第96話 ク レオール誕生

人間は征服や移民によって母語を捨てることも、し ばしばある。アイヌ語はすでに日常語として使っている人はいない。シュメール語、ヒッタイト語、エトルリア 語など一時代を画した古代語も消滅してしまっている。現在消滅の危機に瀕している言語が3千以上あるといわれている。北米では150もの先住民言語が失われようとしている。これは、 現在残っている言語の80パーセントにもあたるという。言語に進化と絶滅があるとすれば、現在生残っている言語は生存競争に勝ち残った言語だということに なる。

異なる言語が接触すると、優勢な言語が劣勢な言語 を駆逐してしまうこともある。大航海時代以降、南北アメリカ大陸で、オーストラリア大陸で、そしてアフリカ 大陸で、植民地化によってヨーロッパの言語が現地の言語を駆逐していった。同じことは、カリブ海や太平洋の島々でも起った。植民地に奴隷として売られてき た人々は、わずか数世代の間に母語を捨てて英語やスペイン語を受け入れていった。小説『ルーツ』の主人公クンタキンテの子孫たちも、アフリカの言語の記憶 はもうまったく留めていない。インドのネール元首相はインド人がインドの歴史をヒンディー語ではなく、英語でしか学ぶことができないことを、その著書のな かで嘆いている。しかも、ネールはその著書を英語で書いている。シンガポールのリー・クアンユー元首相も第一言語は英語である。

消えてゆく言語もあるが、新たに生まれてくる言語 もある。ひとつの言語がいくつかの方言や異なった言語に分化していくこともある。インド・ヨロッパ語族の系 統樹は生物の進化による系統の発生に擬せられる。言語も進化する。しかし、言語の変化する速度は生物が突然変異によって進化する速度に比べればはるかに早 い。また、生物は異種交配をすることはないが、言語は隣接する系統の異なる言語との接触によって変化することもある。言語の混交は1世代あるいは2世代と いう短い間に完了する。アメリカに移住した日系人などでも、孫の世界は祖父の世代と異なる言語を使うようになるのが普通である。

ヨーロッパによる植民地支配を通じて、15世紀以 降ピジン英語やクレオールと呼ばれる、まったく新しい混交言語が生まれた。カリブ海で、南太平洋の諸島で現地 のことばとヨーロッパの言語が接触して新しい言語がいくつも生れている。クレオールは言語が新しく生れる仕組みを観察することのできる実験場にもなってい る。パプア・ニューギニアにはトクピジンという英語と現地語の混交によって生まれた言語があり、国会でも使われている。トクピジンは、つぎのような言語で ある。

【トクピジン】
   どうもありがとう。(Tenk yu tru.)     ごきげんいかがですか。(Yu orait?) 
  私はあなたが好きです。
(Mi laikim you.)    私 の名前は伊藤です。(Nem bilong mi Ito.)
   あなたはどこから来ましたか。(Yu bilong we?)  私は知りません(Mi no save.)
   これは鶏です。(Em kakaruk ya.)            朝 食(monin kaikai)夕 食(avenun kaikai)

英語からの借用語が多いが文法構造は英語とは違う。’bilong’は所有格をあらわし、英語の’of’ にあたる。’nem bilong me’ ’my name’ である。’laikim’は英語の’like him’ に由来するが、全体で’like’ をあらわす。目的語が’you’ であるときは、あらためて’you’をつけ加えて’laikim you’ とする。代名詞も’mi’ ’em’ のような目的格が主格にも使われる。なかには現地語も混ざっていて’kakaruk’ は「鶏」であり、’kaikai’ は「食べる」である。’save’は英語語源でなく、ポルトガル語語源の’savoir’ で、「知る」という意味に用いられている。’gras bilong fes’、「顔の草」は「ひげ」であり、’gras bilong hed’、「頭の草」は「髪の毛」である。’meri bilong me’といえば「私の妻」のことである。’meri’は英語名の’Mary’ だが一般名詞として用いられている。

