第88話 『アイヌ神謡集』を読む

ユカラをアイヌ語で読んでみたいという気持ちになることがある。しかし、新しい言語を学ぶとなると3年間はかかることを覚悟しなくてはならない。金田一京助 と知里真志保の『アイヌ語法概説』やバチェラーの文法書や辞書も手に入る。三省堂の『言語学大辞典』はアイヌの項だけで90ページ近くを費やしている。し かし、文法書というのは概して血沸き心躍る読物ではない。日本語を母語としながら、学んだのはヨーロッパの言語ばかりで、アイヌ語も韓国語も中国語も知ら ないのは少しおかしいのではないかと自分自身のことばの姿勢に疑問をもつことがある。

『アイヌ神謡集』は名著として誉れ高い。しかし、それを日本語で読んだのではアイヌ語のリズムや美しさは伝わらないのではないかという思いがある。そこで出 会ったのが知里幸恵著訳・北道邦彦編注の『注解 アイヌ神謡集』(北海道出版企画センター)である。この本はアイヌの詩がローマ字とカタカナで表記されて いて、日本語訳が一行ごとに対訳になっている。昔、英語を勉強していたころ映画のシナリオを対訳にしたものを使って生きた英語を勉強しようとしたことが あった。あれと同じ形式である。しかも、反対側のページには単語の説明や文法の解説があって辞書なしで、アイヌ語の詩を味わえる。

『注解 アイヌ神謡集』は題名のとおり、知里幸恵の『アイヌ神謡集』の対訳に注釈をつけたもので、英語の教科書でいえば虎の巻のような作りになっているのが独学者にはありがたい。例えは、有名な「銀の滴 降る降るまわりに」はつぎのようになる。

    “sirokani  pe   ranran      piskan,
   白金       水 降る降る~まわりに

   konkani  pe   ranran          piskan”
   黄金  水 降る降る ~まわりに
       ○主格の助詞はない。

   ari        an      rekpo
   ~と ある 歌
        an(ある、いる)単数、okay(ある、いる)複数

   ci=ki                 kane
   私=をする ~しながら

   pet    esoro
   川  に沿って

   sap=as         ayne,
   川下に向かって=私 ~したあげく

   aynu       kotan
   アイヌ(人間) 村

    enkasike
   ~の上

   ci=kus      kor
   私=~を通る ~しながら
        ○動詞には、現在、過去、未来の区別はない。

    sicorpok        un
   自分(si)の下(corpok)    ~ へ

   inkar=as  ko
   見る=私  ~ する
         ikarは自動詞(見える)、他動詞はnukar(見る)。

   teeta  wenkur,
   昔  悪い/貧しい(wen)(kur)

   tane     nispa       ne,
   今  金持ち ~である。

   teeta  nispa        ne
   昔  金持ち ~である

   tane  wenkur             ne
   今  貧しい人  ~である(になる)。

   kotom        siran.
   ~のように ~である

 「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに。」と云う歌を私は歌いながら流れに沿って下り人間の村の上を通りながら下を眺めると昔の貧乏人が今お金持ちになっていて昔のお金持ちが今の貧乏人になっている様です。

第1話 梟の神が自ら歌った謡「銀の滴降る降るまわりに」はつぎのように展開する。

フクロウの神である「私」が、人間のうえを飛んでいると、子どもたちが弓矢で私を射ようとした。金持ちの子どもたちの矢を避けて、仲間はずれの貧乏人の子の矢にみずから当たる。貧乏人の子は私の死体を自 分の家へ持ち帰る。
 老夫婦が家から出てきて私をていねいに出迎えて くれた。そして「今日は遅いから明日(神の国 へ)お送りしましょう」と私を神窓のしたに置いて寝てしまった。
 私の魂は真夜中に起きあがり、家のなかを飛びまわり宝物でいっぱいにした。そして、りっぱな大きな家に作りかえた。
 夜が明けて家の人びとは起きてみて驚き、私を送るためにイナウや酒を作り村の人びとを招く。人々は家を見て腰を抜かす。
 主人が「大神様のお恵みをいただいたのだから、これからは仲良くしたい」と述べると、人々も今まで貧乏人を差別していたことを謝し、酒宴は盛りあがった。
 人々が仲良くなったのを見て、私(の魂)は安心して神の国へ帰ってきた。私は人間たちから贈られたイナウや美酒で神たちを招いて酒宴を開いた。一部始 終を話すと神たちからほめられた。私は今も人間の国を守っている。

