第60話 弥 生音の痕跡 「やまとことば」のなかには、弥生時代における中 国語からの借用語で、日本語のなかに定着してしまったと思われることばが含まれている。日本語の語彙のなかに は「音」と「訓」が奇妙に似ている単語が多い。通説によれば、「音」は中国語からの借用音であり、「訓」は「やまとことば」を漢字で表記したものであるは ずである。
竹(チク・たけ)、 筆(ヒツ・ふで)、 鉢(ハツ・はち)、 葛(カツ・くず)、 これらのことばの古代中国語音は、つぎのように 推定されている。 竹[tiuk]、
筆[piet]、
鉢[puat]、
葛[kat]、
牧[miuək]、
麦[muək]、
幕[mak]、
舌[djiat]、
役[jiek]、
着[diak]、 竹 (チク・たけ)、筆(ヒツ・ふで)、鉢(ハツ・はち)、葛(カツ・くず)などは、音も訓も、子音は同じで母音だけが変化している。牧(ボク・まき)、麦 (バク・むぎ)、幕(バク・まく)、舌(ゼツ・した)では、音は語頭の子音が濁音になっている。古代日本語では濁音が語頭にくることはなかったので、語頭 の子音は清音になりやすく、第二音節の子音は濁音になる傾向がみられる。これらのことばは音も訓も、中国語からの借用音である可能性がたかい。「音」と 「訓」のこのような奇妙な類似は、かなり多く例をあげることができる。 洲
(シュウ・す)、 巣(ソウ・す)、 黄(コウ・き)、 九(キュウ・く)、 州[tjiu]、 巣[dzheô]、 黄[huang]、 九[kiu]、 帆[biuəm]、 枯[kha]、 死[siei]、 指[tjiei]、 耐[nə]、 通[thong]、 透[thu]、 舞[miua]、 迷[myei]、 染[njiam]、 占[tjiam]、 古代日本語に二重母音がなかったから、州(す)、 巣(す)、黄(き)、九(く)などは單母音として発音されていたものであろう。帆(ほ)は日本語では中国語の韻尾[-n]が失われたものである。これらのことばのなかに は、「枯れる」、「死ぬ」、「指す」などのように日本の動詞として活用するものもみられる。借用語を日本語の動詞として活用させるときは、一般に「す」、 「る」などのようにウ段の音節を付加する。
射す、挿す、刺す、指す、差す、死す、押す、捜す、伏す、 現在の日本語の五十音図の最後は「ん」で終って いるが、古代の日本語には「ん」で終ることばはなかった。古代中国語の[-n] あ るいは[-m] で終ることばは、古代日本語ではナ行あるいはマ行 の音で代替している。
壇(タン・たな)、金(キン・かね)、 兼(ケン・かねる)、
殿(デン・との)、 これらのことばの古代中国語音は、つぎのように 推定できる。 壇[tan]、
金[kiəm]、
兼[kyam]、
殿[dyən]、
浜[pien]、
弾[dan]、
困[khuən]、
君[giuən]、
文[miuən]、 「君」の古代中国語音は君[giuən] であり、弥生音では「きみ」となり、のちに「ク ン」と呼ばれるようになった。また、殿[dyən] は 「との」が後に「デン」と読まれるようになった。弥生音は隋唐の中国語音ではなく、古代中国語音に依拠している。また、朝鮮半島を通して日本語のなかに借 用されたものが含まれているので、朝鮮漢字音の影響も認められる。弥生音は日本が本格的な文献時代に入る8世紀のころには、「やまとことば」のなかに定着 していて、借用語とは感じられなくなってしまっていたのである。 |
||
|