第31話 万葉集の成立を考える

  万葉集は5世紀から8世紀中葉までの、3百余年にわたる歌の集大成である。万葉集の第1番の歌は、よく知られているように雄略天皇の歌とされる歌である。 5世紀の天皇の歌は8世紀に万葉集が成立するまで、どのように伝承されてきたのだろうか。そして、万葉集は5世紀の日本語の痕跡をどの程度留めているのだ ろうか。ここでは、万葉集の成立について考察してみることにする。まず、万葉集の巻頭の歌である。

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳爾 菜採須児 家吉閑 名告紗根虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目家呼毛名雄母(万1)

籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持(ち) 此(の)岳に 菜採(ま)す児家きかな 名告(ら)さね 虚見つ 山跡の國は 押(し)なべて 吾こそ居(れ) しきなべて 吾こそ座(せ) 我こそは 告(ら)め 家をも名をも

この表記では日本語の助詞などは音や訓を使ってかなり書き込まれているが( )をつけた動詞の活用語尾などははぶかれている。この歌に使われている文字は訓読、訓借、音読があり、通常つぎのように分類できる。

訓読:籠(こ)、持(もち)、此(この)、岳(をか)、菜(な)、採(つむ)、児(こ)、
家(いへ)、名(な)、告(のる)、虚(そら)、見(み)、國(くに)、吾(われ)、居(をれ)、座(ます)、我(われ)、

訓借:乳(ち)、根(ね)、津(つ)、山跡(やまと)、者(は)、押(おす)、戸(へ)、
手(て)、名(な)、背(そ)、歯(は)、目(め)、雄(を)、

音借:毛(モ)、與(ヨ)、美(ミ)、母(モ)、布(フ)、久(ク)、思(シ)、夫(フ)、君(ク)、志(シ)、爾(ニ)、須(ス)、吉(き)、閑(カナ)、紗(サ)、乃(ノ)、
奈(ナ)、許(コ)、曾(ソ)、師(シ)、倍(ベ)、己(コ)、呼(ヲ)、

万葉集に使われている訓読字のなかには、古代中国語の痕跡を留めている古い音や朝鮮漢字音の影響を受けたと思われる弥生時代の借用音が含まれている。

○ 籠の日本漢字音は呉音が籠(ル)、漢音が籠(ロウ)、訓は籠(かご)である。中国語音は籠
    [long]である。古代中国語音では[l-]の前に入りわたり音[g-]があったことが、スウェーデンの東洋
  言語学者カールグレンや中国の音韻学者王力によって指摘されている。籠の古代中国語音は籠

  [glog] 
であった可能性がある。古代日本語では語頭にラ行音がくることはなかったから、籠は籠
  (かご)となって日本語のなかに取り入れられた。正確にいうと、籠(カゴ)ではなくて鼻濁
  音の籠(カコ゜)である。一方、籠には籠(こもる)という詠み方もある。韻尾の
[-ng]は鼻音
  であり、調音の方法が
[-m]と おなじである。籠は籠(こも)にも転移した。この歌では「籠
  毛」となっている。毛(も)は助詞であるという説もあるが、籠を籠(かご)ではなく籠(こ
  も)と読ませるための末音添記で、いわば送り仮名である。末音添記は新羅の郷歌などにしば
  しばみられる表記法である。

  ○   岳(おか)、吾(われ)、我(われ)の中国漢字音は岳[ngeok]、吾[nga] 、我[ngai] であり、朝  鮮漢字音では頭音[ng-] が規則的に脱落して岳(ak)、吾(o)、我(a)と なる。日本語の岳(おか)、
  吾(われ・あ)、我(われ・わが)などは朝鮮漢字音の影響を受けた中国語からの借用語であ
  る。万葉集では「われ」は吾、 我、和例、和礼などと表記されている。吾、我は吾(あ)、我
  (あ)あるいは吾(あれ)、我(あれ)にもあてられている。

  ○  名(な)、津(つ)、目(め)の中国漢字音は名[mieng] 、津[tzien] 、目[miuk] である。日本語の 名(な)、津(つ)、目(め)は中国語の韻尾が脱落したものである。目[miuk] は眸[miu]、眼      [ngən]にも近い。

  ○  家(いへ) 、居(をる) 、根(ね)は古代中国語の家[kea] 、居[kia] 、根[kən]の頭音が脱落した ものである。

  ○  戸(へ)、手(て)は中国語音の戸[ha] 、手[sjiu] の頭音が変化したものであろう。ベトナム漢字 音では手は手(thu)である。江南地方の古代音にはベトナム漢字音に近い音があったものと考えら れる。日本漢字音でも拿捕の拿(だ)の声符は手である。

5世紀の「やまとことば」のなかに、すでに中国語からの借用語がある。訓読字はじつは古代中国語音に依拠した弥生音である。この歌のなかで使われている中国語からの借用語は、つぎのようになる。

