第90話 日本語とタミル語
大野晋のタミル語説にはかなりの反論もあり、学会の定説になったわけではない。どうも言語学会あるいは日本語学会は言語の起源という実証不能な議論には原則としてかかわらないことになっているらしい。し かひ、名著『日本語の起源(旧版)』の著者が、前説をひるがえして、世に問うているのがタミル語同系説である。旧版の説が正しいのか新版の説が正しいのか読者としては知りたいところである。 日本にいるタミル語の専門家の数は限られている。また、よほど大きな書店に行ってもタミル語の入門書を手に入れることはむずかしい。タミル語を知らない普 通の人には反論のしようもないし、納得のしようもない。しかし、タミル語の専門家だけが議論に参加できるのであれば、タミル語説の議論が深まり、発展する みこみは全くない。 そこで筆者は蛮勇をふるって、現地チェンナイ(旧マドラス)で求めてきた。タミル語の入門書と辞書をもとに、タミル語と日本語の類似点と相違点について、独自に検証してみることにする。まず人体に関する ことばである。 体udal、
頭thalai、
額netri、
顔muham、
目kann、
まつげkann
myir、
眉kann
puruvam、
目玉kann manhi、
白目vallai vizhi、
黒目karu
vizhi、
まぶたimai、
頭蓋骨mandai
odu、
脳moolai、
耳kaadhu、 もとより入門書のことであり不完全であるとしても、ここからはタミル語と日本語語彙との関係は、ほとんど見えてこない。さらに、辞書を引いてみると、大野晋が日本語の妻、顔にあたるとしているタミル語 が載っている。manaivi=wifeやkavul=The cheeks.The jaws of an elephantという単語があることはある。しかし、タミル語のmanaivi が日本語の妻「め」とどのように音韻対応しているのだろうか、疑問になる。また、「象の顎」がなぜ、日本語の「顔」に比定されるのかはまったく不明である。 日本語とタミル語の語彙にはかなりの隔たりがある。だが、逆に文法構造には類似点がありそうである。 Nee
Enna Seidhukondiruckiraai? Un
Thambi Engay Poickondlruckiraan? En
Thambi Pillickoodam
Poickondiruckiraan タミル語の語順は日本語の語順と同じである。タミル語は膠着語であり、この点も日本語に似ている。しかし、タミル語はドラヴィダ語族のひとつであるというのが専門家の 間では定説になっており、日本語がタミル語と同系であるということは、日本語はドラヴィダ語族に属するということになる。ドラヴィダ語族は北部インドに アーリア人が侵入したとき、南部の移動した人々の言語であり、反り舌音が発達していることでも知られている。日本語には反り舌音はない。 大野晋はチェンナイに滞在していて、現地で使われているタミル語が日本語と関係があるのではないかと思うにいたった。言語学者は南島に住むと南島語は日本語 と関係があるのではないかと思い、ビルマ語を研究するとビルマ語と日本語の類似に気づく。アイヌ語を研究すると日本語とアイヌ語は関係があるのではないか と思う習性をもっているようである。それは日本語とその言語が似ているということなのだろうか、それとも言語というもののもっている普遍性に気づくという ことなのだろうか。 世界には5千ないし6千の言語があり、それが200を超える語族に分かれているという。ひとつの言語を習得するのには3年くらいの修行が必要であり、かりに 言語学者が10の言語をマスターしようとすると30年もかかってしまうので、ひとりで世界の言語を鳥瞰することは不可能である。してみると、世界の言語と 日本語との関係を知ろうとすれば、それぞれの言語の専門家の研究をもとにそれを検証してみるよりほかに方法はない。 それにしても、日本人によく知られている英語や中国語との類似を指摘する人はほとんど皆無であり、専門家の数も限られているレプチャ語やタミル語がひきあい に出されるのはなぜだろう。ここまでくると、言語の系統とは何か、言語が似ているとはどういうことか、言語が異なるとはどういうことか、というような神学 論争の世界に入ってしまう。 |
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