第62話 や まとことばのなかの中国語 中 国語の語彙が日本語のなかに入ってきたのは8世紀以降で、それまでは純粋な「やまとことば」が日本列島で話されていた、と考えるのが通説である。万葉集は まったく純粋な「やまととことば」で書かれていると考える人がかなり多い。日本語は孤立した言語なのだろうか。日本は弥生時代、古墳時代を通じて中国や朝 鮮半島と交流を続けてきた。文字をもった優勢言語である中国語は、遅くとも1世紀には日本列島に入ってきていたことは、考古学によって確かめることができ る。 スエーデンの言語学者カールグレンはその著書『言 語学と古代中国』のなかで、古い時代に中国語から借用した日本語として、つぎのようなことばを例示している。
馬(うま)、梅(うめ)、邑(いへ)、室(さと)、 築(つく)、槅(かき)、析(さく)、 これらのことばが中国語からの借用語である根拠と して、カールグレンはつぎのように説明している。 ○ 馬(うま)、梅(うめ) 文化史的にも音韻学的に も、中国からの借用語であることは、チェン バレンも指摘しているところである。古代中国語の馬[mea]、梅[muə]を日本語では「むめ」、「む ま」、あるいは「う ま」、「うめ」のように発音した。 ○ 邑(いへ)、室(さと) 中国語の邑[iəp]、室[sjiet] を語源としており、韻尾の[-p]、[-t] に 寄生母 音「エ」、「オ」がついたものである。「邑」は中国語では、24戸が集まる「村」の意味である が、日本語では「家」になった。また、「室」は 中国語では「家」の意味であるが、日本語では 「村」の意味になった。古代の「家」は大家族で1族が同じ家に暮らしていたから、家族や氏族の 意味に なった。借用語ではしばしば意味の転移が起こる。フランス語のbureau は 「物を書く机」 の意味だが、英語では「引き出し」の意味になっている。フランス語の「引き出し」はcommode である。 ○ 築( つく)、槅(かき)、析(さく)、閾(ゆか) い ずれも家に関係のあることばである。こ れらの漢字の古代中国語音は築[tiok] 、 槅[kek]、析[syek]、閾[hiuək]で ある。家を築(つく)のも、 家のまわりに槅(かき)を植えて境を作るのも中国からの借用語である。日本人は大工の技術を中 国から学んだから、析(さ く)もまた中国語からの借用である。「析」は中国語でも日本語でも「わ かつ」の意味がある。閾は「しきい」であり、「ゆか」ではないという人があるかも しれない。し かし、古代日本の家は、床が全面に張られていたわけではなく、壁に沿って敷いた木の板だった。 『オックスフォード英語辞典』によるとsill(しきい) はthreshold(しきい)ばかりでなくfloor (ゆか)の意味もある。 ○ 絹(きぬ)、秈(しね) 文化史的にも明らかに中 国からの借用語だといえる。絹[kyuan] は[-n] の後にはウ段の寄生母音がつき「きぬ」、秈[shean] の 場合には[-n] の後にエ段の寄生母音がつい て「しね」と発音した。稲は通常「いね」だが『古事記』には「しね」という形も用いられて い る。「いね」は「しね」の頭音が脱落したものである可能性がある。 ○ 蛺(かひこ) 日本語の「かひこ」は中国語の蛺[keap] が語幹である。「こ」は子である。 「蛺」は中国 語では「蝶」であり、日本語の「かひ・こ」はその幼虫を指す。ただし、「かひこ」 には「蚕」という漢字が常用されており、借用関係を確認するのには注 意が必要である。 ○ 竹(たけ)、麦(むぎ)、松(すぎ) 「竹」、 「麦」については、文化史的に見ても、中国語 からの借用語であることは間違いない。松(すぎ)が借用語であるかどうかは議論を要する。 「竹」の 古代中国語音は竹[tiuk] で あり、日本語の「たけ」とは母音が一致しない。日本語の竹 (たけ)はかなり古い時代の中国語音を反映している可能性がある。