第22話 柿本猨とは誰か

万葉集を代表する歌人柿本人麻呂の生涯は、正史に記録がないことから、謎につつまれている。柿本人麻呂は山上憶良とちがって漢詩を残してはいない。人麻呂が 唐の文化にあこがれ、宮廷で漢詩を作るグループに属していなかったことだけは確かである。柿本朝臣を名のる人物で正史に登場するのは、天武10年(681 年)に小錦下(しょうきんげ)を授けられ、和銅元年(708年)に従四位下で亡くなった、柿本猨(さる)という人物だけである。

『日本書紀』には「柿本臣猨など、あわせて十一人に小錦下の位を授けたまふ」(681年)とあり、『続日本紀』には「従四位下柿本朝臣佐留卒す」(708年) とある。この柿本猨と柿本人麻呂とは、どのような関係があるのだろうか。柿本人麻呂と柿本猨とは別人物だと考える人も多い。申年に生まれたから猨と呼ばれ たという説もある。猨は柿本人麻呂と同一人物だと考える人も、万葉集を代表する歌人に猨という名前はふさわしくないと感じている。

柿本人麻呂が歌を詠んだのは680年から709年ころの間である。柿本猨は和銅元年(708年)に亡くなったとされているから、人麻呂が創作活動をした時代とほぼ重なっている。『日本書紀』や『続日本 紀』に登場する柿本猨は、柿本人麻呂と同一人物である可能性がある。

柿本「猨」あるいは柿本朝臣「佐留」は、「猿」ではなくて、百済などの官位「率」である。「率」の古代中国語音は率[shiuət] である。中国語韻尾の[-t] は朝鮮漢字音では規則的に[-l] になるから、百済の官位「率」は百済語では率(sol/jol) になる。そして、日本語では卒「そち」と呼ばれた。百済の官位十六品は上から順に、つぎのようになっている。

1.左平、2.達率、3.恩率、4.徳率、5.扞率、6.奈率、7.将徳、8.施徳、9.固徳、10. 季徳、11. 対徳、12. 文督、13. 武督、14. 佐軍、15. 振武、16. 克虞、

 「率」は百済ではかなり高い官位である。『日本書紀』には「左魯」あるいは「佐魯」とい う名前の人物が、ほかにも二人登場する。一人は任那の人で「左魯那奇」という。もう一人は、百済の人で「佐魯麻都」である。左魯あるいは佐魯は名前ではな く百済、任那の官位「率」である。日本書紀編纂当時、日本漢字音では「率」は率「そち」と読んでいた。「率」では日本語として「さる」と読めないから、音 仮名で「左魯」あるいは「佐魯」と表記したもので、「任那の率・那奇」、「百済の率・麻都」である。『日本書紀』の「柿本臣猨」、『続日本紀』の「柿本朝臣佐留」は「柿本臣卒(そち)」あるいは「柿本朝臣卒(そち)」にあたる百済の官位であると考えることができる。

日本書紀のなかの朝鮮の地名や人名は日本風に読んでいるものが多い。しかし、現地での発音を考慮する必要がある。たとえば、『日本書紀』のつぎのような記述はどうだろうか。

任 那の左魯(さる)・那奇他甲背(なかたかふはい)等が計を用ゐて、百済(くだら)の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を爾林(にりむ)に殺す。爾林は高麗(こ ま)の地なり。帯山城(しとろもろのさし)を築きて、東道を距ぎ守る。粮運ぶ津を断へて、軍をして飢え困びしむ。百濟の王(こきし)、大いに怒りて、領軍 古爾解(こにげ)・内頭莫古解(まくごげ)等を遣して、衆を率て帯山(しともろ)に趣きて攻む。(顕宗三年、478年)

秋 七月に、百済、安羅(あら)の日本府と新羅と計を通すを聞きて、前部(ぜんほう)奈率(なそち)鼻利莫古(びりまくこ)・奈率宣文(せんもん)・中部 (ちゅうほう)奈率木刕眯淳(もくらまいじゅん)・紀臣奈率弥麻沙(みまさ)等を遣して、(紀臣奈率は、蓋し是紀臣の、韓の婦を娶りて生める所、因て百済 に留りて奈率(なそち)と為れる者なり。未だその父を詳にせず。他も皆此にならえ。)安羅(あら)に使して、新羅に到れる任那の執事を召して、任那を建て むことを謨らしむ。別に安羅の日本府の河内直(かふちのあたひ)の、計を新羅に通すを以て、深く責め罵る。(百済本記に云はく、加不至費直(かふちのあた ひ)・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)等という。(欽明二年、541年)

