第21話 万葉人の言語生活 万葉集は759年ころ成立した。万葉集の成立より早い751年には、漢詩集『懐風藻』ができている。「やまとごころ」を詠った万葉集よりも、中国語の詩集で ある『懐風藻』のほうが先にできたのである。万葉集の歌人のなかには『懐風藻』に漢詩を残している人が何人もいる。大津皇子、文武天皇、大神高市麻呂、大 伴旅人、境部王、背奈王行文、刀利宣令、長屋王、安倍広庭、吉田宣、藤原宇合、石上乙麻呂などは、万葉集に歌を残しているばかりでなく、漢詩も残してい る。万葉集の時代には「やまとことば」で歌を作るばかりでなく、中国語の詩を書ける人が数多くいたのである。そのなかの一人である大津皇子は『万葉集』と 『懐風藻』辞世の歌と漢詩を残している。 [万葉集の歌] [懐風藻の漢詩] 金烏臨ニ西舎一 これらの歌と詩は次のように読む。 [万葉集の歌] [懐風藻の漢詩] 臨終 歌も漢詩もいずれも臨終の作である。万葉集の歌では日本の歌の伝統に従って、季節の微妙な移り変わりに心を動かし、美しい自然を愛惜する心情と、死にたいす る自分の思いを重ね合わせている。これにたいして、漢詩では当時宮廷を中心に広がりつつあった、仏教の思想が色濃く映し出されている。言語表現のうえで も、万葉集の歌は「ももづたう」という枕詞にはじまり、「雲隠りなむ」という隠喩で終わっていて、事物を直接的に表現せずに余韻を重んずる「やまとこと ば」の伝統をふまえている。歌は「毎年北方から飛来する無心の鴨が何かを予知したかのごとく鳴いている。鴨は来年もまたやって来るであろう。しかし、私は 今日を限りにこの鴨を見ることがなくなるであろう」という感慨がこめられている。 漢 詩はもっと観念的で、「西舎」「泉路」など仏教の概念が織り込まれている。「日は西方浄土に傾き、うち鳴らす太鼓の音は、はかない命のリズムを刻む。黄泉 の路には賓(まろうど)も主(あるじ)もない、この夕べどこに宿を求めればよいのやら。ひとりわが家に別れを告げるのみ」と解釈できる。漢詩は歌より観念 的で、かつ明示的である。万葉歌は中国語に翻訳しても漢詩になりえないし、漢詩はそのまま日本語にしても万葉の歌にはなりえない。漢詩は脚韻こそ踏んでい ないものの、大津皇子が日本語と中国語を使いこなす、バイリンガルであったばかりでなく、日本文化の伝統と中国や仏教思想に深いかかわりをもっていたこと を、うかがわせるに十分である。 大津皇子は天武天皇の第3皇子(持統紀)とも長子(『懐風藻』)ともいわている。大津は少年時代に壬申の乱を経験している。天武天皇崩御の後、大津皇子は謀 反の企てがあるとの嫌疑によって死を賜った。万葉集の歌も懐風藻の漢詩も、辞世の作とされている。漢詩のほうは中国に類似の詩があることが研究者によって 明らかにされている。しかし、この詩が大津皇子の作に擬せられているということは、大津皇子が「やまとことば」で歌を詠むばかりでなく、中国語を駆使して 漢詩を作る素養があったことを示唆している。日本書紀は大津皇子について、つぎのように伝えている。 持統天皇2年冬10月2日、皇子大津の謀反が発覚、皇子大津を逮捕。あわせて直広肆八口朝臣音橿(じきこうしやくちのあそみおとかし)等30余人を捕えた。 3日、皇子大津に訳田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜った。時に年24才であった。妃の山辺皇女は髪を乱してはだしで走って殉死した。見る者皆嘆く。皇子 大津は天武天皇の第3子である。目鼻立ちがとおり言語明朗で天智天皇に愛されていた。長ずるに及んで才学に富み、特に文筆を愛された。詩賦の興隆は大津に 始まる。 「詩賦の興隆は大津に始まる」というのは大変な賛辞である。大津皇子は「やまとことば」で歌を作り、中国語で詩を書いた。漢詩は宮廷の社交場である詩宴で、長 屋王を中心に作られ、披露された。漢詩は限られた支配階級の文化であり、詩宴に招かれたのは当時の知識人の代表である僧侶、貴族のみであった。宮廷では官 吏の服装も唐の装束をそのまま写したものであった。唐の官吏にならって漢詩を作ることが、官吏の重要な仕事のひとつとされていた。 唐代の中国では、風格のある詩を作ることは、儒者の仕事のなかで最も重要視されていた。よい詩が作れなければ科挙の試験に通らないばかりでなく、儒者として の資質を疑われることにもなりかねなかった。