第57話 声近ければ義近し 中国語は音節 言語であり、ひとつの漢字がひとつの音節を表わし、一音節がひとつの意味の単位になっている。このため、音節の数は単語の数と同じだけ必要になる。言語学 者の王力は「声近ければ義近し」として、音の近い漢字は字義も近い、という問題提起をした。例えば、陰(イン)・隠(イン)、花(カ)・華(カ)、強 (キョウ)・剛(ゴウ)などは文字でみればかなり違うが、音は近く、意味も近い。王力はこの原則に基づいて『同源字典』を編纂した。 中国語の音節は一般に声母(子音)と韻母の二つの部分からなっている。例えば、「良」は反切では「呂反張」であり、「呂」が声母であり「張」が韻母である。それを、もう少しこまかく見ると、「良」は良[l-i-a-ng] に分解できる。[l-] が声母であり、[i]は介音(わたり音)、そして[-a-] が主母音である。主母音の前に介音がきて、母音のあとに韻尾[-ng] がつく。中国語音「良」の構成要素は、つぎのように解析できる。
これと同じように「夜麻登」の唐代中国語音を復元してみると、つぎのようになる。
中 国語の音節を反切のように声母と韻部のふたつに分解するのではなく、韻母をさらに三つに分解して、これをアルファベットで表記することによって、中国語の 音節構造は飛躍的に簡潔にとらえられるようになる。たとえば『広韻』では206韻とされてきた中国語の韻母を、王力は29に整理している。 次の表で「横」に並んでいる音は、韻尾が同じで転移しやすい。また、「縦」に並んでいる音は主母音が近く転移しやすい。王力はこの表で横の転移を「旁転」 と呼び、縦の転移を「対転」または「通転」と呼んでいる。旁転、対転、通転の音は「声近ければ義近し」で同源語が多い。 古代中国語の韻表
(王力『同源字典』13ページによる) たとえば、つぎのようなことばは中国語では同源である。 ○ [-k・-ng]、[-t・-n]、[-p・-m] は転移しやすい。 [-k・-ng]
逆[ngyak]・
迎[ngyang]、
読[dok]・
誦[ziong]、 韻尾の[-k]・[-ng] 、[-t]・[-n] 、[-p]・[-m] は調音の位置が同じであり対転である。中国語音の[-ng] は [-k] から派生した。一般に、[-p]、[-t]、[-k]、のほうが[-m]、[-n]、[-ng]よりも古い形であると考えられ ている。日本漢字音でも祝儀(シュウギ)、北条(ホウジョウ)、句読点(クトウテン)などでは 「祝」を「シュウ」、「北」を「ホウ」、「読」を「トウ」と音便形で読む。 「粋」は日本漢字音では粋(スイ)であるが、古代中国語では韻尾に[-t] の音がある。中国語でも 唐代には韻尾の[-t] は失われたが、同じ声符をもつ「卆」は韻尾の[-t] を留めている。「嗚咽」の咽(エツ)は、声符が因(イン)であるのにもかわらず嗚咽(オエツ)と読む。[-t]と[-n]は調音の位置 が同じであり、転移しやすい。因(イン)の古代中国語音は咽(エツ)と同じく因(エツ)であっ た可能性がる。 『説文』など中国の古い辞書を調べてみても、王力のあげている対語は意味が近い。したがって、 これらのことばは、音義ともに近く同源語である。 逆・迎、 読・誦、 純・粋、 判・別、 断・絶、 匣・函、 侵・襲 中国語では純粋、判別、断絶のように、同義語をふたつ並べて熟語をつくることがある。 ○ 韻尾の入声音[-p]、[-t]、[-k]、は脱落することがある。また、転移する場合もみられる。 [〇・-k] 改[kə]・
革[kək]、
無[miua]・
莫[mak]、句[ko]・
曲[khiok]、
報[pu]・
復[biuk]、 改革、報復、施設、枯渇などは同音同義語を重ねた熟語である。日本漢字音でも壁(ヘキ)は韻尾の入声音[-k]を留めているが、同じ声符を持つ避(ヒ)は「避難」のように、入声音を失っている。日本漢字音は比較的よく韻尾の入声音(-p、-t、-k)を留めているといえる。現代の北京音では入声音すべて失われている。中国語の方言では広東語がもっともよく入声音を留めている。
