第74話 古 事記はどのようにして成立したか

  『古事記』は和銅4年9月18日、詔(みことのり)により太安万侶が、稗田阿礼が誦むところの旧辞を撰録して献上した、と太安万侶の序にある。『古事記』 序の日付は和銅5年正月28日となっているから、詔からわずか5ヶ月という短期間に太安万侶は『古事記』を完成させたことになる。

  『古事記』が成立したとされる和銅5年は712年である。壬申の乱を収束して、新国家の構想を打ち出さなければならなかった天武天皇にとって、修史の仕事 は必要欠くべからざるものであったであろう。『古事記』が完成してわずか8年後の720年には『日本書紀』という新たな年代記がまた編纂されている。どう して、わずか10年後に新たな年代記を編纂する必要が生じたのだろうか。

  『日本書紀』には「或る本に曰く」などと、いくつかの原典があったことを示唆している。また、推古天皇28年には「この年、皇太子・嶋大臣、共に議(は か)りて、天皇記及び国記、臣連伴造国造百八十部あはせて公民等の本記を録(しる)す」とある。遅くとも推古天皇の時代、7世紀初頭までには歴史の編纂作 業ははじめられている。また、天武天皇の詔勅にも「帝紀を撰録し、舊辭を討覈(とうかく)して、偽りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流 (つた)へんむと欲(おも)ふ」とある。帝紀や旧辞は5世紀にはできあがっていた可能性がある。5世紀の日本ですでに漢字が使われていたことは、稲荷山鉄 剣などで実証されている。『古事記』は序文で、帝紀や本辞が存在したことを示す記述がある。

こ こに(天武)天皇詔(の)りたまひしく、「朕(われ)聞きたまへら、『諸家の齎(もた)る帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虚偽を加ふ。』とい へり。今の時に當たりて、其の失(あやまち)を改めずは、未だ幾年をも經ずしてその旨(むね)滅びなむとす。これすなはち、邦家の經緯、王化の鴻基(こう き)なり。故(かれ)これ、帝紀を撰録し、舊辭を討覈(たうかく)して、偽(いつは)りを削り實(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと 欲(おも)ふ。」とのりたまひき。

ところが『古事記』の序文は続けてつぎのようにも 書いている。

時 に舎人(とねり)ありき。姓(うぢ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)、年は廿八。人と為(な)り聰明にして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に 拂(ふ)るれば心に勅(しる)しき。すなはち、阿禮に勅語して帝皇日繼(すめらみことのひつぎ)及び先代舊辭(さきつよのふること)を誦(よ)み習ひたま ひき。

  前半を素直に読めば天武天皇は帝紀や本辞が伝えられているのを知っていたことになる。ところが後半ではそれは稗田阿禮によって口伝として伝承されてきたも ののようにも読める。『古事記』の本文には、『日本書紀』とちがって異本、異伝についての記録はない。しかし、『日本書紀』が伝本を列挙していることに照 らしていえば、『古事記』もまた伝本に依拠して編纂された可能性が十分にある。稗田阿禮による口承に関する記述は『古事記』を権威づけるための文飾である 可能性もある。

 『古事記』が仮に5世紀ころの原本に基づいて編 纂されているとすれば、太安万侶が古事記の序でいうように、和銅4年9月に詔勅が出て、わずか4ヵ月後の翌年(712年)の正月に完成させることができたとしても不思議で はない。また、古事記歌謡の漢字音が日本書紀歌謡の漢字音より数百年も古いことも、すべて説明がつく。

  『古事記』が歴史物語として語っているのは雄略天皇、清寧天皇、顕宗天皇までで、仁賢天皇以降は簡単に系譜が述べられているだけである。そのことは古事記 の原形が雄略天皇のころには、できあがっていたことを示唆していないだろうか。仁賢天皇以降は系譜が述べられているだけであることも、太安万侶が『古事 記』を編纂するにあたって原本につけ加えたと考えれば、説明がつく。

  古事記歌謡と日本書紀歌謡では漢字の音が変化していることも、その有力な傍証となる。このような音韻変化はわずか10年で起こりうるものではなく、長い年 月をかけてはじめて起るものである。古事記を書いた史は、日本書紀を書いた史よりも、数百年前の漢字音に依拠していると考えられる。

