第29話 文字文化の担い手・史(ふひと) 『日本書紀』に史のことがしばしば書かれている。史のことがはじめて登場するのは応神天皇の時代のことである。 応 神15年秋8月6日、百済王は阿直岐(あちき)を遣わして、良馬二匹を奉った。それを大和の軽の坂上の厩で飼わせた。阿直岐に掌らせて飼わせた。その馬飼 いをしたところを厩坂という。阿直岐はまたよく経書を読んだ。それで太子莵稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師とした。天皇は阿直岐に「お前よりもすぐれた 博士(ふみよみひと)がいるか」と問われた。これに対して「王仁(わに)という者がおり、秀れております」と申しあげた。上毛野(かみつけの)君の先祖の 荒田別(あらたわけ)・巫別(かむなきわけ)を百済に遣わして、王仁を召された。阿直岐は阿直岐の史の先祖である。(現代語訳) 文字は馬とともにもたらされた。『魏志倭人伝』には邪馬台国には馬はいないと書いてあるから、馬も文明とともに大陸からもたらされたのであろう。6世紀になると史の記録がしばしば登場する。 欽明14年秋7月4日、樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸された。蘇我大臣稲目宿禰(いなめのすくね)が勅を承って、王辰爾(おうしんに)を遣わし船の 税を記録させた。王辰爾を船司(ふねのつかさ)とし、姓を賜って船史(ふねのふびと)とした。今の船連(ふねのむらじ)の先祖である。 欽明30年夏4月、胆津の白猪田部の丁者(よほろ)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。これにより田戸(たへ)の正確な戸籍ができた。天皇は胆津が戸籍を定 めた功をほめて、姓を賜い白猪史(しらいのふびと)とされた。田令(たつかい)に任ぜられて、葛城山田の直(あたい)瑞子(みつこ)の副官とされた。 史の役割は徴税から戸籍の作成まで幅広い。敏達天皇の時代にはあの有名な烏羽の上表というエピソードが記されている。 敏 達元年5月15日、天皇は高麗(こま)の国書をとって、大臣に授けたまう。諸の史(ふびと)を召し集めて、読み解かしめた。史たちは3日かかっても、誰も 解読することができなかった。そのとき船史(ふねのふびと)の祖先、王辰爾(おうしんに)が読み解いてつかまつったので、天皇と大臣は共にほめて、『よく やった。辰爾(しんに)。さすがだ。お前がもし学問に親しんでいなかったら、誰がこの文章を読み解き得たろうか。今後は殿内に侍って仕えるように』といわ れた。そして東西の(大和と河内の)史 に、『お前たちの習業はまだ足りない。お前たちの数は多いが、辰爾一人に及ばないではないか』といわれた。高麗のたてまつった文書は、烏(からす)の羽に 書いてあった。字(もじ)は烏の羽の黒いのに紛れて、誰も読める人がなかった。辰爾は羽を炊飯の湯気で蒸して、帛(ゆれきぬ・柔らかい上等の絹布)に羽を 押しつけ、全部その字を写しとった。朝廷の人々は一様にこれに驚いた。 高句麗では国の初め(紀元前37年)か ら漢字を使用していて、『留記』という国史百巻を編集している。朝鮮半島では漢字で朝鮮語を表記する方法も早くから試みられていた。助辞を音訓の漢字で書 き加える吏読体、朝鮮語の語順によって漢字を書き連ねる誓記体、音と訓を併用し多くの添読字を加える郷札体などの表記法があった。『日本書紀』の逸話は烏 の羽に書いてあったというのはフィクションだとしても、高麗からの国書が、正規の漢文でなく、朝鮮半島で工夫された表記法で書かれていた可能性を示唆して いる。日本に渡来した史は、出身地や渡来した時期によって、違った表記法を身につけていたものと考えられる。 応 神期に、西史(かふちのふひと)の王仁が、はじめて文字を日本に伝えたといわれている。西暦でいうと四世紀の終りか5世紀の初頭にあたる。後に東漢(やま とのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡来してこれに加わる。5世紀後半には百済・任那の人びとが日本列島に渡来し、6世紀中葉には高句麗からの渡来 者がきた。船史(ふなのふひと)は船の賦を掌り、白猪史(しらゐのふひと)は屯倉、津史(つのふひと)は難波津の賦を掌った。7世紀中ごろには百済が滅亡 して数千人の亡命者があった。これらの人びとは正規の漢文を書くだけでなく、漢字によって日本語を記録する必要にせまられていたに違いない。漢字で日本語 を表記する方法は、万葉集が成立する何世紀も前から準備されていたのである。 や がて8世紀になると、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』が相次いで成立する。『日本書紀』は正式の漢文で書かれている。『古事記』は、太安万侶の序文 は漢文で書かれているが、本文はいわゆる変体漢文で書かれている。『万葉集』は題詞は漢文で書かれているが、歌は音を主体に書かれているもの、訓を主体に 書かれているもの、助辞が省略された表記、助辞を添記した表記など、朝鮮半島で発達したさまざまな表記法が混用されている。それは、史の家系によって、漢 字による日本語の表記法が一様でなかったことを示唆している。万葉集についてみると、同じ柿本人麻呂の歌でも、表記法はさまざまである。 楽浪之 思賀乃辛崎 雖幸有 大宮人之 船麻知兼津(万30) 左散難弥乃 志我能 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛(万31) 『人麻呂歌集』になると助詞などはほとんど表記されていない。 春楊 葛山 発雲 立座 妹念(万2453) 恋死 恋死哉 我妹 吾家門 過行(万2401) 現代の文学者は文体を重んじ、字くばりも文体と考えて文字を選ぶ。しかし、柿本人麻呂が歌の内容にあわせて表記法を変えたとは考えにくい。また、人麻呂が何種類もの表記法に通じていて、ときと場合によってそれらを使い分けたというのも説得力に欠ける。 人
麻呂の活躍した時代は680年から709年の間であり、万葉集が成立したとされる天平宝字三年(759年)からみると半世紀以上前のことになる。人麻呂の
筆跡がそのまま残っていて万葉集に載録されたとは考えにくい。『人麻呂歌集』の歌は『人麻呂歌集』の編纂に携わった史(ふひと)の手で文字化され、万葉集
巻1から巻3までを担当した史がいて、その他の巻についてもそれぞれ編纂に携わった史がいて、それぞれの史の家に伝えられた表記法を選んだと考えるのが穏
当ではなかろうか。 万葉集の時代には、懐風藻に詩を残した宮廷の人びとや僧侶、山上憶良などは不自由なく漢字をあやつることができたに違いないが、文字をあつかうのは史(ふひと)という専門職の専有物だったのである。 |
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