第14話 天皇のおくり名 昭和43年に埼玉県行田市稲荷山古墳で行なわれた発掘で、武人の被葬者が発見され、副葬品のなかには鉄剣が含まれていた。当時、この鉄剣はサビで覆われてお り、文字の存在はまったく気づかれていなかった。10年後の昭和53年になって、この鉄剣には金象嵌の文字があることが、保存処理中に判明した。その銘文は漢字で書かれているが、解読するとつぎのようなる。 (表)辛亥の年、7月中に記す。ヲワケの臣、その祖先の名はオホヒコ。その子はタカリの宿禰。その子の名はテヨカリワケ。その子の名はタカハシワケ。その子の名はタサキワケ。その子の名はハテヒ。 (裏)その子の名はカサハヨ。その子の名はヲワケの臣。代々、杖刀人の首(おびと)として仕え今に至っている。ワカタケル大王がシキの宮にあるとき、吾は天下を治めるのを補佐した。此の百錬の利刀を作らしめ、吾が仕えてきた 事の由来を記す。 日本人の祖先はなんと不思議な名前をもっていたのであろう。ワカタケルとは雄略天皇のことである。古事記や日本書紀には雄略天皇という天皇がいたかのように書かれてい るが、雄略天皇というのは実は後に贈られて漢風諡号(おくり名)であり、実際にはオホハツセワカタケノ命と呼ばれていた。古事記には大長谷若建命と記さ れ、日本書紀では大泊瀬幼武天皇と記されている。上田正昭は天皇のおくり名が「応神天皇以後の和風の名が、それ以前とは性質を異にする」という注目すべき 指摘をしている。 おくり名や諱(いみな)は、応神天皇以後と以前では異なっている。(A)名の中にイリヒコをつける崇神・垂仁両天皇、(B)名の中にタラシをつける景 行・成務・仲哀の各天皇と神功皇后、(C)応神に始まり履中・反正などの天皇はワケをつける。つまり応神天皇よりワケ系のおくり名が登場してくる。景行・ 神功のタラシが、舒明天皇以後のおくり名を投影したものであることは、すでにこれまでにも指摘されているところである。応神天皇から継体天皇までの和風の 名が、名号としては最も原型に近いものであることも認められてきている。とすれば、応神天皇に始まるワケ系の大王家は、イリヒコ系の大王家とは違った名号 であり、それを断続と見るか連続と見るかは別問題としても、王家の歴史に飛躍があったことは、ほぼ認めてさしつかえないだろう。(『大和朝廷―古代王権の成立―』p.169) 上田正昭はイリヒコとは何か、タラシとは何か、ワケとは何かについては、慎重に言及を避けている。ここでは言語史の立場から、まず(C)ワケについて推論を試みることにする。古代の天皇には「ワケ」という称号をもった天皇が多い。 漢風諡号 和風諡号 日本書紀の表記 開化 ワカヤマトネコヒコオホヒヒ 稚日本根子彦大日日 「ワケ」には「幼」「稚」「別」の文字が用いられていることから、「若い」とか「分家」という意味に解されることが多い。しかし、「ワケ」は古代中国語の「王」に対応することばである可能性がある。中国 語では「王」は王(wang)である。韻尾の[-ng] は、日本の古地名などでは、當麻(たぎま)、相楽(さがら か)、望多(まぐた)、相模(さがみ)などのように、カ行またはガ行で発音される。中国語の王(wang)は古代中国語では王[wak] に近い音であったはずであり、古代日本語「ワケ」は古代の中国語音を継承していると考えることができる。 中国の音韻学者王力は『同源字典』のなかで、中国語韻尾の-kは-ngに転移するとしている。そして読[dok]:誦[ziong]、逆[ngyak]:迎[ngyang]、陟[tiək]:登[təng]、溢[jiek]:盈[jieng]などの対語は同源だとしている。王(wang)もまた、古代中国では王(ワケ)に近い発音であったと考えることはできないだろうか。古代日本の天皇の名前にみられる「ワケ」が王だとすると「ワケ」という名をもった天皇の名前の意味は明快になる。 雄略天皇のおくり名である「オホハツセノワカタケ」は、百済と関係のある名前である可能性がある。「ハツセ」は日本書記では「泊瀬」と表記されている。古代中国語音では「泊」は泊[beak] であり、瀬「せ」は済[tzyei] と通ずる。