崔牧師は1円の損害賠償を求める裁判を起こした。裁判は最高裁で敗訴したが、この裁判をきっかけで日本のマスコミでは朝 鮮語読みに変わった。「冬のソナタ」の人気俳優やスポーツ選手は漢字をあてるとつぎのようになる。

裴勇俊(ペ・ヨンジュン)、崔志宇(チェ・ジウ)、安英学(アン・ヨンハツ)、
鄭大世(チョン・テセ)、 洪明甫(ホン・ミョンボ)、宣銅烈(ソン・ドンヨル)、
趙成泯(チョ・ソンミン)、金妍児(キム・ヨナ)

 朝鮮漢字音で はラ行の音が語頭にくることがないから、韓国では「李さん」は一般に「イさん」である。しかし、北朝鮮では最近「李さん」を意図的に「リさん」と発音する ように、指導しているという。古代日本語でもラ行の音が語頭にくることはなかった。しかし、現代の日本語では「ラジオ」、「りんご」「冷蔵庫」など日常語 のなかに、ラ行で始まることばが多く使われている。古代までさかのぼると日本語も朝鮮語も語頭にラ行音が立たなかったという点では同じである。

もくじ

☆第47話 朝鮮漢字音の特色

★第48話 朝鮮半島の漢字文化

☆第51話 現代中国語と韓国・朝鮮語

★第52話 北京音・朝鮮語音・日本漢字音