第49話 文選読みの話

朝鮮語では中国語からの借用語について、音訓併用で読むことがよく行われる。これを両点という。朝鮮語研究の第一人者である小倉進平(1882-1944)は、「國語及朝鮮語のために」のなかで、つぎのように書いている。

朝鮮語では訓と音とを必ず併唱する。例へば国語で「人」、「犬」なる漢字を讀む場合には「人」は「ひ とという字」、「犬」は「いぬという字」と訓でこそいふが、更に進んで之を「ひとじんの字」、「いぬけんの字」というふ風に唱へることをしない。然るに朝鮮語にありては、「人」なる漢字を讀む場合には、必ず (sa-ram-in)、 犬なる漢字を讀む場合には、必ず (kae-kyeon) と訓音併唱することを必要條件とするのである。(『小倉進平博士著作集(四)』p.105)注:ハングル表記の部分はローマ字に書き換えた。

 古代の日本語でも二ヶ国語を併記したことばが見られる。例えば「わたつみの」は、海にかかる枕詞として万葉集などに使われているが両点である。「わた」は朝鮮語で海(pa-da) であり、「み」は日本語の海「うみ」である。「つ」は「沖波」、「庭鳥」などの「つ」で、現代日本語では「の」にあたる。また、古代の天皇の名前にみられる「イリヒコ」「タラシ」なども、「イリ(「日」の朝鮮漢字音il)+ヒ(朝鮮語の日haeあるいは日本語の日「ヒ」)+子、「タリ(朝鮮語の足tari)+アシ(日本語の「足」)であり、二か国語併記といえる。両点・二か国語併記は古代日本語を解く一つの鍵になる。

わたつみの 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清明くこそ(万15)
 御間城(みまき)入彦はや おのが命(を)を 死せむと 竊(ぬす)まく知らに 
姫遊びすも   (日本書紀歌謡)

言語学者、金沢庄三郎(1872-1967)によると、朝鮮では今日でも「天」は「ハナル・チョン」、「地」は「ストウ・タ」というように、両点で読んでいるという。「ハナル」は朝鮮語の訓で天(ha-nal) であり、「チョン」は「天」の朝鮮漢字音、天(chyeon) である。「スト」は朝鮮語の「地」の訓で地(stu) であり、「タ」は朝鮮漢字音地(ta) である。金沢庄三郎は「朝鮮研究と日本書紀」(p.49)のなかで、つぎのように述べている。

漢字を音読する場合にも、昔は和訓を添へて読む風習があって、これを両点と称へた。仮名文字遣に「青簇せいぞくとあをやかなり」遊仙窟に歎郷関之眇邈(ベウベクトはるかなる)、また博陵王之苗裔(ベウエイはつまごの)慶長九年刊千字文に福縁善慶(ヒョクエンノゼンケイさいはひによつてよくよろこぶ)などの類で(中略)朝鮮では、今日もなほ天を (ha-nalchyeon) 、 地を (stəji) と両点に訓んでゐるのは周知の事実である。(『日韓古地名の研究』p.49)注:ハングル表記の部分はローマ字表記に書き換えた。

 古代日本語を 復元し解読するためには、古代の中国語音に基づくばかりでなく、朝鮮半島における漢字による書記法の発達をも考慮に入れなければならない。古代日本語の書 記者、史(ふひと)は朝鮮半島の出身者であり、朝鮮半島における漢字の用法を日本語の表記に応用した蓋然性が高いからである。日本でも漢文を読むのに、文 選読みという読み方が江戸時代まで行われていた。漢文を中国語の発音で読んで、続けて日本語の訓をつけ加えるというものである。音読みだけでは理解できな い中国語に、訓を加えることによって、日本語として理解しやすくしようという試みである。例えば『詩経』の詩は、つぎのように読む。

