第68話  『古事記伝』を読む

 一介の町医者である宣長が『古事記傳』という、気の遠くなるような注釈を書き始めたのは、賀茂 真淵に会ってからである。宝暦13年(1763年)、本居宣長は伊勢松坂の本陣新上屋(しんじょう や)という宿屋で、賀茂真淵に会っている。真淵は67歳、宣長は34歳であった。その時のやり とりが『玉勝間』に載っている。賀茂真淵は本居宣長に、つぎのように諭したという。

 われ(真淵)も もとより、神の御典(みふみ)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを 清くはなれて、古へのまことの意を、たづねえずばあるべからず。然るに そのいにしへのこゝろを えむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそ あれ。さる故に、吾は、まづもは ら萬葉をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよは  ひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さか りに て、行さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし。  (『玉勝間』二の巻)

 宣長は真淵のことばに勇気づけられて、『古事記傳』に取り組むことになる。宣長30才あまりの 時のことである。宣長が『古事記傳』を書き始めたのは明和元年(1764) とも明和4年(1767)ともい われている。『古事記傳』全44巻が完成したのは、寛政10年(1798)、宣長69歳のときである から、本格的な研究に着手してから、35年の歳月を要したことになる。宣長の学問的関心は、漢 学とか仏教を受け入れる以前の日本の姿を極めることであった。

  宣長の志は、その後もさまざまな形で受け継がれてきている。小林秀雄は昭和40年6月号の雑誌 『新潮』に「本居宣長」を書きはじめてから、昭和51年 12月号まで「本居宣長」を書き続け  た。終章擱筆は昭和52年9月7日で、実に13年間にわたる畢生の大業である。小林秀雄はなぜ 本居宣長にこだわり 続けたのだろうか。小林秀雄は『本居宣長』のなかで、つぎのように書いてい る。  

  「古事記」という謎めいた、譯のわからぬ物語を、宣長が、無批判無反省に、そのまま事實と承認  し、信仰したについては、宣長が、内にはぐくんだ宗教的 情操が、彼の冷静な眼を曇らせた、さう 解するより仕方がない、とする考へ方に、研究者は誘はれ勝ちだが、これはいけないだらう。少な くとも、さういふ 餘計な考え方で、話を混亂させる事はないやうに思われる。
  「言辭の道」を探る宣長の眼には、終始、何の曇りもなかつたと見ていゝ。訓古の長い道を徹底的に 辿つてみた、彼の何一つ貯へぬ心眼に、上ツ代の事物の、 あつたがまゝの具體性或は個性が、鮮明 に映じて來た。其處に直觀される、事物の意味合なり價値なりが、そのまゝ承認出來ない理由な  ど、彼には、何處 にも見當りはしなかつた。宣長の場合、さう端的に見れば、足りる事なのであ  る。
(『本居宣長』p.532

   本居宣長は、小林秀雄がいうように、彼の心眼に映し出された日本古代の姿をそのまま承認し  た。そして、小林秀雄は本居宣長の眼に映じた日本の古代、や まとことば、やまと心を、そのまま 受け入れようとした。本居宣長は太安万侶の『古事記』を読み解くことによって、日本の古代と出 会い、小林秀雄は本居 宣長を理解することによって、日本の姿を再発見した。小林秀雄はいう。 

宣 長には、迦微(かみ)といふ名の、所謂本義など、思ひ得ても得なくても、大した事ではなかつたのだが、どうしても見定めなければならなかつたのは、迦微と いふ名が、どういふ風に、人々の口にのぼり、どんな具合に、語り合はれて、人々が共有する國語の組織のうちで生きてゐたか、その言はば現場なのであつた。 「人は皆神なりし故に、神代とは云」ふその神代から、何時の間にか、人の代に及ぶ、神の名の使はれ方を、忠實に辿つて行くと、人のみならず、鳥も獣も、草 も木も、海も山も、神と命名されるところ、ことごとくが、神の姿を現じてゐた事が、確かめられたのである。(『本居宣長』p.463

 日本とは何かを問いかける人は、いつの時代にも本居宣長にもどってくる。明治時代には新渡戸稲造が『武士道』のなかで、本居宣長のやまと心の歌を引いている。

  志き嶋の やま登許ゝ路を 人登ハゝ 朝日尓ゝほふ 山佐久ら花

  本居宣長の漢心を排して日本の独自性を問う考え方は、大東亜戦争中は、己自身を華夷思想の中心にすえて、やまと魂を鼓舞する思想として宣揚された。本居宣 長の『古事記傳』の解読と解釈は、現代の国語学者にも受け継がれている。冒頭の「天地初発之時」を宣長は「天地(あめつち)の初(はじ)めの時」と読んで いるが、倉野憲司は「天地(あめつち)初めて發(ひら)けし時」(岩波文庫)と読み、西宮一民は「天地(あめつち)初(はじめ)て發(おこり)し時に」 (おうふう・桜楓社)としている。多少の異同はあるが、訓読みに徹するという点は本居宣長の伝統を忠実に守っている。「天地(テンチ)初發(ショハツ)の 時」と漢文で読む人はいない。まして、「天地(テンチのあめつち)の初發(ショハツにして、はじめ)の時」などと文選読みに読む人はいない。『古事記』は 漢字だけで書かれてはいるが、古代日本のロマンを伝える「やまとことば」の書なのである。