「竹」は東アジア一帯で育て られている植物であり、利用範囲が広いことから、日本人が中国人からその利用法を学ばなかった とは考えにくい。「むぎ」と「すぎ」はともに「ぎ」で 終っている。「ぎ」は木の濁音である。こ のような例はほかにもみられる。たとえば「やなぎ」は屋根の木のことである。チェンバレンも 「むぎ」、「す ぎ」の「ぎ」は木であると指摘している。「むぎ」は麦[muək] 木、「むく・ぎ」の 略であり、「すぎ」は「す ぐ・ぎ」の略である。「松」の古代中国語音は松[ziong] と 推定されてお り、日本語では[z-] は 清音で「す」となる。[-ng] は日本語にないので「ぎ」になった。「むぎ」も 「すぎ」も、一定の法則にしたがって音が入れ替わっている。ただし、「すぎ」についてチェンバ レンは「真っ直ぐな木」の意味だろうとしているので、その 可能性も否定しがたい。 ○ 琢(とぐ)、剥(はぐ) いずれも動詞の語幹であ り、古代中国語の琢[teok] 、剥[peok]の語尾 が、有声音にはさまれて濁音になったも のである。宝石の研磨法は大陸から渡来したものであり、 なめし皮の技術もまた大陸から伝来した。 ○ 湿(しほ) 海水から塩をとる製塩の技法は、中国 では古くから知られており、日本にも古くか ら伝えられた。海水を湿地に引き込んで、塩田で塩を採る方法が一般的であり、最近までその方法 が行なわれ ていた。「湿」の古代中国語音は湿[sjiəp] であり、日本語の「しほ」の語源である。 ○ 郡(くに) 「くに」は行政用語として日本に入っ てきた。「郡」の古代中国語音は郡[giuən] であ り、音韻法則に則って語頭の[g-] は[k-] になり、語尾には寄生母音の[i] がついて「くに」になった。 ○ 盆(ふね)、坩(かま) 家庭用品では「舟」と
「釜」がある。現代の日本語では「ふね」は 「舟」の意味しかないが、古事記では盆(ぼん)の意味にも使われている。英語でもvessel
は
船を 意味するばかりでなく、窪んだ容器の意味もある。「釜」を表わす漢字で広く使われている文字 が、中国語にはないということが問題点である。しか
し、辞書にはポット(かま)を表わす文字と して「坩」、「土瓦*」などが示されている。*土瓦*=土偏+瓦 ○ 鎌(かま) 「鎌」は農業用語である。「鎌」の中 国語音は鎌[liam] だから、これは少し大胆過ぎ ると思われるかもし れない。しかし、鎌[liam] の古代中国音は鎌[kliam]、あるいは鎌[gliam] であ り、lが喪失したものが日本語の「かま」に なったと考えることができる。 ○ 熱(なつ) 日本語の「夏」は中国語の熱[njiat] に由来する。 ○ 熊(くま) 「熊」の古代中国語音は熊[hiuəng] と推定される。さらに古い形は熊[hiuəm] であ る。 古代中国語の韻尾[-m]
は
介音[-u-] の後では、規則的に[-ng] に変化したことが知られている から、「熊」は
紀元前の中国語音は熊[hiuəm] であったと想定することができる。現在でも汕頭方
言では「熊」は熊(him) である。日本語の「くま」は中国語の「熊」の古い
形を伝えている。 カールグレンの論文は1920年 に発表されたものである。カールグレンがあげている例は必ずしも適切でないかもしれない。しかし、西洋言語学の方法論を古代中国語と日本語の関係に応用し た方法論は示唆に富んでいる。ところが、カールグレンの説に対する日本の学界の反応は無関心、ないしは無視に近かった。日本では学問も師資相承であり、 カールグレンのような門外漢が国学の本丸である「やまとことば」の問題に参入すること歓迎されなかった。戦後になって、国語学者の亀井孝が長大な論文を英 語で書いて、カールグレンに反論している。 |
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