このような神謡が13編おさめられているのである。心躍る教科書である。普通の教科書では第1課でならったことがらは第2課にでてくると、もう既知のこととして繰り返さないものだが、この『注解 アイ ヌ神謡集』では第13課にいたっても、an(ある)、ne(~である)といように繰り返し注釈が出てくるから、頻度の多い単語は自然に覚えられる仕組みになっている。これなら『アイヌ神謡集』を読むためにだけでも、アイヌ語を習いたいという気持ちになってくる。

『アイヌ神謡集』をとおして、アイヌ語の特徴がだんだんと分かってくる。アイヌ語の語順は日本語と同じく主語+目的語+動詞である。ところが、日本語とはかな り違った構造をもった言語である。アイヌ語は動詞のなかに人称接辞が抱合される言語である。普通言語は日本語のように名詞に助詞がついて格を示す膠着語、 名詞や代名詞の屈折によって格変化を示すラテン語のような屈折語、中国語のように助詞も屈折も使わず語順で関係をあらわす孤立語の三つに分類されるが、ア イヌ語はエスキモー・アリュート語などとともに抱合語あるいは複総合的(Polysynthetic)言語だという。

巻末の解説編をみると、アイヌ語は日本語のように名詞の後に助詞がついて格を示すのではなく、動詞に人称接辞がついて格関係を示す。       見る(nukar)という動詞について見てみるとつぎのようになる。

 

単数

複数

 

主語

目的語

主語

目的語

1人称

ku=nukar

en=nukar

ci=nukar

un=nukar

2人称

e=nukar

e=nukar

eci=nukar

eci=nukar

3人称

nukar

nukar

nukar

nukar

不定人称

a=nukar

i=nukar

a=nukar

i=nukar

Pon-menoko    hekaci                      nukar.
  娘が(主格) 少年を(目的格) 見る

Toan    hekaci                    en=nukar.
  あの 少年は(主格) 私を(目的格)見た。

Toan   hekaci                     un=nukar.
  あの 少年は(主格) 私たちを(目的格)見た。

Toan    hekaci                    e=nukar.
  あの 少年は(主格) あなたを(目的格)見た。

Toan    hekaci                    eci=nukar.
  あの 少年は(主格) あなたたちを(目的格)見た。

Toan    hekci                       nukar.
  あの 少年は(主格) 彼を(目的格)見た。

Toan     hekaci                   nukar.
  あの 少年は(主格) 彼らを(目的格)見た。

Toan    hekaci                     i=nukar.
  あの 少年は(主格) ある人を(目的格)見た。

Toan    hekaci                     i=nukar.
  あの 少年は(主格) ある人たちを(目的格)見た。

また、自動詞の場合の人称表示についてmina(笑う)で見てみるとつぎのようになる。

 

単数

複数

1人称

ku=mina

mina=as

2人称

e=mina

eci=mina

3人称

Mina

mina

不定人称

mina=an

mina=an

抱合語はシベリア東北部のチュクチ語、アリュシャン列島からカナダに広がるエスキモー・アリュート語、北米インディアンのナバホ語、スー族のダコタ語・アイ オア語、イロコイ語、モホーク語、シャイアン語などがある。ヨーロッパではスペインとフランスの国境で話されているバスク語が抱合語である。フィンランド 語、ハンガリー語も抱合的言語であるという。アフリカ大陸ではバンドウ語があり、北オーストラリアのアボリジニーの諸語も抱合語であるという。

言語の特徴は系統樹だけでは説明できず、近隣の言語からの影響だけでも説明しきれない何かをもっているようである。抱合語は世界中の飛び地に広がっている。 そうなると、人間の言語には名詞と動詞の関係を示す方法にいくつかの普遍的な方法があり、ある言語は接頭辞によって、またある言語は接尾辞によって、また ある言語は動詞に抱合された接辞によって、その関係を示す。またある言語は語順によってその関係を示す。言語にはいくつかの普遍的な文法の型が仕組まれて いて、それぞれの言語はいくつかのパターンのなかから文法の型を選んでいるのではないか、と思われてくる。言語の分布は必ずしも系統によるものではなく、 世界中に同じ類型の言語が分布していることを示唆しているかのようである。

もくじ

☆第40話 地名はことばの遺跡である

★ 第86話 日本語の系統論

☆第87話 日本語とアイヌ語

★第95話 言語の類型

☆第102話 アイヌ語訳の聖書

★第103話 チャモロ語訳の聖書

☆第101話 日本語と近いことば・遠いことば