第26話 万葉集は誰が書いたか 『古事記』の編者は太安万侶だとされている。『古事記』には太安万侶の序がある。しかし、『万葉集』の編者は不明である。万葉集最後の歌が大伴家持の歌である ことから、編者は大伴家持であろうというのが通説である。万葉集最後の歌は天平宝字二年(758年)正月に大伴家持が詠んだ歌である。
新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰(万4516) 万葉集第一番目の歌は泊瀬朝倉宮(雄略天皇)の歌とされているから、万葉集の歌は五世紀後半から八世紀後半まで約三百年にわたる歌のなかから選ばれているこ とになる。万葉集の時代には文字を使うことのできる人は限られていた。東歌や防人の歌は作者が文字化したものではなく、史(ふひと)が記録したものであろ う。また柿本人麻呂の歌も漢字の訓だけを使って助詞などは記されていないもの、吏読のように日本語の助詞や活用語尾を書きくわえてあるものなど、さまざま な書記法が使われているので、万葉集の編者はさまざまな史の手を経て伝えられた歌を万葉集に載せたのであろう。雄略天皇の歌な古事記や日本書紀の歌謡にい くつか載録されているが、使われている漢字の音価を詳細に調べてみると、万葉集の歌の史と記紀歌謡の史の漢字の使い方は違う。三百年もの間には同じ漢字で も読み方が変わってしまう。 万葉集の歌を実際に漢字で記録したのはどのような人だったのだろうか。国語学者の橋本進吉の著作に「万葉集は支那人が書いたか」という一文がある。
三十餘年前のことであるが、或高等學校の文科の學生であつた某氏が、國語の時間に萬葉集は支那人が書いたものかといふ奇問を發したといふ話を
聞いた事がある。この話は、その人の人がらを知るべき一話柄として語られたのであるが、今にしておもへば、この質問は、その道の學者でもどうかすると閑却
しがちな萬葉集の一面を我々に思ひ起さしめるものとして、寧、意味深長なものがあるのではあるまいか。 橋本進吉は『上代特殊仮名遣』を著わし、奈良時代の日本語には、母音が五つではなく、八つあったことを発見した大学者である。確かに万葉集は全部漢字で書かれている。しかし、漢字で書かれているからといって、全部漢文であるわけではない。題詞の部分は 漢字で書かれていて、日本人が読んでも中国人が読んでも意味を理解することはできる。歌の部分は漢字を借用して日本語を表記しているので、中国語としては 読めない。 記紀万葉の時代の日本語を漢字で表記したのは、朝鮮半島から渡来した史(ふひと)たちであった。彼らの多くは中国人の末裔であると主張していた。漢字こそが 中国文明の真髄であり、史は文字によって中国文化をになうことを誇りとしていた。史は世襲性であった。史はアジアで唯一の文字文化を構築した中国人の末裔 でなければならなかった。 それではなぜ、橋本進吉にとって「万葉集は中国人が書いたか」という設問が重要だったのだろうか。万葉集が日本人のアイデンティティを支える、日本的なるも のの象徴であり、日本人以外の誰が書いたものであってもならない、という暗黙の前提がであったからである。万葉集は混じりけのない「やまとことば」で書か れている。だから、「万葉集は中国人が書いたか」という設問自体が逆説であり、「いや、決してそんなことはない、日本人以外に万葉集は書けるはずがない」 という意味がこめられている。橋本進吉は「万葉集は支那人が書いたか」の結論として「之を愚問とするのも賢問とするのも聞く者の心がけ一つである。」とし ているだけで、万葉集を書いたのは日本人であるとも、中国人であるともいっていない。 万葉集は誰が書いたのだろうか。万葉集最初の歌は雄略天皇の歌だと伝えられている。万葉集の歌は次のように記されている。 籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目 家呼毛名雄母 ほとんどが一字一音の漢字で書かれていて、次のように解読されている。 