万葉人もまた、中国の伝統に則って、詩作にしのぎを削った。この時代の宮廷の風俗は、唐の文化を規範としてい た。文字をもった中国文化こそが唯一のぶんかであり、漢字文化圏である高句麗、百済や新羅の宮廷文化もまた大和朝廷と同じであった。 懐風藻が宮廷文化を反映しているのにたいして、万葉歌は、「やまとことば」しか話さない層も含めた、幅広い層の歌をおさめている。万葉集には、東歌や防人 の歌など、漢字文化と接点のない人々の歌も含まれている。万葉時代の日本人の言語生活は三つの層から成り立っていたと考えることができる。 1.漢字文化に造詣が深く『懐風藻』に漢詩を載せた宮廷人。 万葉集を代表する歌人のひとりである山上憶良は、歌もつくり、漢詩をものす国際人であった。遣唐使にも選ばれた山上憶良の漢詩は、宮廷詩集である『懐風藻』 には掲載されていない。山上憶良は宮廷のサークルに属する高位高官ではなかった。しかし、山上憶良の漢詩は万葉集の題詞のなかに残っている。 [漢詩] 愛河波浪已先滅 [万葉歌] 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良禰婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀爾 宇知那毘枳 許夜斯 努禮 伊波牟須弊 世武須弊斯良爾 石木乎母 刀比佐氣斯 良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿禮乎婆母 伊可爾世与等可 爾保鳥能 布多利那良毘為 加多良 比斯 許々呂曾牟企 弖 伊弊社可利伊摩須(万 794) これらの詩と歌はつぎのように解されている。 [題詞] [漢詩] [万葉歌] この詩と歌は、大伴旅人が妻を亡くした時に山上憶良が詠んだもので、大伴旅人の歌を受けて詠んだものである。大伴旅人の歌は山上憶良のすぐ前にのせられている。 世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり(万793) 憶良の漢詩も歌もこの歌を受けている。漢詩の大意は「愛する妻もすでに亡くなってしまっ たばかりでなく、煩悩もまたなくなってしまった。以前からこの世は厭わしいと思っていたが、願わくば浄土にこの生を託したい」というものである。愛河は愛 欲を河にたとえたもので、ここでは妻をさす。苦海の煩悩は俗世間の煩悩のことである。仏教の考え方に精通し、中国語の慣用句をかなり知らなければこの漢詩 は書けない。 歌はほとんどが音仮名だけで書かれている。歌はことばのリズムを愛でる文学だから、日 本語のリズムを失わないことを最重点に、音仮名の文字を選んだに違いない。山上憶良の日本挽歌には、漢文では書き表せない、日本的なセンチメントが充満 し、浮遊しているのを感じる。「やまとことば」には、漢詩では表現しきれない何かがあるからこそ、万葉人は漢字を使って「やまとことば」を書きあらわそう と努力を重ねたのであろう。漢詩は「からごころ」で作り、歌は「やまとごころ」を謳いあげている。 「大 王の とほの朝廷と しらぬひ 筑紫国に 泣子なす 慕ひきまして」はかなり修辞的なことばづかいだが「遠い筑紫の国の勤務先まで慕いきて」ということを いっているにすぎない。「やまとことば」には「やまとことば」のいいまわしがあって「大王の とほの朝廷」、「しらぬひ 筑紫国」、「泣子なす 慕ひきま して」と形容詞や枕詞、副詞句を重ねることによって、ことばは深みを増し、こころに響く。最後の部分の「うらめしき 妹の命の 我をばも いかにせよとか 鳰鳥の 二人並び居 語らひし 心そむきて 家ざかりいます」でも「うらめしき 妹の命」「鳰鳥の 二人並び居」なども、漢詩では表現つくしえない心情 であろう。 大津皇子、山上憶良の万葉歌と漢詩をみただけでも、万葉集の時代の人びとの多くが、二 つの言語世界をもち、「やまとことば」には「やまとことば」でなければ表現しきれない心情世界があったことがわかる。それだからこそ、漢字をなんとか手な づけて、「やまとごころ」を託すことができる文字を手にいれようとしたのであろう。その悪戦苦闘の足跡を、万葉集の漢字は伝えている。 |
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