第104話 タミル語訳の聖書

  日本語の起源をたずねることは「やまとことば」の起源をたずねることである。江戸時代に本居宣長は、漢心(からごころ)を清く濯ぎ去るとそこに神代の時代 からこの国に伝わる「やまとことば」が姿をあらわしてくる、と考えた。「やまとことば」は東海の小島に有史以来伝わる固有の言語であるとしたのである。現 在でも万葉集は純粋な「やまとことば」で書かれていると考えている人は多い。

  ところが、戦後になると安田徳太郎という医者が『万葉集の謎』という本を書いた。安田によると、ヒマラヤ山脈の山ふところにいだかれて、今でも万葉集と同 じことばを話している民族がいるというので、本はたちまちベストセラーになった。日本語の起源はレプチャ語だというのである。

 最近では大野晋が日本語の起源はタミル語であるとして注目をあつめた。大野晋は1957年に『日本語の起源(旧版)』を出版したときは日本語・アルタイ語系説であった。日本語・アルタイ語系説は明治以降多くの学者によって唱えられ、当時の通説でもあった。ところが、大野晋は1980年代になるとタミル語起源説を提唱して、旧版は絶版にしてしまった。レプチャ語もタミル語も日本人にはなじみのない言語であり、レプチャ語やタミル語の本は 日本では容易に手に入れることができないから、検証することはむずかしい。専門家の間でも意見は分かれていている。言語学者の西田龍雄は、日本語はチベッ ト・ビルマ語に近い言語であるという説を提出している。ビルマ語はレプチャ語に近い言語である。

 はたして、日本語はアルタイ系の言語なのだろうか、タミル語と同じドラヴィダ語系の言語なのだろうか。ここでは、タミル語とビルマ語の聖書をとりあげ、日本語と文法構造の比較を試みることにする。ま ず、はじめはタミル語である。(原文はサンスクリット系タミル文字)

ヨハネ福音書第1章

1.初めにことばがあった。
   Ātiy-il-ē             vārttai         irundadu 
   初め+に(場格・強調) ことば(主格)  あった(3人称・単数・中性・過去)

 ことばは神であった。
      anda   vārttai           dēvan  idatt-il   -irundadu 
    その ことば(主格)   神の所+に(場格)  あった(3人称・単数・中性・過去)。 

  anda vārttai        dēvan-āy      -irundadu
    その     こ とば(主格)  -            あった(3人称・単数・中性・過去)。

       タミル語の動詞には人称・数・性を示すマーカーがある。主格はゼロ標示である。
   iruは英語のbe動詞にあたる動詞である。irundaduiruの3人称単数(中性)過去形である。現  在形はirukku、未来形はirukkumである。動詞には性の表示もあって、男性はirundaan、女性は    irundaaとなる。

2.ことばは、初めに神と共にあった。
       Avar       ātiy-il-ē         dēvan-ōd    -irundār
     彼(=ことば)は 初め+(場格・強調)  神+と(一緒に)  あった(3人称・単数・過去)

  ○タミル語の人称代名詞は性・数・格を表示する。「彼」(avar)は人称代名詞で英語のheにあた   る。3人称単数・男性はavan、女性はavalである。  

 

1人称

2人称

3人称

単数

nān

nī

(男性)avan

(中性)aval

(女性)atu

複数

(包含形)nām

(除外形)naǹkal

nīr

nīǹkal(敬語)

(男性)avar

(男性・女性)avarkal

(中性)avaiavaikal

3.万物はことばによって成った。
      Sakalam-um avar        mūlamāy und-āyirru
     すべて+    それら(=ことば)  によって  生まれた(完了)

  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
     undānat-onr-um        avar-āl-ey             llāmal    undāka-villai
    (
付属)物は+ひとつ+も それ+による+(強調)  ないでは 生まれなかった(否定)

  ○タミル語では過去のできごとを表すのに、過去形と並んで完了表現がよく使われる。und-āyirru  -āyirruは「~しました」にあたり、完了を表す。
○否定形は動詞の後につく。
undāka(生まれる)+illai(否定・ない)。これは日本語の否定のし かた と 同じである。

  マタイによる福音書第6章

9. だから、こう祈りなさい。
     nīngal       jepam  panna  -vēndiya    vidam-āvadu 
    あなた方(主格)  祈る 必要がある     方法+というもの(は次のことである)

「天におられるわたしたちの父よ、
          paramandalaǹgal-il    -irukkira  eǹgal   pitāv-ē 
     天(複数)+(場格)    いる   +(強調)

 御名が崇められますように。
         ummudaiya    nāmam  parisuttap-paduvadu            -āka
     あなたの(属格) 名前   讃えられること(受身・動名詞・未来)  ありますように(願望) 

 御国が来ますように。
         ummudaiya  rājyam              varuvadu                              -āka
     あなたの     王国が(主格)  来ること(動名詞・未来)+ますように(願望)

 タミル語の人称代名詞は主格と並んで与格、対格、場格などがあり、さまざまな用法がある。                 eǹgal(我々の)、ummudaiya(あなたの)はそれぞれ属格である。
    ○場格は
-ilまたは-idamをつけて場所(~において)を表す。-ilは無生物の名詞の場格であり、          -idamは人をはじめ生物の名詞の場格を表す。paramandalaǹgal-il(天)は無生物だから-ilが使        われている。

