第54話 漢字に漢字でカナをふる 日本語には漢 字のほかにカナがあるから、読み方の分からない文字には、カナをふることができる。しかし、中国語には漢字しかないから、漢字に漢字でカナをふるよりほか に方法がない。中国には古くから反切という方法があって、漢字の読み方を声母(頭子音)と韻母(母音を含む部分)で示す。例えば、「東」は東(徳反紅)と 表示して、「東」は頭子音が「徳」と同じであり、韻母(母音を含む部分)は「紅」と同じであることを示す。 カナ以前の日本語は漢字だけで書かれているから、古代の日本語をよみがえらせるためには、唐代の中国語音を復元しなくてはならない。中国語の韻書には、随の陸法言が編纂した『切韻』(601年)と、宋代に成書した『広韻』(1008年) などがある。これらはいずれも随唐の時代の中国語音を反映している。記紀万葉の日本語は隋唐の漢字音に依拠しているので、隋唐の中国語音によって記紀万葉 の原音を復元することができる。たとえば、日本語の「やまと」は古事記では「夜麻登」と表記されているから、唐代の中国語原音で読むと、つぎのようにな る。 夜(羊反謝)麻(莫反霞)登(都反縢) 「夜」の声母は「羊」と同じであり、韻母は「謝」と同じ韻であることを表わす。「麻」は声母が「莫」、韻母が「霞」である。また、「登」は声母が「都」、韻母が「縢」ということが分かる。古事記歌謡を反切を頼りに解読し、「やまとことば」に復元すると、つぎのようになる。
夜(羊謝) 麻(莫霞) 登(都縢) 波(博禾) こ れによって、多(得何)、那(諾何)、阿(烏何)の韻母は「何」であり、同じ韻母であることが分かる。また「登」は登(都縢)であり、「能」が能(奴登) であることから、「登」、「縢」、「能」は同韻であり、これらを連結することによって、「登」、「縢」、「能」が同じ韻母であることが明らかになる。しか し、反切は循環論になっているから、反切に用いられている文字の音価が分からなければ、万葉時代の声を復元することはできない。たとえば麻(莫反霞)と あっても、「莫」を「マク」と読むか「バク」と読むかによって、「麻」は「マ」とも読め、「バ」とも読めてしまう。「夜麻登」は「登」を登「トウ」と読む と夜麻登「ヤマトウ」、「久爾能」は「キュウジノウ」と読んでしまう可能性がある。 反切には限界はあるものの、反切にもとづいて日本の古代歌謡を、ある程度復元することが可能である。反切をもとにして古事記歌謡を読むと、およそつぎのようになる。
やあ・まあ・とう・ふぁ 奈良時代の日本語音については、不明のことがまだ多い。しかし、唐代漢字音をもとにして、か なり万葉時代の日本語音を復元することができる。 ○日本語のハ行は「ふぁ、ふぃ、ふ、ふぇ、ふぉ」だった。 ○ 「やまと」の「と」はどんな音だったか。 「やまと(乙)」、「くにの(乙)」、「まほろ(乙)ば」、「やまご(乙)も(乙)れ る」はいずれもオ段乙の音 である。オ段乙の音は反切では「登」、「縢」、「能」、「厚」、で表されている。このことか ら、オ段乙の音は登(トウ)、縢 (トウ)、能(ノウ)、厚(コウ)に近い音であったものと思わ れる。「母」は「厚」と同じ韻母だとされているから、母(モウ)に近い音であったことが 推測 できる。 ○ 「久」、「呂」、「流」はどう読むか。 朝鮮漢字音では中国語の介音(わたり音)iが失われることがある。宿なども朝鮮漢字音では宿 (suk) で あり、宿「しゅく」とはならない。日本語の「宿禰」も「すくね」であって「しゅく ね」とはならない。「呂」は呉音では呂(ろ)、漢音では呂(りょ)で ある。「流転」も呉音で 流転(るてん)と読む。古事記歌謡の表記に使われている「久」、「呂」、「流」は、朝鮮漢字 音の影響で介音[i] が失われて、久(く)、呂(ろ)、流(る)と発音されていた可能性がある。 古代日本語の漢字音は、朝鮮漢字音の影響もあり、中国語原音だけでは復元することはできない 場合もある。 「碁」は碁(渠之)であり、反切音に忠実に読むと碁(ギ)になってしまう。「碁」は「其」や「期」 と同じ声符をもっている。「期」の日本漢字音は期 (キ)のほかに、末期(マツゴ)、帝国海軍の 最期(サイゴ)などの読み方もある。「将棋」の「棋」は声符が「碁」と同じであり、碁の協会は 日本棋院(キイン)、「碁石」は碁石(ゴイシ)と読み分けられている。碁(ゴ)は古代中国語音 を継承したものである。碁[giə] の介音[i] は古代中国語音にはなく、隋唐の時代の中古中国語音で発 達してきた音である。「将棋」の「ギ」は棋[giə] は介音[i] が生かされたもので、中古中国語音を反 映している。これらの修正を加えて古事記歌謡を復元すると、およそつぎのようになる。 やまと(乙)ふぁ くにの(乙)まふぉろ(乙)ば たたなづく あをがき 古事記歌謡のなかでもよく知られたもうひとつの歌、須佐の男の命が出雲の須賀の地にたどりつ いたとき詠んだとされる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」の歌 の、中国語音の反切はつぎのようになる。
夜(羊謝)久(挙有)毛(莫袍)多(得何)都(當孤) 唐代漢字音をもとに8世紀の日本語音を復元してみると、つぎのようになる。 やあ・きゅう・もう・たあ・とお ここでも久(挙有)、碁(渠之)、流(力求)は中国語音では拗音(介音[-i-] を含む)になってい る。古代日本語には二重母音がなかったから、介音[i]が失われて久(く)、碁(ご)、流(る)と 発音されたにちがいない。弊(弼祭)も二重母音が避けられて、弊(ばい)ではなく、「べ」ある いは「へ」と單母音に発音された。大野晋は『日本語の起源(旧版)』のなかで、日本語のエ段につ いて、つぎのように述べている。
それらの母音(イ(乙)、エ(乙)、エ(甲))
は、古い日本語本来の母音ではなく、後世になって新しく発達した母音であるらしい。というのは、イ(乙)、エ(乙)、エ(甲)という音は、単語の終わりの部分や、活用語尾に多く現われ、単語のはじめにくることがほとんどない。 これらの点を配慮して解読すると、古事記の歌謡はつぎのように復元できる。 やくも(甲)たとう
いづもやふぇ(甲)がき(甲)
つまご(乙)み(乙)に 日本語に母音が八つあった時代は奈良時代で終わり、五十音図ができあがる平安時代には、日本語 の母音は現在と同じ五つになり、古代日本語音の記憶は日本人のなかから失われる。 |
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