第28話 日本語・中国語・朝鮮語対訳『万葉集』 最近、リービ英雄の『英語で読む万葉集』(岩波新書)が注目を集めている。柿本人麻呂の歌をみてみると次のように翻訳されている。 Plover
skimming evening waves 淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古思ほゆ(万266) 万葉集の原文は次のようになっている。 淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所レ念 あまり知られていないことだが万葉集は中国語や朝鮮語にも翻訳されている。朝鮮語訳は金思燁の『韓譯萬葉集』(成甲書房)完訳があり、中国語訳は完訳ではないが銭稲孫の『万葉集精選』(中国友誼出版公
司)がある。 [日本語]
汝が鳴けば [日本語] 心もしぬに [日本語] 昔思ほゆ 日本語と朝鮮語は語順が同じであり、「てにをは」などの助辞の置かれている位置も同じであることがよくわかる。日本語の語彙のなかにも、中国語や朝鮮語と同源とみられるものがある。 ○ 海 古代中国語の「海」は海[xə] である。現代中国語音は上海の海(hai) である。日本漢字音は海 (カイ)であり、朝鮮漢字音は海(hae) である。「海」の声符は「毎」であり、日本語の「うみ」 ○ 浪 「浪」の古代中国語音は浪[lang]である。日本語や朝鮮語などアルタイ系言語では語頭に[l-] がくることはないという原則があるから、語頭の[l-] は[n-] で代替される。朝鮮語では今でも盧泰愚 (ノ・テウ)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)のように中国語のlはnに転移する。現代朝鮮語では「浪」 は浪(nang) である。日本語では波(なみ)という漢字があてられているが、日本語の「なみ」の語 源は中国語の「浪」である。浪(なみ)と発音するのは、朝鮮語読みの影響があるものと思われ る。 ○ 鳥 「鳥」は現代の北京音では鳥(niao)であり、朝鮮語ではsaeである。古代中国語音は中国の音 ○ 汝 日本語の古語にある汝「な」の語源は古代中国語の汝[njia] である。中国語の「汝」は日本語 ○ 鳴 日本漢字音の鳴(メイ)であり、古代中国語音は鳴[mieng]である。日本語の「なく」は、中 万葉集でもっとも多く用いられている表記法は常体と呼ばれている。日本語の助詞や活用語尾を漢字の音や訓を使って表記したものである。これも朝鮮半島に おける「吏読」を援用したものである。万葉集の中国語訳に加えて朝鮮語訳と比較してみると、日本語と中国語の関係、日本語と朝鮮語の関係が明らかになる。 [日本語原文] [中国語訳] [朝鮮語訳](原文はハングル表記) [日本語読みくだし文] 朝鮮語訳の語順は、日本語とまったく同じである。使われている助辞は日本語とは違うが、使われている場所は日本語をほとんど同じである。これにたいして、 中国語訳では日本語の助辞はまったく現れない。この歌は訓のみで書かれている。日本語の助辞も音借ではなく、訓で之(の)、者(ば)、所(ゆ=動詞の活用 形)などと表記されている。現代朝鮮語では中国語からの借用語を音で読むことが多い。山(san)、漁夫(e bu)はいずれも中国語からの借用語で、朝鮮漢字音で読んでいる。 ○ 風 中国語で風は風(feng)である。朝鮮語では風(param) である。中国語の風(feng)と朝鮮語の風 (param)は一見関係ないように見えるが同源である。古代中国語音は風[piuəm]であり、それが隋唐 の時代には風/piuəng/ に変化したと中国語音韻学では考えられている。朝鮮語の風(param)は古代中 国語音の風[piuəm]を継承したものである。『詩経』(紀元前600年頃成立)では「風」は心[siəm] ○ 海 朝鮮語の海( pada) は万葉集では、「わたつみの」のように、海の枕詞として使われている。 「つ」は古代日本語の助辞で、「沖つ波」「庭つ鳥」などの「つ」である。つまり、「わたつみ」は 「わた(=朝鮮語の海)つ(の)み(=日本語の海)」である。 ○ 漁夫 日本漢字音では「漁夫」は漁夫(ギョフ)である。朝鮮語では語頭の疑母[ng-]は規則的に ○ 袖 「袖」の朝鮮漢字音は袖(so) である。日本語の「そで」は朝鮮語の袖(so mae) に近い。日本語 つぎの歌は額田王の歌とされるものである。日本語の助辞の表記には音と訓が両方使われている。 [日本語原文] [中国語訳] [朝鮮語訳] [日本語読みくだし] 日 本語原文にある「爾」、「登」、「者」、「沼」、「菜」は、日本語の助詞や活用語尾爾(に)、登(と)、者(ば)、沼(ぬ)、菜(な)を表すために用いら れたもので、中国語にはまったく現れない。