第69話 本 居宣長の『古事記』解読 宣長は『古事記伝』一之巻で、まず、つぎのように 述べている。 此 記の優(まさ)れる事をいはむには、先ヅ上ツ代 に書籍(ふみ)と云物なくして、たゞ人の口に言傳(ひとつた)へたらむ事は、必ズ書 紀の文(ふみ)の如くには非ずて、此記の詞のごとくにぞ有けむ。彼レ(注: 日本書紀)はもはら漢(から)に似るを旨(むね)として、其ノ文 章(あや)を かざれるを、此レ(注: 古事記)は漢にかゝはらず、ただ古ヘの 語言(ことば)を失わぬを主(むね)とせり。(中略)此記は、いささかもさかしらを加(くは)へずて、古ヘよ り云ヒ傳ヘた るまゝに記されたれば、その意も事も言も相偁(あひかなひ)て皆上ツ代 の實(まこと)なり。是レも はら古ヘの 語言(ことば)を主(むね)としたるが故ぞかし。(中略)かれこれ思へば、いよゝますます尊び仰(あふ)ぐべきは、此記になむ有ける。(『古事記傳一之巻』) 「漢(から)心」を排して『古事記』を復元できれ
ば、そこに、中国語の圧倒的な力によって覆 天
地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。 本居宣長は『古事記傳』でこの部分を、つぎのよう に読みくだしている。 天 地(あめつちの)初發(はじめ)之(の)時(とき)。於ニ高 天原一(た かまがはらに)成(な りませる)神(かみの)名(みなは)。天(あめ)之(の)御中主(みなかぬしの)神(か み)。次(つぎに)高御産巣日(たかみむすびの)神(かみ)。次(つぎに)神産巣日(かみむ すびの) 神(かみ)。此(この)三柱(みはしらの)神(かみ)者(は)。並(みな)獨神(ひ とりがみ)成坐(なりまし)而(て)。隠(かくし)レ身 (みみを) 也 (たまひき)。 『古事記』はやまとことばで書いてあるとはいえ、 本来中国語を表記するために作られた漢字を使って書いてあるため、漢文のよう返り点やレ点をつけて読む。「於二高天原一」は「高天原(たかまがはら)に」であり、「隠レ身也」は「み身を隠し也(たまひき)」と本居宣長 は読みくだしている。そこにあらわれてくる原初の日本語は、つぎのようなものである。 天
地はじめの時、タカマガハラに、なりませる神のみ名は、天のミナカヌシの神。つぎにタカミムスビの神、つぎに神ムスビの神、この三はしらの神は、みなひと
り神なりまして、み身をかくしたまひき。 本居宣長は『古事記傳』で、つぎのように解釈して いる。 天 地は阿米都知(あめつち)の漢字(からもじ)にして、天は阿米(あめ)なり。かくて阿米(あめ)てふ名義(なのこころ)は、未ダ思ヒ得ず。、、、天(あ め)は虚空(そら)の上(かみ)に在リて、天ツ神たちの坐(まし)ます御國なり。地は都知(つち)なり。名義(なのこころ)は、是れも思ひよれることあ り。下に云べし。さて都知(つち)とは、もと泥土(ひぢ)の堅まりて、國土(くに)と成れるより云る名なる故に、小くも大きにも言り。小くはたゞ一撮(ひ とつまみ)の土をも云ヒ、又廣く海に對(むか)へて陸地(くぬが)をも云フを、天(あめ)に對(むか)へて天地(あめつち)と云ときは、なほ大きにして、 海をも包(かね)たり。(『古 事記傳三之巻』) 天地開闢にあたって、「天」、「地」、「神」が重 要な概念になっている。 ○ 天 地(あめつち)「天」は漢字では天「テン」だが、やまとことばでは天「あめ」である。「あ め」がやまとことばで何を意味するかは、まだよくわからな い。天は虚空の上にあって、天神の 住む国である。「地」は漢字では地(チ)であるが、やまとことはでは地(つち)である。「つ ち」とは泥土が固 まって国土になったものの名なので、大小さまざまである。小はひとつまみの 土をもいい、大は海に対して陸のことをいうこともある。「天」にたいして 「地」というときは、 陸と海をふくめて地(つち)という。「阿米てふ名義は、未ダ思ヒ得ず」としているところが興 味深い。『古事記』は漢字を借 りて書いてあるから「天地」と書いてあるが、漢字の「天地」は必 ずしも中国語の「天地」と意味が同じではない。「やまとことば」には漢字が入ってくる 前から のことばがあったはずである。それが、天(あめ)であり、地(つち)である。しかし、やまと ことばの天(あめ)が何をさしているのか は、つまびらかでない、としているのである。 ○神(かみ) 本居宣長は『古事記伝』で、つぎ のように述べている。 迦 微(かみ)と申す名義(なのこころ)は未だ思ひ得ず。さて凡て迦微とは古御典(いにしえのみふみ)等に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其 を祀(まつ)れる社に座す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其餘何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏 (かしこ)き物を迦微とは云なり。(『古 事記傳三之巻』)
「神」は神典である『古事記』のなかで最も重要な概念である。その「神」についても本居宣長は「神と申す名の義は未だ思ひ得ず」としている。そのうえで、
本居宣長は日本の神は天地の神々をはじめとして、神々を祭る神社の霊も神であり、人もまた神として祭られることがある。鳥や獣、草木や海山も「すぐれたも
の」、「かしこく尊いもの」は神として崇められる。日本の神は精霊信仰だから、中国の神とは違うのだ、と主張している。 古 事記は3巻からなり、巻1は神代の記述である。巻2からは人代で、神武天皇から始まる。古事記には縄文時代も弥生時代もでてこない。邪馬台国も金印もな い。神代は高天の原、葦原の中つ国、黄泉の国という上中下3層の世界からなっている。人の世は神の世を引き継いで形成された、というのが古事記の世界観で ある。 本居宣長にとって『古事記』は聖典であった。 『古事記』の冒頭は「天地初發之時」であるが、『日本書紀』の冒頭は「古天地未レ剖、陰陽不レ分」 であり、「古(いにしへ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき」となる。古事記も日本書紀も、天地のはじまりについて述べている。しかし、宣長 の考えでは、『日本書紀』は陰陽などという中国から輸入された概念で、わが神国のはじめを描いているからだめだ、ということになる。 |
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