中国語方言(入声音) 日本漢字音は古代中国語の入声音を比較的よく留めているものの、奥[uk] のように古代中国語の韻尾を失ったものもある。「奥」は奥(おく)が古代中国語音を留めた弥生時代の借用語であり、奥(オウ)は唐代の漢字音である奥/ô/に依拠している。日本漢字音のなかにも古代中国語の入声音が失われたものもある。 夜[jyak]、
腋[jyak]、
造[dzak]、
漬[dziek]、
嗅[thjiuk]、
墓[mak] 、
地[diet]、
祭[tziat]、
帯[tat]、 これらのことばのなかには、日本語の訓として古代中国語の韻尾を留めている。 夜(よる)、腋(わき)、
造(つくる)、漬(つける)、嗅(かぐ)、墓(はか)、 ○ 韻尾の[-m]、[-n]、[-ng]、はいずれも鼻音であり、転移しやすい。 [-m・-n]
陰[iəm]・
隠[iən]、
稔[njiəm]・
年[nyen]、 これらのことばのなかにも、日本語に借用されたものが含まれている。 みのる(稔・年)、かがみ(鏡・鑑)、 いたむ(痛・疼)、ねむる(瞑・眠)、 「年」は穀物が実るときである。『説文』には「季(年)、穀孰也」とあり、「稔、穀孰也」とあり、「年」と「稔」は音義ともに近い。また、「鏡」は「鑑」である。『玉篇』に「鏡、鑑也」とある。鏡[kyang]と鑑[keam]はともに鼻音であり、古代中国語ではおそらく、鏡[kyang]も鑑[keam]に限りなく近い発音であった。「鑑」とは大盆のことである。大盆に明水を入れれば、月を写すことができる。鑑(カン)は音韻変化の結果鏡(キョウ)になった。日本語の「かがみ」は、「鑑」と関係のあることばであろう。 現代の北京語では[-m] と[-n] の区別は失われている。また、上海語では[-ng] が[-n] に合流してい る。 現代中国語方言 広東語では-n、-m、-ngの区別がよく保たれている。福建語では-ngの一部が-nに合流している。上海語では-ngが完全に失われて-nになっている。「飲」は広東語では飲(yam) であり、飲茶(ヤムチャ)は広東語読みである。 ○ 韻尾の[-m]、[-n]、[-ng] は失われることがある。 [〇・-ng] 起[khiə]・
興[xiəng]、 筥[kia]・
筐[khiuang]、 無[miua]・
亡[miuang]、 飢饉、存在、欣喜(雀躍)、忍耐、悔恨、言語などは同義語を重ねた熟語である。これらの同源語のなかにも、日本語として定着しているものがある。 おきる(起・興)、かご(筥・筐)、
なき(無・亡)、かり(鵞・雁)、たえる(耐・忍)、 『説 文』には「興、起也」とある。また、同じく『説文』によると、「匡」は飯器であり、「筥」のことであるという。中国では「無は亡」であり、『説文』以来さ まざまな辞書で「無、亡也」とされている。「鵞」は「雁」と同源である。「鵞」は家鴨のことであり、「雁」は野生の鴨のことだともいう。また、鵞は東国の 方言であり、雁は南方の方言であるともいう。「忍」と「耐」も同源である。『一切經音義』には「耐、忍也」とあり、音義ともに近い。 ○ 入声音[-t]・[-k] は[-ng]、 [-m]・[-n] に転移することがある。 [-t・-ng]
界[keat]・
境[kyang]、 界[keat]・
疆[kiang]、 滅[miat]・
亡[miuang]、 境界、滅亡、斬殺、幔幕、間隔、窮極などはいずれも、同源語を重ねた熟語である。「窮」と「極」とは同源である。『説文』では「窮、極也」としている。 「窮」は海の果てであり、「極」は地の果てであるともいう。また、中国語の古い注釈書には「亡、滅也」とある。日本語に借用された弥生音としては、つぎの ようなものをあげることができる。 ほろぶ(滅・亡)、きわめる(極・窮)、 日本語の「ほろぶ」は中国語の滅[miat] の語頭の[m-] が無声音の[p-] になり、韻尾の[-t] が朝鮮漢字音の影響で[-l] になったものであろう。王力の『同源字典』は日本語には翻訳されていないが、白川静の『字通』で紹介され、かなり引用されているので、『字通』をみればその概要を知ることはできる。 |
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