ト クピジンは語彙の75ないし80パーセントが英語起源である。15ないし20パーセントが土着の言語からのもので、5パーセントがドイツ語その他からのも のである。英語起源の単語が圧倒的に多いにもかかわらず、文法構造や語順は南島語であるオーストロネシア系の特徴が著しい。たとえば、トクピジンでは「あ なたを含む私たち」と「あなたを含まない私たち」を区別する。

太平洋の島々には宣教師も来て、聖書をトクピジンに翻訳している。たとえば「マタイ伝第6章」の一部はつぎのようになる。

【トクピジンの聖書】
 Papa bilong mipela, yu stap long heven, nem bilong yu i mas i stap holi.
  Our Father in heaven, hallowed be your name.

天にましますわれらの神よ、御名があがめられますように。

Papa 父、神、bilongbelong の、mipelame+fellow (あなたを含まない)われわれの、stapstop いる、住む、である、long hevenalong heaven 天国の、nemname 名まえ、i (動詞標識)i masmust ねばならない、i stap でなければならない。

Nau yu ken givim mipela kaikai inap long dispela de.
  Give us today our daily bread.

われらに今日も、日ごとの糧を与えたまえ。

Naunow 今、さて、kencan 許す、givimgive+’em 与える、kaikai メラネシア語で「食べる、
食べ物」、
inapenough 十分な、longalong で、dispelathis fellow この、deday 日、
(『ピジン・クレオール入門』附録、パプア・ニューギニア聖書協会刊行
Nupela Testamen Na ol Sam より作成)

19 世紀から20世紀の初めにかけて、ハワイでは砂糖キビ生産がブームを迎え、現地人だけでは労働需要がまかないきれなくなった。そこで、中国、日本、朝鮮、 ポルトガル、フィリピンなどから労働者が集められた。言葉の通じない者どうしが共同作業をしなくてはならず、当座しのぎのことばとしてピジンが生れた。

ハ ワイの日系1世は家庭では日本語を話したが、農園では監督やほかの国からの移民との会話にはピジンを用いた。日本人の移民は中国人の移民、ハワイの現地人 に混じって砂糖キビ畑で働く。そこでの共通語は、日本語でも中国語でもハワイ語でもなく、ピジン英語であった。農場主や現場監督との会話もピジン英語にな る。ハワイ移民の1世が歌ったホレホレ節という歌が残っている。ホレホレ節のなかにもピジンの語彙の痕跡がみられる。ホレホレとは砂糖キビのプランテー ションで枯葉をむしりとる作業のことでポリネシア語である。

【ホレホレ節】
  ハー 朝も早よからヨー 弁当箱肩に ホレホレ通いも まま(飯)の種
 ハー 明日はサンデーじゃヨー 遊びにおいで カネ
(亭主)はハナワイ わしゃ家に
 ハー 頼母子落としてヨー ワヒネ(妻)を呼んで 人に取られてべそをかく
 ハー 行こかメリケンヨー 帰ろかジャパン ここが思案のハワイ国
 ハー 条約は切れるしヨー 未練は残る ダンプロ
(他所)のワヒネにゃ 気がのこる
 ハー 条約切れたらヨー キナウ(船の名)に乗って 行こかマウイの スペクルス
 ハー 三五センでヨー ホレホレしょより パケさん(中国人)とモイモイ(寝る)すりゃ
    アカヒドラ(1ドル)

 歌は日本語だが、ピジンの単語が混用されている。移民たちはハオレ(白人)のルナ(現場 監督)のもとで中国人移民や現地人に混じって働いた。35センは当時の日給35セントのことであり、アカヒドラは1ドルである。ハナワイとは水あて作業の ことであり、スペクルスはスプレックルス農場である。当時の移民は3年間の契約移民であり期限が切れると、帰るか、カリフォルニア(メリケン)などに渡る か決めなければならなかった。条約は契約のことである。言語学者のビッカートンはハワイの日系人のピジンやクレオールとして、つぎのような発話を記録して いる。

【ハワイのピジン】
    mista karsan-no tokoro tu eika sel shita.
   ミスター・カールソンのところへ2エーカー(の土地を)売った。

   tumach mani me tink kechi do.
 