10. 御心が行われますように。
      ummudaiya  chittam  paramandalam-ttil-e  seyyap-padukiradu                           pōla
    あなたの  
心が     天国(場格・強調)    なされること(受身・動名詞・現在) ように

  天におけるように地の上にも。
              būmiy-il-ēy-um                    seyyap-paduvadu                  -āka
       地上+で(場格・強調) なされること(受身・動名詞・未来)  ますように(願望)

     rājaはサンスクリット系の言語で王。タミル語にはサンスクリットからの借用語も多い。

11. わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
      eǹgalukku        vēndiya ākārat-tai inru    eǹgalukkut      tār-um
     私たちに(与格)  必要な    食糧+を  今日  私たちに(与格)  与える(丁寧な命令形)

   ○tār-umumは相手が一人の場合、丁寧な命令形。

12. わたしたちの負い目を赦してください。
      eǹgal      kadanāli-galukku     nāngal     mannikkiradu          -pōla
     我々の(属格)  債務者(複数)+に(与格)  我々が(主格)  赦すこと(動名詞・現在)ように 

  わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
              eǹgal       kadagalai        engalukku   manniy-um
       我々の(属格)  借金(複数形)(対格)  我々に(与格)   赦してください(命令形)

13. 私たちを誘惑に遭わせず、
      eǹgalai-s       sōdanaikku  utpadap            pannāmal
     私たち-を(対格) 試練に    囚われること(不定形)   しないように

  悪い者から救ってください。
              tīmaiy-ininru       eǹgalai      iratchittukkoll-um, 
       悪+より(奪格) 我々を(対格)  救い出してください(命令形)

   国と力と栄えは限りなく爾(なんじ)のものなればなり。
              rājyam-um vallamaiy-um  makimaiy-um   enrenraik-kum  
       国+と   力+と       栄光+と     永遠+に
              ummudaiyavaigal 
   -ē        āmen    enbadu      -e
       あなたのもの(複数形)+(強調) アーメン   というように+(強調)

 参考文献:Winslow “Tamil English Dictionary” 1862 (reprint 1979)
         ”English and Tamil Dictionary” New Delhi 1888,(reprint 1980)
         Harold F. Schiffman“A Reference Grammar of Spoken Tamil”Cambridge University               Press,1999

      カルパナ・ジョイ/袋井由布子『タミル語入門』南船北馬舎、2007

 タミル語については和光大学非常勤講師の袋井布由子氏の協力をえた。タミル語は分かち書きをしないので、どこまでがひとつの単語かを判断するのがむずかしく、辞書が あっても初心者には辞書をひく手がかりすらみつからない。また、文字はサンスクリット系の音節文字であるが、似た文字がいくつかあって、それが書体による ものか違う文字なのかも、はじめはわかりにくい。日本語をはじめて習う人にとって「シ」と「ツ」、あるいは「ヌ」と「ス」、「れ」と「ね」あるいは「わ」 との区別が判別しにくいのと同じである。袋井氏の協力なしにはほとんど解読は不可能であった。

 タミル語聖書で管見したタミル語の特徴を日本語と比べてみると次のようになる。

 ○日本語と同じ特徴:●日本語と異なる特徴
 

 ○
 語順は主語+目的語+動詞が基本である。 
 ○ 名詞の後に後置詞をつけて格関係を示す膠着語の一種である。
 ○ 冠詞は使わない。 
 ○ 形容詞は名詞の前にくる。
 ○ 形容詞に比較級、最上級のような級はない。 
 ● 名詞に単数複数の区別・性の区別がある。
 ● 1人称複数の代名詞に包含形と除外型がある。
 ● 動詞に人称・数・性の表示があり、主語の人称・数・性と一致する。

 ○ 動詞の語幹のあとに接尾辞がつぎつぎについて時制・相(アスペクト)や法(モード)などを   示す。
 ○ 否定の標識は動詞の後にくる。
 ○  疑問文でも語順は変わらず、文末に疑問詞をつける。
 ○ 敬語、丁寧形などが発達している。
 ○ 語頭に複合子音が立たない。
 ○ 音節は母音で終わる開音節である。
 ○ 文語のp、t、kは語頭では清音、語中では濁音となる。
 ● rとlの区別がある。

 ○ 文語ではrは語頭に立たない。                                 

 タミル語はドラヴィダ語族という大語族のひとつである。日本語の起源がタミル語にあるとすれば、日本語はドラヴィダ語族に属するということになる。それは、ありそうに ないことである。大野晋の主張にもかかわらず、タミル語の文法構造はかなり日本語とは異なる。しかし、人類の言語の起源がひとつであるとすれば、日本語も どこかでタミル語と似た点があるとしても、何の不思議もない。

もくじ

☆ 第86話 日本語の系統論

★第90話 日本語とタミル語

☆第98話 はじめにことばありき考

★第105話 ビルマ語訳の聖書

☆第106話 日本語と近いことば・遠いことば