第39話 飛鳥時代の日本語

  日本には金石文の記録は多くはない。しかし、飛鳥時代になると漢字によって記録された日本語はかなり多くなる。推古遺文と呼ばれるものである。推古天皇の 時代(593年~)から持統天皇の時代(~697年)までの約100年間である。この時代の金石文には伊予道後温泉碑文、法隆寺金堂薬師光背銘、元興寺丈 六光背銘などがある。

 飛鳥字時代の金石文には『伊予国風土記』逸文には聖徳太子が法興6年(596年)伊予の温泉の湯元をみて碑文を作られたという記録が残されている。碑は現存していないが、碑文は『伊予国風土記』逸文に伝えられている。

惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異于寿国。隋華台而開合、沐神井而療瘳疹。詎舛落花池而化羽。窺望山岳之厳崿、反冀平子之能往。

  聖徳太子の憲法が漢文で書かれているように、この碑文も漢文である。話し言葉としてのやまとことばはあったにしても、文章は漢文で書いた時代である。しかも、中国の故事に思いをはせるなど、発想も漢字文化圏のなかにある。この文章を日本語にすれば、およそ次のようになる。

  それ、日月は天上から光を降り注ぎ、万物にたいして分けへだてがない。神聖な温泉も地下からわき出て絶えることがない。政治はこのようにこそあるべきであ る。万民もみななびく。万民が分け偏てなく恩恵にあずかれば天寿国と何らかわることがない。花が咲きまた散るように温泉は湧き出し病を治す。この花が降り 注ぐ温泉池をさしおいて天上にはばたくことなどできようか。眺望は厳しい山岳に及び、かの後漢の張平子が驪山に出かけた故事のように、足しげく通うことを 願うものである。

 これに対して法隆寺薬師仏造像記は日本語の語順に従って漢字で書かれている。

  池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病平欲坐故将造寺薬師像作奉詔然當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

 これを日本語に読み下すと次のようになる。

  池辺(いけのべ)の大宮に天下治(あめのしたしろ)しめしし天皇、大御身労(や)み賜ひし時、歳(とし)丙午(ひのえうま)に次(やど)る年に大王天皇と 太子とを召して、誓ひ願ひ賜はく、我が大御病、太平に坐(いま)さむと欲(おも)ほすが故に、寺を造り薬師の像を作り仕(つか)へ奉(まつ)らむと詔(の たま)ひき。然ありども、当時、崩(かく)り賜ひて造り堪(あ)へざりければ、小治田(おはりた)の大宮に天下治しめし大王天皇と東宮聖王と大命受け賜は りて歳丁卯に次る年に仕へ奉りつ。

 元興寺尺迦丈六像光背造像記は、実物は存在しないが、記文のみが伝えられている。元興寺塔露盤銘をみると漢字音は呉音にも漢音にも当てはまらないものが多く含まれている。 

   大和国天皇斯 帰斯麻(しきしま)宮治天下、名阿米久爾意斯波羅支比里爾波弥己等(あめくにおしはらきひろにはみこと)世、奉仕巷宜(そが)名伊那米(いなめ)大臣時、 百済国正明王上啓云、萬法之中佛法最上也。是以天皇并大臣聞食之、宜善哉、則受佛法造立倭国。然天皇大臣等受報業尽。故天皇之女、佐久羅韋等由良(さくら ゐとゆら)宮治天下、名等已弥居加斯支夜比弥之弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)及甥名有麻移刀等已刀弥々乃弥己等(うまやとことみみのみこと) 時、奉仕巷宜名有麻子(そがうまこ)大臣爲領、及諸臣等讃云、魏々乎、善哉善哉、造立佛法、父天皇父大臣也。(「元興寺塔露盤銘」の部分。『元興寺縁起』所収)