  籠(こも)、岳(をか)、吾(われ)、我(われ)、名(な)、津(つ)、目(め)、
 家(いへ)、居(をる)、根(ね)、戸(へ)、手(て)、

万葉集第1番の歌は5世紀の日本語を写してはいるが、300年前に雄略天皇が使っていた漢字がそのまま使われているわけではない。5世紀の日本語には母音が八つあったはずである。しかし、この歌の表記では「も(甲)」と「も(乙)」が区別されていない。「家呼名雄」のように、助詞の「も(乙)」に「毛」と「母」が混用されている。『古事記』では「も」の音が「も(甲)」と「も(乙)」のふたつに区別されている。古事記では「毛」は「も(甲)」にのみ使われて、「母」は「も(乙)」だけに使われている。もし、万葉集の雄略天皇の歌が雄略天皇の書記法をそのまま伝えているとすれば、古代日本語にあった「も(甲)」と「も(乙)」の区別を伝えているはずである。

雄略天皇の歌は古事記歌謡の中心をなしているといっても過言ではない。古事記歌謡では雄略天皇の歌は、つぎのように表記されている。

美母呂能 伊都加斯賀母登 賀斯賀母登 由々斯伎加母 加志波良袁登賣
 御諸の  厳白檮がもと  白檮がもと ゆゆしきかも 白檮原乙女

美母呂爾 都久夜多麻加岐 都岐阿麻斯 多爾加母余良牟 加微能美夜比登
 御諸に  築くや玉垣   築き余し  誰にかも依らむ 神の宮人

久佐迦延能 伊理延能波知須 波那婆知須 微能佐加理毘登 々母志岐呂加母
 日下江の  入江の荷子   花荷子   身の盛り人   羨(とも)しきろかも

この歌では「母」は「も(乙)」にだけ使われている。「毛」は一度も使われていない。古事記では「毛」は「も(甲)」専用の文字である。万葉集巻1の編纂にかかわった史は、マ行オ段の甲乙を区別することができなかった。記紀万葉が編纂された8世紀はマ行オ段の「も(甲)」と「も(乙)」の区別が失われつつあった時代であった。古事記では毛「も(甲)」と母「も(乙)」 は確実に区別して使われている。日本書紀では区別が失われている。万葉集では巻によって、区別して使われている巻と混用されている巻とがある。300年に 及ぶ伝承のなかで、雄略天皇の歌は史たちによって、何回も書写され、その間に使われる漢字も変り、書記法も史によって変わったと考えざるをえない。

『古事記』の歌謡も雄略天皇が5世紀に書いた表記を、そのまま伝えているという証拠はない。たとえば、つぎの歌は古事記と日本書紀の両方に載録されているが、古事記と日本書紀では伝承が少し違う。伝承が違うばかりでなく、使われている漢字も違う。

  美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 多禮曽○○○○ 意富麻弊爾麻袁須 
 野麼等能  嗚武羅能陀該儞 之々符須登 柁例柯擧能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須

夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志麻都登 阿具良爾伊麻志 斯漏多閉能
 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺 絁都魔枳能

蘇弖岐蘇那布  ○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○ ○○○○○○
 阿娯羅儞陀々伺 斯々磨都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 

多古牟良爾 阿牟加岐都岐  曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登
 陀倶符羅爾  阿武柯枳都枳都 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 

那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布(古事記)
 飫裒枳瀰儞麼都羅符 儺我柯陀播於柯武  婀枳豆斯麻野麻登(日本書紀)

伝承が同じ部分には傍線を付した。古事記歌謡の読みくだしは、つぎのようになる。

み 吉野の 小牟漏(をむろ)が嶽に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ大前に申す やすみしし 吾が大君の 猪鹿待つと 呉床(あぐら)にいまし 白栲(しろたへ) の 袖著(そでき)具(そな)ふ 手胼(たこむら)に 虻掻き著き その虻を 蜻蛉(あきつ)早咋ひ かくのごと 名に負はむと そらみつ 倭の国を蜻蛉 島とふ 

こ の2種の異伝はいずれも雄略天皇の作とされている。古事記に歌を書写した史と日本書紀の史では音韻体系が違う。古事記の歌謡も日本書紀の歌謡も、5世紀に 雄略天皇自身が使った漢字をそのまま伝えているとは考えるのはかなり無理がある。雄略天皇の歌は5世紀の史が記録して伝えたものを、それぞれ別の系統の史 が、古事記、日本書紀、万葉集の歌として書写したものである、と考えるしか説明のしようがない。

  万葉集の歌は、歌人が自分で文字を選んで書いたものであると考える万葉学者が多い。現代の文学作品では、文字の選び方も創作活動の重要な一部をなしている ので、万葉の歌人にとっても文字の選び方は創作活動と不可分のものだと考えるからである。しかし、日本語の書記法が確立していない時代にあって、それは困 難であったと思われる。万葉集の歌は個人の作とされているものでも、その社会に伝承され、民衆の間に伝えられてきたものが多い。つぎの歌などは、天武天皇 の歌として万葉集に収められているが、伝承された民謡をふまえている。

  淑人乃     良跡吉見而      好常言師   芳野吉見与  良人四来三
 淑(よき)人の 良しと吉(よ)く見て 好しと言ひし 芳野
()く見よ 良き人よくみ(万27)