「爾」、「登」は漢字の音を借用した音借であり、「者」、「沼」、「菜」は漢字の訓読みを借りた借訓である。万 葉集では「月待てば」を「月待者」とし、「汝が鳴けば」を「汝鳴者」のように使われている。「者」は古代朝鮮語でも助辞に使われている。 日本語や朝鮮 語は膠着語であり、「てにをは」にあたる助詞や活用語尾が、ことばとことばを糊しろのように貼り付けしていく。これにたいして、孤立語である中国語には助 詞や活用語尾がほとんどない。そこで初期の日本語を表記した史たちは、朝鮮語を漢字で表記した経験をもとにして、日本語の助辞や活用語尾を表記した。この 歌にも中国語、あるはい朝鮮語からの借用語が使われている。 ○ 舟 朝鮮語の舟(pae)は日本語では、長崎の「ぺーろん」などに使われている。日本語の舟(ふ ○ 潮 日本語の潮「しほ」は中国語の潮[diô] と同源である可能性がある。古代中国語の[di-]は日本語 ではサ行で現れるものが多い。知(チ・しる)、澄(チョウ・すむ)、直(チョク・すぐ)、沈(チ ン・しずむ)、潮(チョウ・しほ)などである。この場合のサ行は弥生時代の借用音であり、タ行 の音のほうが新しい。 ○ 今 日本語の今(いま)は中国語の今[kiəm] の語頭子音が脱落したものである可能性がある。同じ ような例としては甘[kam] (あまい)、根[kən](ね)、間[kean](ま)、禁[kiəm] (いむ)、犬 [khyuan](いぬ)、弓[kiuəm](ゆ
み)などをあげることができる。また、同じ声符をもった漢字 つぎの歌は、万葉集でも屈指の秀歌とされる天智天皇の歌である。 [日本語原文] [中国語訳] [朝鮮語訳] [日本語読みくだし] この歌も構文は朝鮮語と同じであり、語彙は中国語や朝鮮語から取り入れている。万葉集の歌は中国語や朝鮮語の知識がなければ、ただしく理解することは困難である。 ○ 「わたつみの」海にかかる枕詞である。朝鮮語では海は海(pada)である。「わた(=朝鮮語の 海)・つ・み(=日本語の海)・の」は朝鮮語の海(pada)と日本語の海(うみ)を重ねたバイリ ○ 海(うみ) 海の声符は毎[muə] である。海(うみ)は梅[muə]、馬[mea] などと同じく、弥生時 ○「とよはたぐも」 「とよはたぐも」は「豊かな旗のような雲」と解するのが一般的であるが、 ○
雲(くも) 日本語の雲(くも)は古代中国語の雲[hiuən] の弥生音である。朝鮮語のは雲(ku
reum) も中国語の雲[hiuən]と同源であろう。大野晋は『日本語の起源』(岩波新書1957年、旧 ○
入(い)る 日本語の入(いる)は古代中国語か
らの借用語である可能性がある。「入」の古代 中国語音は入[njiəp] であり、朝鮮漢字音では日母[nj-]は規則的に脱落して入(ip)となる。朝鮮語で 「入口」は入口(ip-gu) である。
○ 射(さ)す 日本語の射(さす)は中国語からの借用である。「射」の古代中国語音は射 [djiyak] である。また、朝鮮漢字音は射(sa) である。日本語の「指す」「刺す」「差す」「挿す」などは ○ 今夜(こよひ) 日本語の今夜(こよひ)は中国語の今[kiəm] 夜[jyak] が語源である。「夜」の古代 中国語音は夜[jyak] である。液(エキ)、腋(ワキ)などと同じく韻尾に[-k]の音があって、それが 脱落したものである。日本漢字音の夜(ヤ)は隋唐の時代の中国語音に依拠したものであり、日 ○ 清(きよい)「清」の古代中国語音は清[tsieng] だとされている。古代中国語音清[tsi-] は謎が多
く、[ti-]
あるいは[ki-] が摩擦音になったものが多い。「清」は清[kieng]という古代中国語音が摩擦
北京語
上海語
福建語
広東語
ベトナム語
朝鮮語 「清」は南に行くほど日本語のタ行に近く、北に行くと日本語のカ行に近くなる。推古遺文でも子 [tziə] が、音読漢字に混じって子(コ)と読まれており、古代中国語の[tsi-] はカ行に近かった可能性がある。 以上の分析をもとに「わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明けくこそ」の歌の語源をたどってみると、つぎのように分析することができる。
朝鮮語: わた(海)、はた(海)、ひ(日) 清(きよい)も中国語語源である可能性がある。このことからも、万葉集の日本語は純粋な「やまとことば」などではなく、天智天皇の時代にはすでに中国語や朝 鮮語の語彙を取り入れていたことが明らかになる。漱石や鴎外の日本語が漢語を取り入れることによって書きことばとして豊かになったのと同じように、万葉集 の日本語も中国語や朝鮮語の語彙を取り入れることによって、表現力を豊かにしていたのである。 |
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