 この銘文はつぎのように解読できる。

  大和の国の天皇(すめらみこと)、シキシマの宮に天の下治(しろ)しめしし、名はアメクニオシハラキヒロニハのミコトの世に、奉仕(つかへまつり)しソガ の名はイナメの大臣(おほまへつきみ)の時、百済の国の正明王が上啓(まをしぶみ)に云(まをさ)く、萬の法(のり)の中に佛の法最上也(すぐれたるな り)。是を以(もて)天皇と大臣と并(とも)に聞こし食(め)して、之の善哉(よきかな)と宣(のり)、則て佛の法を受けて倭の国に造立(はじめ)き。然 (しか)はあれど天皇と大臣と等(とも)に報(むくい)の業を受けて尽(はて)き。故れ天皇の女(ひめみこ)サクラヰのトユラの宮に天下治(しろしめ) す、名はトヨミケカシキヤヒミのミコトの甥名はウマヤトのトヨトミミのミコトの時、奉仕しソガの名はウマコの大臣を領(かみ)と為(し)て、諸の臣(まへ つきみ)等(たち)及(と)讃(たたへ)て云く、魏魏乎(かたきかもかたきかも)、善哉善哉(よきかもよきかも)、立佛の法造(つくりはじめ)し父の天皇 父の大臣也。

 この例文だけでも、現代の日本漢字音では読めない、推古遺文特有の漢字音をいくつか使われている。米(め)、久(く)、爾(に)、弥(み)、有(う)は呉音に近い。しかし、次の漢字の読み方はどう説明すればいいのだろうか。

  意(お)、支(き)、里(ろ)、巷(そ)、宜(が)、良(ら)、已(よ)、弥(み・め)、
  居(け)、移(や)、

 これらの漢字の古代中国語音は次のように再構できる。

  意[iə]、 支[tjie/gie]、 里[liə]、 巷[heong] [ngiai] 、 良[liang]、 已[jiə]、 弥[miai]、 居[kia]、 移[jiai]

現代の日本漢字音でイ段で発音される漢字がア段やオ段で発音されているものが多い。意(イ)、里(リ)、宜(ギ)、良(リョウ)、弥(ミ)、居(キョ)などである。中国漢字音では、子音と母音を結ぶわたり音(i介音)は隋唐の時代以降に発達してきたものだとされている。飛鳥時代の日本漢字音はわたり音が発達する以前の古い中国語音を反映している可能性がある。わたり音(i介音)が弱かったとすれば、これらの漢字は意[ə](お)、里[lə](ろ)、宜[ngai](が)、良[lang](ら)、弥[mai](め)、居[ka](け)と聞こえたとしても不思議はない。

言語学者の大矢透は大矢透は『假名の研究』のなかで次のようにのべている。

押を意斯、廣庭を比里爾波、蘇我を巷宜、、、これ等の音に対しては、従来学者の説なきにはあらざしも、わずかに漢呉音の転用ならずば、古韓音なるべしとなして、やめるのみなりき。
詩経において多宜は同声母なるが故に、一韻となれりとするときは、我が国における仮名の中に移侈ありて、これを普通の仮名のごとく、漢呉音のイシと呼ば で、ヤタにあたるものは宜と同じく多を声母とせるによるもののごとし。かくて我が古仮名の音の、周代古韻と一致せるにはまず胸おどりぬ。

 『假名の研究』は大正12年に学位論文として京都大学に提出されたものである。大矢透は推古遺文の漢字音が隋唐の時代の中国漢字音を規範とした漢音・呉音とずれているのは、周の時代の漢字音に依拠しているからだと考えた。

わが国の数少ない金石文のなかで仏足跡歌碑にも注目しなければならない。時代は少しくだって天平勝宝5年(753年)の完成とされているが、21首の和歌が万葉仮名で刻まれている。いくつか例をあげると、次のごとくである。

美阿止都久留 伊志之比鼻伎波 阿米爾伊多利 都知佐閉由須禮 知々波々賀多米爾
 毛呂比止乃多米爾

御足跡(みあと)作る 石の響きは 天(あめ)に到り 地さへ揺すれ 父母がために
 諸人のために
(第1歌)

