第27話 万葉集は中国語で書かれているか

 万葉集は漢字だけで書かれている。詞書の部分は漢文で書かれているので中国人が読んでもわかる。しかし、歌は日本語で歌われたものを漢字で表記したのだから、その表記法に通じていないと解読できない。 例えば万葉集巻1にある額田王の歌は次のように書かれている。

  天皇遊獦蒲生野逝時額田王作歌
 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
(万20)

  皇太子答御歌
 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
(万21)
  紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野 于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉

  詞書の部分は漢文と同じように読み下せばよい。「天皇が蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌」、「皇太子の答えませる歌」となる。皇太子はこの場 合、後の天武天皇である。「紀に曰く、天皇七年丁卯、夏五月五日、蒲生野に従猟したまいき。時に大皇の弟、諸王、内臣と群臣、悉く皆これに従ひき」と読め る。歌は日本語を漢字で表記したものだから、漢字で書かれていても中国人には読めない。

  茜(あかね)さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
 紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 吾恋めやも

  名詞や動詞などの中核となる概念には主に訓をもちい、助詞や動詞の活用などは音を使って表記されている。中国人が読んだとしても「茜草、野、逝、標野、 行、野守、見、君、袖」「紫草、妹、人嬬故、吾戀」くらいは察しがつくかもしれない。しかし、残余の部分は日本語を知らないと解読できない。

  万葉集にはさまざまな表記法がもちいられていて、助詞などが表示されていないものもある。初期の人麻呂歌集は、日本語の助辞が書き添えられていないので、 中国語の影響があるのではないかと考える専門家もいる。略体歌あるいは古体歌と呼ばれる歌は『人麻呂歌集』を含む巻7、巻9、巻10、巻11、巻12 に多い。しかし、中国語として書かれているわけではない。ちなみに、万葉集の中国語訳である『万葉集精選』(銭稲孫訳、中国友誼出版公司)で比較してみる と、つぎのようになる。

[原文]    戀死    戀死哉   我妹    吾家門過行(万2401)
 [中国語訳] 思恋縦云死 亦任死恋思  豈其吾妹子 過門若無知

[原文]       狛錦        紐解開     夕谷不知有命   戀有(万2406)
 [中国語訳] 高麗錦紐帯 不解亦自開 未知我命運     徒思有餘哀

[原文]      足常 母養子 眉隠       隠在妹     見依鴨(万2495)
 [中国語訳] 慈母養嬌娥  深蔵在閨中 如何得見之 蚕蛾蔵繭宮

 もとより、中国語訳は現代の翻訳であり、万葉集が成立した当時に2か国語で併記されたわけではないから、厳密な対訳にはならない。しかし、万葉集の表記のままのでは、現代の中国人に理解できないことは明らかである。

 人麻呂歌集は、訓読の漢字で書き連ねてあり、読む人は文字に現れていない助辞や活用語尾を補って読むという約束ごとなっている。

[原文]     戀死   戀死哉      我妹    吾家門過行(万2401)
 [読み方] 恋死なば 恋ねとや 吾妹子 吾家(わぎへ)くらむ

[原文]    狛錦       紐解開          夕谷不知有命         戀有(万2406)
 [読み方] 高麗錦 紐解けて 夕だに知らざる命 恋つつからむ

[原文]    足常  母養子    眉隠      隠在妹       見依鴨(万2495)
 [読み方] 足常 母かふこ まよごも  こもれる 見よしかも

中国語では日本語の「てにをは」にあたる助詞はほとんど使わない。しかし、助詞をはぶいたからといって中国語になるわけでもない。また、日本語として読むためには助詞や活用語尾を補わない日本語にもならない。人麻呂歌集の表記法は、漢文でもなく日本文でもない。

こ のような表記法は、漢字による新羅語の表記法である「誓記体」にみることができる。誓記体では語順は新羅語と同じであり、助辞や活用語尾は表記されていな いので、読むときに補って読む。李基文の『韓国語の歴史』(藤本幸夫訳、大修館)によれば、誓記体というのは「壬申誓記石」の碑文から名づけられたもの で、そこには次のように書かれている。

壬申年六月十六日 二人幷誓記 天前誓 今自三年以後 忠道執持 過失无誓 若此事失
  天大罪得誓 若国不安大乱世 可容誓之 又別先辛未年七月廿二日大誓 詩尚書礼伝倫得誓三年

朝鮮語は語順が日本語と同じだから、漢字をその順番に訳せば日本語としても読める。

壬 申年六月十六日に、二人が共に誓って記す。天の前に誓う。今より三年後に、忠道を執持し、過失無きを誓う。もし此事を失えば、天に大罪を得んことを誓う。 もし国が安からず大いに世が乱れるならば、よろしくすべからく(忠道を)行わんことを誓う。また別に先に辛未年七月二十二日に大きく誓った。詩経、尚書、 礼記、左伝をを順々に習得することを誓ったが、三年で行った。

 壬申年は 552年(または612年)と推定されているが、いずれにしても万葉集の成立よりかなり古い時代に新羅ではこのような、漢字による新羅語の表記法が行われ ていた。これと同じような表記法の碑文はほかにもいくつか発見されているという。漢字によって自国語を表記しようとする努力は高句麗や百済でも行われてい た。誓記体のほかにも、助詞を漢字で補う「吏読」や、新羅の歌を音と訓をまじえて表記する「郷札」などが知られている。

朝鮮半島から渡来した史は、このような表記法をふまえて漢字による日本語の表記に取りくんだに違いない。『人麻呂歌集』を書いた史もまた「誓記体」を知っていた可能性がある。

もくじ

☆第21話 万葉人の言語生活

★第22話 柿本猨とは誰か

☆第23話 万葉集は解読されていない

★第24話 万葉集は解読できるか

☆第25話 万葉集を解読する

★第26話 万葉集は誰が書いたか             

☆第28話 日本語・中国語・朝鮮語対訳『万葉 集』

★第29話 文字文化の担い手・史(ふひと)

☆第30話 万葉集のなかの外来語

★第31話 万葉集の成立を考える