百済の古代中国語音は百済[peak-tzyei] であり、朝鮮語では百済(paek-je) である。日本語の「泊瀬」は「百済」の「百」の音を「泊」で表わし、「済」を「瀬」で表わしたものである可能性がある。「オオハツセノワカタケ」は「百済の王・武」ということになり、百済の官位をもって いたものと解釈できる。 それでは次に「イリヒコ」と「タラシ」とは何だろうか。古代の天皇で「イリヒコ」あるいは「タラシ」のおくり名をもった天皇は次のとおりである。 イリヒコ 漢風諡号 和風諡号 タラシ 漢風諡号 和風諡号 古事記歌謡にミマキイリビコを詠んだ歌がある。 美麻紀伊理毘古はや 美麻紀伊理毘古はや この歌は、大彦の命が越の国に行ったとき、山代の幣羅(へら)坂で、少女が歌ったものとされている。これと似た歌が日本書紀にもある。 瀰磨紀異利寐胡はや 日本書紀の伝承は、古事記とは少し違っていて、大彦の命が和珥(わに)坂にさしかかったときに、少女が歌ったものだとしている。「イリヒコ」あるいは「イリ ビコ」とは何だろうか。「ヒコ」は「日子」つまり天子である。これは中国語の「天子」にあたる。古代中国では、王と天子は同義語であり、天子とは仁徳をそ なえた天の子として世を統治する王である。 「日」朝鮮漢字音は日(il) 、つまり「イリ」である。朝鮮語では中国語の「日」の語頭音[nj-]は規則的に失われる。また、語尾の[-t]は規則的に[-l]になる。「イリ・ヒコ」の「イリ」は「日」の朝鮮語読みでである。また、朝鮮語では「日」は日(hae) で ある。朝鮮語では中国語からの借用語と朝鮮語語源のことばを重ねる習慣がある。これを両点という。「日」は両点で読むと、「日」の朝鮮漢字音日(il) と、朝鮮語の訓日(hae)を重ねて、「イル・ヒ」あるいは「イリ・ヒ」となる。単に「日子」というべきところを、「イリ・ヒ・コ」と重ねて、音と義を明らかにしようとしている。「イリ(日の朝鮮漢字音)・ヒ(朝鮮語の訓)・コ(子)」である。「ミマキイリビコイニヱ」は「ミマキ日子イニヱ」と解読できる。「ミマキ」の「キ」は百済語で「城」を意味する。李基文は『韓国語の歴史』(p.48)のなかで、次のように述べている。 百済語には新羅語や中世語で発見することのできない、特異な単語のあることもわかる。百済語で「城」を意味する語が*ki(己只)」であったことは確実である。例。悦城県ハ本百済ノ悦己県、儒城県ハ本百済ノ奴只県、潔城県ハ本百済ノ結己郡。この語は新羅語にも高句麗語にも見ることのできないものである。古代日本語の*ki(城・柵)はこの百済語の借用だと考えられる。(『韓国語の歴史』p.48) ここまで解読が進むと、「ミマキイリビコイニヱ」は「ミマ城の日子イニヱ」と解釈することができる。「ミマ」は「任那」と関係があるとことばであろう。「ミマナ」の「ナ」は「国」だから、「任那国の 城の天子イニヱ」となる。 「タラシ」は古事記では「帯」、日本書紀では「足」と表記されている。「帯」の古代中国語音は帯[tat] で ある。中国語の韻尾[-t] は朝鮮語では規則的にlに変化するから、帯[tat] の朝鮮漢字音は帯(tal) になる。高句麗の高位の官名に大対盧、対盧などがあり、百済では「達率」として受け継がれている。「タラシ」は高句麗の官位「対盧」あるいは百済の官位「達」と関係がある。 日本書紀で「タラシ」が「足」と表記されているのは、朝鮮語で「足」のことを足(ta-ri)というからである。日本語の「タラ・シ」は朝鮮語の足「たる」と日本語の足「あし」の両点である。かくして、「タラシ」は高句麗の官位「対盧」、あるいは百済の官位「達」にあやかった称号であることが判 明する。 これによってただちに、「ワケ」は楽浪、帯方郡などの中国系、「イリヒコ」は百済系、「タラシ」は高句麗系、などと分類すること拙速である。事実、景行天皇のように「オホ・タラシ・ヒ コ・オシロ・ワケ」などのように、いくつもの称号をもっている天皇もある。しかし、日本の古代の支配階層が朝鮮半島と深いつながりもち、中国、高句麗、百済などの尊称をもっていたことは確かであろう。 |
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