  彼はたくさん金をかせぐと思うよ。

   da pua pipl awl poteito it.
    
貧乏人はじゃがいもしかたべなかった。

 【ハワイのクレオール】
   yang fela dei no du deat.
    
若いもんは、そんなことしないよ。

   awl diz bigshat pipl dei gat plenty mani dei no kea.
 
  大物(ビッグショット)は皆金持ちだから気にもかけないよ。

   get wan wahini shi get wan data.
 
  あの女の人、彼女には娘がひとりいる。

 ピジンとは、共通語をもたない人々が接触したとき、当座しのぎのコミュニケーションのために生まれた補助言語である。クレオールはピジンから発達して、第2世代の母語 になった混交言語である。クレオールは母語であるから、人間の経験のあらゆる分野を表現できなければならない。だからクレオールは言語としての体系を備え ている。

ピジン・クレオールは複数の言語が接触してできたものであり、屈折の欠如、固定した語順、数・性・一致の区別の喪失または縮小などの特徴が共通してみられ る。また、ハワイのピジン英語が、遠く離れたカリブ海のピジンと共通の特色をもっていることも注目されている。たとえば、過去を示すためにbin を使い、未来を示すためにgo を使う。

 Dem bin kom.(They came.)
    Dem go kom.(They will come.)

  また、どこのピジン英語、クレオール英語にも’saber’(知る)、’pikini’(小さい)という語彙が共通してある。名詞は単数しかなく複数を示すには’dem’ をつけ加える。たとえば、’i get di buk dem.’(He has the books.) のようになる。また、very という意味にtoo muchを使う。トク・ピジンでは’mi kol tumas.’(I’m very cold.) となる。これは、カリブ海のピジンも太平洋のピジンにも共通にあるという。英語の語彙を取り入れる前のポルトガル語の影響だと考えることもできるが、新しい言語が生まれるときには共通の特徴が表れるので はないかと考える言語学者もいる。

 ピジン・クレオールは、基本的に書きことばのない言語であるため、発音にはかなりの揺れがみられる。lとrは区別されないことが多く、pとfも混用される。ドミニカ・インディアンは子音で終るすべての 語に母音をつけたので、たとえば、chin(あご)はchin-ne となる。これらの特徴は、日本語の特徴とかなり似ているように思われる。

 クレオールは 新しく生まれた言語であり、言語創造の原初の形に最も近いものと考えられている。日本語が最初に中国語と接触した時も、ピジンやクレオールの時代を経験し たと考えられる。日本語もピジン化の過程を経て形成されてきたと考えると、弥生時代の日本語に中国語からの借用と思われる語彙がかなりあること、日本語の 構造が朝鮮語と同じであり中国語とはかなり違うこと、近隣の言語に日本語に似た言語が発見できないことなどがかなり整合的に説明できる。

グアム島のチャモロ語もまた混交言語である。大航海時代がはじまってマジェラン一行がグアム島に到着したのは1521年のことである。グアム・サイパンにおけるスペインの影響は、1898年にアメリカが米西戦争に勝ってグアム・サイパンを手中におさめるまで400年近く続いた。チャモロ語は一時ほとんど死滅しかけていたが、現在ではチャモロ語を保存しようとする熱心な努力によって、学校などでもチャモロが復活しつつある。しかし語彙の70パーセントはスペイン語 によって置き換えられている。

 スペイン語      チャモロ語   スペイン語     チャモロ語
    verde(みどり)               betde       vender(売る)      bende
   la mesa
(テーブル)       la masa                  asul()        asut
   paloma
(鳩)                   paluma                    animal(動物)      animat
   caballo
(馬)                kabayu                     llave(鍵)     yabi
   libro
(本)                        lepblo                       historia(物語)           estoria

チャモロ語にないvはbに変わり、語尾のlはtに入れ替わっている。チャモロ語の文法はオーストロネシア系であり、スペイン語からの借用語はチャモロ語の文法に馴化している。