  敗戦後『古事記』の神話を字義のまま受けとめる考え方は否定され、神代を日本の歴史のなかに位置づけることはなくなった。しかし、歴史解釈の基本となる原 文の解釈が変ったわけでもなく、新しい解釈が生まれたわけでもない。『古事記』の読み方は本居宣長の時代のままである。日本の歴史は石器時代にはじまり、 縄文時代、弥生時代、古墳時代へと展開していくというのが現代の常識である。『古事記』にいう神代とはいつの時代に相当するのだろうか。

    神話の神々が登場する時代にはすでに五穀があり、刀(鉄器)があり、酒がある。このことか  らも『古事記』にいう神代とは、弥生時代以前にはさかの ぼりえない。神代は現代の歴史観でみ  れば弥生時代になぞらえることができる。弥生時代は稲作の技術や鉄器の文化が大陸から、朝鮮  半島を経由して日 本にもたらされた国際交流の時代である。

  『古事記』が成立した8世紀も、日本が中国大陸や朝鮮半島から孤立して、独自の文化を形成した時代ではなく、日本の歴史のなかでもまれにみる国際化の時代 であった。日本民族の特性であるという皇国の言語は、中国語の語彙を数多く取り入れ、朝鮮漢字音の影響を受けた弥生音で発音されていた。「やまとことば」 のなかに中国語や朝鮮語からの借用語を探すのは容易だが、縄文語の痕跡を見出すのはむずかしい。古代日本語の語彙のなかに狩猟採集時代のことばを探すこと は困難である。

    近代の日本は「美しい日本語」、「日本独特の文化」、「単一民族」という幻想のうえに、日本の  アイデンティティーを形成してきた。日本の文化は外 国人には理解できない。日本語は日本人と  して生まれてきた者たちの占有物である、という考え方が支配してきた。しかい、完璧に日本的  であるものは ありえない。日本語も日本文化も複合的であることによって、はじめて普遍性を獲  得することができる。本居宣長は日本語を、そして国家としての日本を大 宇の中心に据えること  によって、辺境の文化と考えられてきた日本を普遍の高みに押し上げようとした。そして、その  志を受け継ぐ日本人は後を断たな い。

    アジア2千年の歴史のなかで、中国こそ文明の中心であった。中国語だけが正しい言語であ   り、あとは「南蛮鴂舌」(南方の蛮人はもずのさわがしい鳴き声 のようにまくしたてる)である  というのが中国人の言語観であった。言語における華夷思想である。本居宣長はこれに反発し   て、「此ノ五十ノ外ハ。皆鳥獣萬物 ノ聲ニ近キ者ニテ。溷雑不正ノ音也ト知ルベシ」と主張して  いる。日本語の五十音の正しさを主張することによって、日本語を小中華の言語として位置づけ  て、 その他の言語は夷狄の言語としている点では、本居宣長もまた中国人の華夷思想を受け継い  でいる。

    明治時代以降に固められた「言語=文化=民族=国籍」という閉鎖的な言語観、歴史観が、国際  社会のなかで日本を孤立させる原因になった。しかし、『古 事記』の神代を日本の弥生時代にあ  てはめてみると、弥生時代とは「漢心(からごころ)を排した純粋なやまとごころ」の時代では  なく、中国の文化が稲作や鉄 器をともなって朝鮮半島を経て日本列島にやってきた時代であり、  漢字がもたらされ、百済人が、新羅人が、高麗人が中国語や朝鮮語の語彙を日本語のなかに持 ち  込んだ時代であった。現代の日本語の基層は弥生時代に形成されたと考えられる。

    狩猟採集生活から農耕生活への転換は歴史の大きな転換点となる。たとえば、アメリカ大陸で  はヨーロッパをはじめ世界中からやってきた入植者が、狩猟採 集生活を主とするアメリカイン   ディアンを押しのけて定住し、母国のことばである英語を話している。入植者たちは自分自身を  ヨーロッパ人ではなく、アメリカ 人だと考えている。同じことは南北アメリカでもオーストラリ  アやニュージーランドなど先住民の人口密度が低かった地域ではどこでも起こった。また、カリ  ブ 海の島々や太平洋の島々ではヨーロッパ人と先住民が一緒に生活するためにクレーオール(混  交語)が生まれた。

    日本の弥生時代はこれと同じようなことが起こっても不思議でない時代であった。大陸や朝鮮  半島からの渡来人はさまざまな言語をもたらし、やまとことば の形成に寄与した。そして自分自  身を「やまと」人と思うにいたったに違いない。『古事記』に描かれた日本のはじめとはこのよ  うな時代ではなかったのだろう か。

もくじ

☆第69話 本居宣長の古事記解読

★第70話 古事記解読の方法

☆第71話 漢心をすすぎさる

★第72話 古事記はやまとことばで書かれている か

☆第73話 古事記と日本書紀はどう違うか

★第74話 古事記はどのようにして成立したか

☆第75話 記紀万葉時代の日本語

★第76話 大国主とは誰か

☆第77話 記紀のなかの朝鮮語の痕跡