 記紀歌謡のすべてについて、その表記を全部比較 してみると、その対応の仕方に一定の規則性があることが判明する。もう1首だけ、古事記歌謡と日本書紀歌謡を比較検討してみることにする。(上段=読み下 し、中段=古事記歌謡、下段=日本書紀歌謡)

  この御酒は わが御酒ならず くしの神  常 世にいます  石立たす
   許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多々須
  虚能瀰企破 和餓彌企那羅儒 區之能伽彌 等虚豫珥伊麻輸 伊破多々須

  すくな御神の  神ほぎ  ほぎ狂ほし  と よほぎ ほぎもとほし
   須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯
  周玖那彌伽未能 訶武保枳 保枳玖流保之 等豫保枳 保枳茂苔倍之

まつり来し御酒ぞ あさず飲せ ささ
   麻都理許斯美岐叙 阿佐受袁勢 佐々
  摩菟利虚辭彌企層 阿佐孺塢斎 佐々 

   日本書紀の歌謡は「すくな御神の」の後が「、、、とよほぎ ほきもとほし 神ほき ほき狂ほし まつり来し 御酒そ あさず飲(を)せ ささ」という順序 になっているが、比較のため古事記の順序にしたがった。このなかで古事記に使われている漢字と日本書紀に使われている漢字の音価を比べてみると概略つぎの ようになる。日本書紀歌謡では、古事記で清音で書いてあるところを濁音で書いてある場合が多い。

古事記(清音): 日本書紀(濁音)
   登[təng]: 苔[də]、  本[puən]: 陪[buə]、  斯[sie]: 辭[ziə]

古事記(清音): 日本書紀(次清音)
   許[xia]: 虚[khia]、  波[puai]: 破[phai]、  都[ta]: 莵[tha]

古事記(喉音): 日本書紀(鼻濁音)
   賀[hai]、       餓[ngai]

古事記(幽母): 日本書紀(日母)
   受[zjiu]、       孺[njio]

古事記(摩擦音):日本書紀(破擦音など)
   斯[sie]: 之[tziə]、  須[sio]: 周[tjiu]

 中国語音には kh-ph-th- の ような次清音と呼ばれる音がある。日本書紀の史が濁音や次清音を清音にあてているということは、日本書紀の史は、古事記の史が濁音で読む文字を清音に読ん でいたことになる。その理由は中国本土における濁音の清音化に求めることができる。中国では苔、陪、辭、虚、破、莵などの発音が長い時間をかけて、濁音あ るいは次清音から、清音に変かわるという音韻変化が起こっていた。そして、随唐の時代には清音になってしまった。日本書紀の史は、この音韻変化が起った後 の中国語音を身につけていたのである。

 また、古代中国語音の孺[njio] は 唐代には孺/djio/ に変化した。「孺」は日本書紀では「ず」にあてら れている。そのほか、古事記では「餓」などの鼻濁音が使われていない。古事記では斯/sie/ とあるところが日本書紀では之/tziə/ であり、須/sio/ とあるところに日本書紀では周/tjiu/ があてられているなどの特色がある。

  古事記はかなり古い時代の中国音を継承した史によって書かれ、日本書紀は唐の時代の新しい中国音を受け入れた史によって書かれている。また、古事記には朝 鮮漢字音の影響が顕著である。古事記歌謡の漢字音でみる限り『古事記』は日本書紀より数百年前に朝鮮半島に定着した朝鮮漢字音に依拠しており、日本書紀は 唐の時代の中国語音に依拠しているということがいえる。古事記は朝鮮漢字音の影響を無視しては解読できない。

もくじ

☆第68話 『古事記伝』を読む

★第69話 本居宣長の古事記解読

☆第70話 古事記解読の方法

★第71話 漢心をすすぎさる

☆第72話 古事記はやまとことばで書かれている か

★第73話 古事記と日本書紀はどう違うか

☆第75話 記紀万葉時代の日本語

★第76話 大国主とは誰か

☆第77話 記紀のなかの朝鮮語の痕跡