籠(こも)よ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この岳(をか)に 菜(な)つます児(こ)家聞かな 告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそは座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも (万1) 日本で文字の普及が顕著にみられるようになるのは五世紀後半の雄略朝のころである。埼玉県行田市で昭和43年に稲荷山古墳から鉄剣鉄剣が発見された。当時こ の鉄剣はサビで覆われており、文字の存在はまったく気づかれないでいた。十年後の昭和五十三年になって、この鉄剣には金象嵌の文字があることが、保存処理 中に判明した。その銘文は次のようなものである。 (表)辛亥七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名 (裏)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王在斯鬼 この銘は次のように解読されている。 (表)辛亥の年七月に記す。ヲワケの臣、その祖先の名はオホヒコ、その子はタカリの宿祢。
その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。そ の子の名はハテヒ。 (裏)その子の名はカサハヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の首(おびと)として 仕え今に至っている。ワカタケル大王がシキの宮にあるとき、吾は天下を治めるのを補 佐した。此の百錬の利刀を作らしめ、吾が仕えてきた事の由来を記す。 こ の鉄剣には「辛亥年七月に記す」という紀年が刻まれている。辛亥年は471年(または531年)で、五世紀末か六世紀の初めのものだと考えられる。銘文の 主人公はヲワケ(乎獲居)で、ワカタケル(獲加多支鹵)とあるのは雄略天皇のことである。この鉄剣の銘は五世紀の歴史を理解するうえでの定点ともいうべき ものである。雄略天皇が中国に使節を送り中国の皇帝に上表文を届けたことが中国側の文書である『宋書倭国伝』に伝えられている。その文面は漢文で書かれて いる。 封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廊土遐畿累葉朝宗不愆于歳(宋書倭国伝) 雄略天皇が使節を遣わしたのは順帝の昇明二年(476年)のこととされている。これを読みくだすと概略つぎのようになる。 封 国(倭国)は偏遠にして藩を外になす。昔から祖禰(父祖)みずから甲冑をきて、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆 夷を服すること六十六国、渡って海北を平らげること九十五国、王道は融泰にして、土をひらいて畿をはるかにした。代々、中国に朝宗(天子に拝謁し帰服) し、歳をたがえることがなかった。 雄略天皇は使持節都督倭・新羅・任那・加羅・泰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王に叙すことを求めている。この文章は完全な漢文で書かれている。万葉集の成立から300年も昔のことである。雄略天皇の歌は万葉集第九巻の冒頭にも一首おさめられている。 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜(万1664) この歌は次のようによみくだす。 夕されば 小椋の山に 臥(ふ)す鹿は 今夜(こよひ)は鳴かず 寝(い)ねにけらしも この歌は訓を主体の表記法で、日本語の助詞や活用語尾を補っている。者(ば)、尓(に)、者(は)、家良霜(けらしも)があるから日本語として読み解くことができる。万葉集第一巻冒頭の歌が、ほとんど漢字一字に日本語の音節ひとつが対応しているのといい対照をなしている。 雄 略天皇の歌は古事記や日本書紀の歌謡にもいくつか載録されている。記紀の歌は音だけを使って記録されている。古事記、日本書紀にはそれぞれ120首あまり の歌謡が載録されているが、そのうち50首あまりは同じ伝承の歌である。雄略天皇の歌も古事記の伝承と日本書紀の伝承は一部重複している。上段が古事記、 下段は日本書紀である。
美延斯怒能 袁牟漏賀多気爾 志斯布須登 多禮曾○○○○ 意富麻弊爾麻袁須
夜須美斯志和賀淤富岐美能 斯志麻都登 ○○○○○○○ ○○○○○ 阿
