第56話 言語学者カールグレンの卓見

スウェーデンの言語学者ベルンハルト・カールグレン(1889-1978)は中国言語学の専門家であり、英語、フランス語で膨大な論文を残している。その研究分野は中国語ばかりでなく、日本語、朝鮮語、ベトナム語など、漢字文化圏全体に及んでいる。カールグレンは英語の著書『言語学と古代中国』(1920年、オスロ)のなかで、概略つぎのように述べている。

中 国語と日本語は恐らく系統の異なる言語である。そのことは間違いあるまい。日本語と中国語は文法体系も、単語の形態も、音韻体系も、英語と日本語ほどに隔 たりがある。もし九州に最初に渡来した人びとが日本語の原型を作り、現在の日本民族の主要な構成分子になったとすれば、その最初の渡来者が中国人であった とは考えられない。しかし、このことは日本語が、中国文化の強い影響のもとで、中国語からの借用語を受け入れていたという想定を妨げるものではない。日本 人が、最初は朝鮮半島を経由して、後には中国大陸から直接に、中国の文化を政治的にも社会的にも大量に輸入し始める5世紀より以前から、日本人はかなりの 文化をもっていた。それは『古事記』や『日本書紀』を見ても明らかである。日本文化は日本列島のなかで独自に育まれたものだろうか。あるいは、中国文化と の接触のなかで、その影響を受けてきたものだろうか。その答えは不明である。しかし、中国文化との接触を通じて、日本列島に文化が花開いたとすれば、それ は何らかの形で言語にも反映されているはずである。

日 本が中国文化の圧倒的な影響を受けた7世紀以降には、何千という中国語の単語が借用語として日本語のなかに取り入れられた。これらの借用語の読み方には、 呉音、漢音などがあり、日本語のなかに定着している。呉音も漢音も中国語原音をはなれて、日本語の音韻体系に順応して変化した読み方なので、日本漢字音と 呼ぶ。中国語の語彙は、朝鮮語やベトナム語にも大量に取り入れられて、それぞれ朝鮮漢字音、越南漢字音として定着している。

し かし、日本人は記紀万葉が成立し、日本漢字音が定着する8世紀よりも遥か以前から中国文化と接触しており、古代中国語の語彙を取り入れている可能性があ る。このような漢語は「やまとことば」の音韻体系のなかに完全に取り入れられて、日本語化しているので、日本古来のことばと思われている場合が多い。今ま で純粋な「やまとことば」と考えられてきたことばのなかに、7世紀以降の日本漢字音とはかなり違う借用語が混入している可能性がある。

文 献時代以前の借用語は、文字を通して借用されたものではないから、古代日本語の音韻体系に馴化して「やまとことば」のなかに埋もれている。しかし、注意深 く観察すると、古代中国語音と「やまとことば」の間には、一定の法則にしたがって変化した、音韻対応があることが明らかになる。借用語は自国の言語の音韻 構造に適合するように変化する。カールグレンは中国語と日本漢字音の違いを五つあげている。

1.日本語には中国語の韻尾[-p][-t][-k] で終わる音節はない。日本漢字音では韻尾に母音をつけて発音する。

2.   日本語には[b-][d-][g-] など濁音で始まることばはない。中国語の濁音は語頭では清音に変化する。

3.日本語では子音が連続することはないので、単子音に変化する。

4.中国語の拗音(i介音を含む母音)や合音(u介音を含む母音)にあたる音は日本語にはない。中国語の介音は失われて日本語では単母音になる。

5.中国語にあって日本語にない母音は似た母音で代替される。日本漢字音にはさまざまな中国語原音が合流している。

カールグレンのあげた五つの原則について具体例をあげると、中国語原音と日本漢字音の対応はつぎのようになる。

 1.日本語には中国語の韻尾[-p][-t][-k] で終わる音節はない。日本漢字音では韻尾に母音をつけて 発音する。

例:[piuək] フク、菊[kiuk] キク、蜜[miet] ミツ、吉[kiet] キチ・キク、
  活
[huat]カツ、室[sjiet] シツ、甲[keap] カフ、蝶[thyap] テフ、

  福(フク)、菊(キク)、蜜(ミツ)、甲(カフ)、などのようにウ段の母音がつくことが多いが、吉(キチ・キツ)のようにイ段の母音がつくこともある。旧かな使いでは、「甲」、「蝶」は甲(カフ)、蝶(テフ)で第2音節が古い中国語の韻尾[-p]の痕跡を留めている。現代の日本語では甲(コウ)、蝶(チョウ)になって、中国語の韻尾の[-p] は失われている。