【クレオール化したチャモロ語】
    Kumekuentos hao(あなたは話している。)
  話す    あなた

 Este        estorian   un           taotao.(これはある人の物語です。)
  これは 物語  一つの 人

  Hu  taitai     i      lepblo.(私は本を読んだ。)
   私 読んだ ひとつの 本

  Manaitai  yo’ lepblo.(私は本を読んだ。)
   読んだ 私 本

  Yu-hu   tumaitai  i      lepblo-ku.(私は読書が好きだ。)
  そこの 読む ひとつの  本   私の

  Malago’  yo’ setbesa.(ビールをください。)
   欲する  私 ビール

  Kuantos anos hao?(年はいくつですか。)
   いくつ 年 あなた

 スペイン語語源のことばがいくつも使われている。話す(cuentos)、これ(este)、物語(historia)、一つの(un)、本(libro)、私(yo)、ビール(cerveza)、いくつ(cuantos)、年(ano)である。「私」を表わすことばは、チャモロ語固有の’hu’ とスペイン語からの借用語である’yo’’ とがあって、文章のなかで現れる位置が違う。チャモロ語の語彙は繰り返しが多く、’taotao’ は「人」であり、’taitai’ は「読む」である。

 シンガポールやマレーシアのように、現地のマレー人のほかに中国系移民やインド人の移民が入り混じって生活しているところでは、市場などの買い物にはバザー・マレーと いう共通語が使われてる。「ユー・オッケイ・ア?」「ノー・ラ」のように「ア」や「ラ」がつく。「ア」は中国語の「嗄」、「ラ」は「啦」である。「嗄」は 疑問または反語で「イズ・イット?」とか「そうですか」を意味する。また、「キャン・アンダスタンド?」に対して、「イエス」、「ノー」でなく、「キャ ン」と答えるのもシンガポール・イングリッシュである。

19世紀の言語学者は、言語は生物の系統樹のように、祖語からいくつもの系統に分かれていくと考えていた。しかし、20世紀になって、まったく系統を異にする 言語が混交して新しい言語を作り出すことが明らかになってきた。大航海時代以降、世界中の植民地で系統を異にする言語が混じり合い、クレオールと呼ばれる 新しい言語が生まれた。植民地の支配者は、現地の人々と、クレオールを使ってコミュニケーションするようになった。太平洋の島々で、南米で、カリブ海の島 で、クレオール化された言語が数多く使われて、現地の言語構造のうえにヨーロッパ言語の語彙が無数に借用されて新しい言語が生れている。クレオールについ て研究することは、新しい言語の形成過程を解明することにもなるとして、専門家の間で新たな関心を集めている。

古代の日本語も中国語の語彙を受け入れる過程で、クレオール化が起った可能性がある。紀元前後朝鮮半島のどこかで、稲作技術をもった中国語を母国語とする人 びとと、アルタイ系言語を母国語とする人びとが出会い、そこに漢の植民地ができたときの言語状況は、大航海時代以降の植民地の言語とあまり違ったものでは なかったものと思われる。

現代の朝鮮語は新羅語の流れを汲む言語であるが、高句麗系の言語がどこへ行ってしまったかは明らかではない。高麗系言語は百済の支配階級の言語でもあったと いう。古代日本語は高麗系の言語を母体として、朝鮮半島の漢の植民地で形成されたピジンの特徴を受け継いだ言語である可能性がある。現代の日本語のなかに は縄文時代のことばはほとんど受け継がれていないようである。狩猟採集民族のことばに含まれているはずの動物の内臓や根菜類に関することばは年代の日本語 ではほとんどが中国語からの借用語であり、やまとことばの語彙は継承されていない。農耕民は圧倒的に優勢な弥生文化に押されて、縄文語は消滅してしまった 可能性もある。古代の日本語は、ただひとつの祖語があって、それが万世一系の系譜のように、連綿と続いてきた言語ではないことだけは、少なくとも確かであ る。

もくじ

☆第86話 日本語の系統論

★第91話 日本に一番近い南島のことば

☆第93話 比較言語学の方法

★第94話 言語の起源はひとつか

☆第95話 言語の類型

★第97話 日本語の座標軸

☆第106話 日本語と近いことば・遠いことば