まず、「任那の左魯・那奇他甲背」は「任那の率」である。「率」と書いたのでは率「そち」と日本風に読まれてしまうので、音で「左魯」と表記したものである。「前部奈率鼻利莫古」、「奈率宣文」、「中部奈率木刕眯淳」、「紀臣奈率弥麻沙」は、百済の官位で第六位の奈率「なさる」である。「奈」は百済語で「国」を意味するから、「国の率」ということになる。「佐魯麻都」は音で書かれているが「率・麻都」である。

こ れらの記録は百済本記をもとにして書いているものだが、日本書紀の一般的な読み方としては「率」と書いてあれば率(そち)、「佐魯」と書いてあれば佐魯 (さる)と読む。だから、「率」が「佐魯」と同一の官位を指していることが、わからなくなってしまう。「佐魯麻都」を「さる・まつ」と読むとすれば、「紀 臣奈率弥麻沙」も「きのおみ・なさる・みまさ」と呼ぶべきであろう。

日本書紀の朝鮮の地名や人名は、朝鮮の表記法をそのまま継承しているため、日本語で読むと理解しにくい場合がある。例えば、「那奇他甲背」の甲背は甲背(か ふはい)と詠んでいるが甲背(かひ)であろう。朝鮮語には末音添記という表記法があって郷歌(ひやんが)などでよく用いられている。甲の古代中国語音は甲[keap]で甲(かひ)に近い。しかし、韻尾の[-p]の音は音便化して甲(かひ)とは読めなくなってしまったので、末音の[-p]を「背」と添記したものである。日本でも地名の甲斐の「斐」は甲[keap]の末音[-p]が音便化して甲(コウ)となり甲(かひ)とは読めなくなってしまったために添加したものである。揖保の糸の保も揖[iəp][-p]が音便化して揖だけでは揖(いぼ)と読めなくなってしまったために「保」を補ったものである。また鹿児島県の指宿(いぶすき)は揖宿という地名であったが揖 が音便化して揖(いぶ)とは読めなくなってしまったので指宿と漢字のほうを変えてしまった。「莫古」も莫古(まくこ)ではなく莫古(まこ)であろう。 「古」は莫[mak] の韻尾[-k] を添記したものである。

  日本書紀の記述によれば、紀臣奈率は紀臣が韓(から)の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率になった人だという。この後には、つぎのような記述もあ る。「佐魯・麻都は韓国の生まれである。的臣、吉備臣、河内臣などはみんな佐魯・麻都の指揮に従って日本府の政務をほしいままにしている」。日本の高位高 官が百済に赴き、国際結婚をして現地に留まり、高い官位をえて朝廷のなかで発言権をもっていたことが、この記述からわかる。逆に百済の高官が日本に来て朝 廷のなかで高い地位についたり、官位を与えられていたとしてもおかしくはない。この時代には国境を越えた貴族社会が形成されていたのである。

柿本一族は百済の官位、率「さる」に匹敵するほど官位を与えられる家柄だったことになる。仮に柿本猨が柿本人麻呂本人でなかったにしても、柿本一族は百済の朝廷に近い、国際貴族社会の一員であったとみて 間違いないであろう。『日本書紀』には、つぎのような記述もある。

天智天皇四年の春二月、百済国の官位の階級を勘校した。なお、佐平福信の功績によって鬼室集斯(くるしつしふし)に小錦下の位を授けた。その本の位は達率(だちそち)である。また、百済の民、男女四百人あまりを近江の国の神崎郡(かむさきのこほり)に移住させた。(天智四年、665年)

 百済滅亡後、 多数の百済人が渡来した。百済で官位が与えられていた人には、それに相応する日本の官位を与え、農民には土地を与えた。鬼室集斯の百済での位は達率である というから、百済では二番目に高い位である。日本人が百済の官位を授けら れただけでなく、百済人もまた大和朝廷から官位を授けられているのである。百済で官位が達率だった者には、大和朝廷では小錦下が授けられている。柿本猨は 猨(さる)つまり百済では率(さる)であるから日本で小錦下の位を授けられたとしても至当な扱いである。猨は率「そち」であり、決して猿に通ずる蔑称など ではありえない。

もくじ

☆第21話 万葉人の言語生活

★第23話 万葉集は解読されていない

☆第24話 万葉集は解読できるか

★第25話 万葉集を解読する

☆第26話 万葉集は誰が書いたか

★第27話 万葉集は中国語で書かれているか

☆第28話 日本語・中国語・朝鮮語対訳『万葉 集』

★第29話 文字文化の担い手・史(ふひと)

☆第30話 万葉集のなかの外来語

★第31話 万葉集の成立を考える