 2.日本語には[b-][d-][g-] など濁音で始まることばはない。日本漢字音では中国語の濁音は語頭で は清音に変化する。

例:[giən] キン、健[gian] ケン、強[giang] キョウ、局[giok] キョク 、 陳[dien] チン、
  頭
[do] トウ、特[dək] トク 、 唐[dang] トウ、長[diang] チョウ、皮[biai] 、 父[biua] フ、
  浮
[biu] フ、並[byeng] ヘイ、敗[beat] ハイ、

これらの漢字の日本漢字音は清音だが、唐代の中国語原音は濁音である。

 3.日本語では子音が連続することはないので、中国語の複合子音は単子音に変化する。たとえば、 「諌」と「練」は同じ声符「柬」だが、カ行とラ行とに読み分けられている。

例:諌(カン)・練(レン)、 果(カ)・裸(ラ)、 檻(カン)・藍(ラン)、
   兼(ケン)・簾(レン)、 格(カク)・洛(ラク)、京(キョウ)・涼(リョウ)、

  カールグレンは、これらの漢字の古代中国語音は[kl-] あるいは[gl-] だったと考えている。古代中国語音で諌[klean]・練[klian]であったものが後に、諌(カン)と練(レン)に分かれた。このような漢字がいくつもあることは、古代中国語に[kl-] という子音の連続があったと考えれば説明がつく。日本語にはもともと語頭で子音が連続することがなかった。

 4.中国語の拗音(i介音を含む母音)や合音(u介音を含む母音)にあたる音は日本語にはない。中国語の介音は失われて日本語では単母音になる。

例:[xuai] カ、    管[kuan] カン、   [khuən] コン、 光[kuang] コウ、
  国
[kuək] コク、 村[tsuən] ソン、 [puan] ハン、    [luan] ラン、
  炎
[jiam] エン、 [iəm] オン、    健[gian] ケン、     [xiang] コウ、
  石
[zjyak] セキ、貞[tieng] テイ、   [liat] レツ、        [lian] レン、
  亀
[kiuə] キ、      [giuən] クン、  [khiuət] クツ、   [piuan] ハン、
  尾
[miuəi] ビ、  文[miuən] ブン、 方[piuang] ホウ、 [liuai] ルイ、

中国語では頭子音と母音の間に介音(わたり音)があるが、日本語は重母音を避ける傾向があるので 、中国語の介音は日本漢字音ではほとんど失われている。

 5.中国語にあって日本語にない母音は似た母音で代替される。日本漢字音にはさまざまな中国語      原音が合流している。

     例「カク」:[kek]、 閣[kak]、 革[kək]、 角[keok]、 較[keôk]、 格[keak]、 郭[kuak]
     拡
[khuak]、 確[kheôk] [huak]、 劃[hoek]、 獲[hoak]、 鶴[hôk]
「コン」:[kən]、 紺[kəm]、 今[kiəm]、 昆[kuən]、 魂[khuən]、 困[khuən]、 昏[xuən]
     恨
[həm]

  日本語には喉音がないので中国語の[x-][h]はカ行で発音される。

     例:[hoak] カク、鶴[hôk] カク、昏[xuən] コン、恨[hən] コン、

  また、日本語には中国語の[ng-] が語頭にくることがないので、ガ行で発音される。中国語の原音   は鼻濁音であり、「カ゚」であるが、日本漢字音では「ガ」となる。

     例:[ngeam] ガン、顔[ngean] ガン、元[ngiuan] ゲン、原[ngiuan] ゲン、

    日本語では古代中国語の韻尾の[-n][-m] は区別されずに「ン」になる。

     例:[kiəm] コン、困[khuən] コン、根[kən] コン、紺[kəm] コン、

  カールグレンは日本漢字音の特徴として五つをあげているが、これらのなかには朝鮮漢字音と共 通の特色もある。たとえば、語頭に濁音がこないこと、子音が連続することがないこと、二重母音 を避ける傾向があること、などである。

 朝鮮語では語頭に[ng-][l-] がくることがない。語頭の[ng-]は失われ、[l-]はナ行で代替されるか、あ るいは失われる。古代の日本語でもラ行の音が語頭にくることはない。鼻濁音の[ng-] が語頭にたつ こともない。

もくじ

☆第57話 声近ければ義近し

★第58話 中国語音(声母)の変化

☆第59話 中国語音(韻母)の変化