彌蘇知阿麻利 布多都乃加多知 夜蘇久佐等 曾太禮留比止乃 布美志阿止々己呂
 麻禮爾母阿留可毛

三十余り 二つの相(かたち) 八十種(やそぐさ)と 備(そだ)れる人の
 踏みし足跡どころ 稀にもあるかも
(第2歌)

與伎比止乃 麻佐米爾美祁牟 美阿止須良乎 和禮波衣美須弖 伊波爾恵利都久 多麻爾恵利都久

善き人の 正夢(まさめ)に見けむ 御足跡すらを 我はえ見ずて 石に彫(え)りつく
 玉に彫りつく
(第3歌)

己乃美阿止乎 多豆禰毛止米弖 與伎比止乃 伊麻須久爾々波 和禮毛麻胃弖牟 毛呂毛呂乎為弖

この御足跡を 尋ね求めて 善き人の 在す国には 我も参てむ 諸々を率(ゐ)て(第8歌)

ここでは止(シ)が止(と)に用いられているのが注目される。中国の音韻学者である王力の『詩経韻読』によると止[tjiə]は次のように押韻している。注:( )内の数字は詩経の詩の通しナンバー。

[tsiə](14)、 歯[thjiə]、 俟[zhiə](52)、 杞[khiə]、 母[mə](162)、 騏[giə](178)、 海[xə]、 友[hiuə](183)
[dzhiə](185)、 否[piuə](195)、 梓[tziə]、 裏[liə]、 在[dzə](197)、 起[khiə](202)、 畝[mə]、 耔[tziə]
[ngiə]、 喜[xiə]、 右[hiuə]、 有[hiuə](211)、 理[liə]、 事[dzhiə](237)、 使[shiə](252)、 晦[xuə](255)
[xuə](256)、 之[tjiə]、 思[siə]、 哉[tzə]、 玆[tziə](288)、 里[liə]

現 在の音で読むと韻を踏まない文字が多く使われているのは、後代に語音が変化をおこしたためである。母(ボ)、海(カイ)、在(ザイ)、哉(サイ)、右(ユ ウ)、有(ユウ)などは現在では止(シ)と韻を踏むようには思えないが詩経の時代には同じ韻であった。「止」と「母」は同じ韻であった。母、海、晦、悔、 畝など母を声符とする文字はすべて韻が同じである。詩経のなかで声符号が母の文字と押韻している文字を探してみると次のようになる。

[mə]、 有[hiuə](71)、 晦[xuə]、 已[jiə]、 子[tziə]、 喜[xiə](90)、 畝[mə]、 母[mə](101)、 鉧[muə]
[tsə](103)、 梅[muə]、 裘[giuə][tzə](130)、 梅[muə]、 絲[siə]、 騏[giə](152)、 杞[khiə]、 母[mə](169)[khiə]、 李[liə]、 母[mə]、 已[jiə](172)、 梅[muə]、 尤[hiuə](204)、 杞[khiə]、 子[tziə]、 事[dzhiə]
[mə](205)、 誨[xuə]、 載[tzə](230)、 母[mə]、 婦[biuə](240)、 悔[xuə]、 祉[thiə]、 子[tziə](241)、 玆[tziə]、 饎[thjiə]、 子[tziə]、 母[mə](251)、 理[liə]、 海[xə](262)、 誨[xuə]、 寺[ziə](264)、 喜[xiə]、 母[mə]
[dzhiə]、 有[hiuə]、 祉[thjiə]、 歯[thjiə](300)

こ れらの文字が「止」と同じ母音要素をもっていたことになる。同じように址、沚、祉、耻など止を声母とする文字はすべて韻が同じである。このような作業を繰 り返すことによって、はじめて古代中国における「止」の音価を再構できる。推古遺文における止(と)は古代中国語音の痕跡を留めている。「止」の訓とされ ている止(とまる)もまた、古代中国語音と関係のあることばである可能性がある。

もくじ

☆第32話 マンモスハンターのことば

★第33話 縄文時代の日本語

☆第34話 稲作文化の伝来と日本語

★第35話 弥生時代の日本語

☆第36話 金印の国「奴国」とは何か

★第38話 古墳時代の日本語