具良爾伊麻志 斯漏多閉能 ○○○○○○○ ○○○○○ ○○○○○○ ○○○○○
○○○○○○ 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐都岐○ 曾
能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 ○○○○○ ○○○○○○○○○ ○○○○○○○○
加久能碁登 那爾於波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿
岐豆志麻登布○○○ 古事記の伝承と日本書紀の伝承は多少違うが、古事記にしたがって読み下すと次のようになる。 御吉野の 小牟漏が嶽に 猪鹿(しし)伏すと 誰ぞ 大前に申す やすみしし 吾が大君の 雄 略天皇の歌は古事記に4首、日本書紀に2首のっている。古事記、日本書紀ともに歌謡は音のみを使って記している。古事記歌謡と日本書紀歌謡は伝承が違うば かりでなく、表記の体系が違う。日本書紀の歌謡では濁音が清音に使われていることが多い。賊(そ)、題(て)、陀(た)、謀(も)などである。古事記で 「阿牟」とあるところは、日本書紀では「阿武」と表記している。「多古牟良爾」は日本書紀では「陀倶符羅爾」となる。 もっとも注目されるのは「が」の表記である。古事記では「和賀淤富岐美能」のごとく「賀」が用いられているが、日本書紀では「倭我伊麻西麼」「倭我陀々西麼」「儺我柯 陀播於柯武」のように一貫して「我」が使われていて「賀」は使われていない。これは雄略天皇だけに限られたものではなく、記紀歌謡を通していえることであ る。古事記歌謡では賀が142回、何が4回使われている。それに対して日本書紀歌謡では餓が63回、我が40回、峨が1回使われている。これらの日本漢字 音はいずれも「が」だが、中国語原音は違っている。賀[hai]何[hai]は喉音であり、餓[ngai]・我[ngai]・峨[ngai]は鼻濁音である。つまり古事記の史(ふひと)は一貫して喉音を日本語の「が」にあてており、日本書紀の史は一貫して鼻濁音を日本語の「が」にあてている、ということになる。 古代日本語では濁音が語頭に立つことはなかった。「が」も語中、語尾のみにあらわれる。朝鮮漢字音では我は頭音が脱落して我(a)となる。古事記の史は鼻濁音が脱落する、朝鮮語系の音韻体系をもっていたために我を使わなかった可能性がある。日本書紀の史は唐代の正音を身につけており、鼻濁音を発音できたから日本書紀歌謡の表記に鼻濁音の「我」を日本語の「が」に使うことができたのであろう。 いずれにして も、雄略天皇が上表文に正式な漢文も書き、万葉集の音訓を交えた日本語文を書き、古事記、日本書紀という違った音韻体系をもった文書に自分の歌を自分の手 で書いたものとは考えられない。史(ふひと)には百済系、高麗系などさまざまな背景をもった人たちがいた。日本書紀には阿直岐史をはじめ船史(ふねのふび と)、白猪史(しらゐのふびと)、津史(つのふびと)などが登場して、徴税や外国からの賓客の接待にあたっている。 なかでも、敏 達元年5月のこととして語られている、高麗の使節からの表䟽(ふみ)をもろもろの史を集めて読み解かせたが、誰も読み解くことができなかったという話は興 味深い。結局船史の祖である王辰爾のみが読み解くことができたという話で、烏の羽に書いてあったから読めなかったという話になっているが、史といえどもす べての表記法に通じていたわけではないことを物語っている。 万葉集にはさ まざまな表記法が併用されている。柿本人麻呂の歌は人麻呂が書写し、雄略天皇の歌は雄略天皇が漢字を選んで書いたとするのは無理がある。万葉集は三百年に わたる時代の歌を大集成している。日本語としての表記法が成熟していなかった時代にはさまざまな表記法が試みられた。それをまとめえたのは史(ふひと)た ちのみであったろう。史の多くは朝鮮半島からの渡来人であった。しかし、渡来人も出張期間が過ぎると母国へかえって行くという人びとではなく、二世三世に なると日本の文化をささえる中核となる日本人になっていった。そして、在来からの日本人も渡来の漢字文化を受け入れて律令国家を形成していった。 |
||
|