この歌は吉野の地をことほぐ祝い歌で、ことばの調子は民謡に近い。淑(き)、良(し)、吉(く)、 好(し)、芳野(しの)、吉(く)、良(き)、 四来(く) と音の反複が歌の重要な要素になっている。音がまずあって、それを文字が写したものである。この歌は天武8年に天皇が吉野に行幸した時の歌として伝えられ ている。天武8年(679年)といえば壬申の乱(672年)から10年もたっていない。兄天智との確執の舞台となった吉野離宮への行幸に、このような心の はなやぎがあったのだろうか。この歌の明るさには、ただ驚かされるばかりである。

もし万葉集の歌が歌人自身の筆になるものであるとすれば、柿本人麻呂などは2種類以上の書記法を身につけていたことになる。

戀死    戀死哉     我妹   吾家門   過行(万2401)
  恋なば 恋ひも  吾妹子 吾家 過ぎてくらむ

我妹  戀無乏    夢見   吾雖念不(万2412)
  我妹 恋ひて術な 夢見むと 吾おもへど 寐(い)ねらえなく

これは、いずれも万葉集巻11に柿本人麻呂歌集からとして収められているものである。助詞や活用語語尾がほとんど表記されていない。同じ人麻呂歌集の歌でも巻3に収められているつぎの歌は、助詞や活用語尾が表記されている。

三吉野 御船 立雲   常将  我思莫苦二(万244)
  み吉野の み船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに

この違いは、万葉集巻3と巻11では、書写した史の系統が違うからであろう。朝鮮半島から来た史たちが、朝鮮半島で確立されつつあった吏読、誓記体、郷札などを参考にしながら、日本語を漢字で表記する方法を確立していった。その足跡を万葉集は留めている。

万葉集最後の歌は、天平宝字3年(759年)正月1日因幡国庁での宴で、大伴家持が作った歌である。

新年乃始乃    波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(万4516)
  新しき年の始めの 初春の   今日ふる雪の  いや重(し)け吉事(よごと)

 万葉集の成立を760年ころとすれば、大伴家持の歌はその前年に作られたことになる。家持は万葉集の編者にも擬せられており、万葉集の成立したのと同時代の人だから、家持自身の書いた文字の形を、そのまま伝えている可能性がある。

万 葉集第1番目の歌は雄略天皇の歌は、万葉集の成立の時代からは300年も前の歌である。5世紀の日本列島には、すでに文字を使いこなす人がいたことは、稲 荷山鉄剣に刻まれた漢字などから明らかである。しかし、金石文と違って、古事記や万葉集の場合は、史たちによって何回も書写され、その表記は確立されてい なかったために、史によってたびたび変わったにちがいない。

 古事記歌謡では雄略天皇の歌が最後のグループをなしている。その雄略天皇の歌が万葉集の冒頭を飾っている。万葉集の編者はおそらく、古事記歌謡との接続を意識して雄略天皇の歌を冒頭に置いたのであろう。古事記歌謡は5世紀の半ばで終り、万葉集に受け継がれている。

万 葉集は最初の2巻が、原万葉集の痕跡を留めていることは歌の選び方、配列のしかたからして確かであろう。万葉集巻2は仁徳天皇から元明天皇まで3世紀にわ たる歌を載せている。万葉集の原形をなす巻1、巻2は奈良遷都(710年)前後にはできあがっていたものと思われる。遷都後約2年で古事記が成立し、それ から8年目に日本書紀が完成した。古事記、日本書紀、万葉集の成立は、律令国家の成立と深くかかわった国家的事業であった。万葉集の編者は原万葉集である 巻1、巻2に引き続いて、およそ50年の歳月をかけて、それ以後の巻を完成させていった。

万 葉集巻1、巻2の完成以前にも個別の歌集は完成され、伝承されていた。人麻呂歌集、山上憶良類聚歌林のほか古歌集など、万葉集の原本になった歌集のなかに は、5世紀にはすでに成立していたものもあったかもしれない。万葉集には異伝も多く、「或る本の歌」などと注がついている。また、同じ歌でも伝承によって 表記が違う。それらの歌は万葉集成立の謎を解く貴重な鍵を与えてくれる。

万 葉集は、日本人がはじめて文字と遭遇した紀元前後から、数世紀にわたる文字との格闘の跡を色濃く留めている。そして、万葉集に使われている「やまとこと ば」は決して日本列島に孤立して成立したものではなく、弥生時代の借用語を数多く含んでいる。「やまとことば」は東アジアの三角地帯、中国、朝鮮半島、日 本列島の交流の賜物であることを、万葉集の解読から読み取ることができる。

もくじ

☆第21話 万葉人の言語生活      

★第22話 柿本猨とは誰か

☆第23話 万葉集は解読されていない

★第24話 万葉集は解読できるか

☆第25話 万葉集を解読する

★第26話 万葉集は誰が書いたか

☆第27話 万葉集は中国語で書かれているか

★ 第28話 日本語・中国語・朝鮮語対訳『万葉集』 

☆第29話 文字文化の担い手・史(ふひと)

★第30話 万葉集のなかの外来語