  關々睢鳩   関々(カンカン)として鳴く睢鳩(ショウキュウ)のみさごは
 在河之洲   河の洲(しま)にあり
 窈窕淑女   窈窕(ヨウチョウ)と静かに正しき淑女の乙女は
 君子好逑   君子うま人のよき連れ合いなり

「睢 鳩(ショウキュウ)=みさご」、「窈窕(ヨウチョウ)=静かに正しき」、「淑女=乙女」、「君子=うま人」はいずれも両点・2ヶ国語併記である。漢詩の読 み下しは日本語に翻訳することでもあった。中国語音による音読に、日本語の訓を併記して、その音と義の両方を表わすこの方法は、朝鮮語における両点と同じ である。つぎのような例も、両点の手法である。

八島國 妻枕(ま)きかねて 春日(はるひ)の 春日(かすが)の國に  麗(くは)し女(め)を ありとし聞きて 宜(よろ)し女を ありと聞きて 真木(まき)さく 檜の板戸を 押し開き 我入り坐(ま)し 後(あと)取り  端(つま)取りして 枕取り 端(つま)取りて 妹が手を 我に枕(ま)かしめ 我が手をば 妹に枕かしめ 真木葛(まさきづら) 手抱(たた)き交 (あざ)はり 鹿(しし)くしろ 熟睡寝(うまいね)し間(と)に 庭つ鳥 鶏(かけ)は鳴くなり 野つ鳥 雉(きぎし)は響(とよ)む 愛(は)しけく も いまだ言はずて 明けにけり 我妹
(日本書紀歌謡)

飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を 置きていなば 君が辺(あたり)は 見えずかもあらむ
(万78)

こ れらはいずれも文選読みの一種である。日本語も朝鮮語も、語彙は中国語からの借用がきわめて多く、実態上混合言語である。借用語について音と訓を併記し て、その音と意味が間違いなく伝えられるように工夫したのが両点である。現代の日本語でも、英語と日本語を併記している例がみられる。シテイバンク銀行、 ロングアイランド島などは現代における両点といえるだろう。また、センソウジ・テンプル、ゾウジョウジ・テンプル、タマガワ・リバー、エドガワ・リバーな ども2ヶ国語併記の例である。

 中国語は古代の東アジアにおいて文字をもった唯一の言語であり、朝鮮語や日本語にたいして優勢言語であった。日本語や朝鮮語は中国語の語彙を数多く借用した。非優勢言語の話者は通常、優勢言語をいくぶん知っている。そこで両点という二か国語併記の方法も工夫された。

文 字は通常、大規模に組織化された政治的、宗教的集団によって使われはじめる。大和朝廷が成立すると、王の英雄的行為の記録が現れた。それが『古事記』であ り、『日本書紀』である。また、朝廷はその社会に伝えられた口承説話、詩、歌を漢字で記録した。それが『万葉集』、『風土記』などとして今日に伝えられて いる。日本語専用の文字である仮名ができるのは、平安時代のことである。それまでの日本語は中国語を表記するための文字である漢字のなかに埋もれている。

漢 文で書かれた『日本書紀』のような文献は、中国語の知識さえあれば、読みこなすことができる。しかし、漢字を使って土語である朝鮮語や日本語を書き記した 文献は、周到な解読技術を駆使しない限り、読み解くことは不可能である。『古事記』は漢字を使って書いた日本文であり、『万葉集』はいわゆる万葉仮名を駆 使して書いた日本語である。漢字という文字にはじめて接した古代の朝鮮人や日本人は、どうしたら漢字を使って自分たちのことばを表記できるか、さまざまな 試行錯誤を重ねた。「文選」読みはその努力の痕跡を今に伝えている。

もくじ

☆第46話 ソウル街角ウオッチング

★第47話 朝鮮漢字音の特色

☆第48話 朝鮮半島の漢字文化

★第50話 日本語のなかの朝鮮語

☆第51話 現代中国語と韓国・朝鮮語

★第52話 北京音・朝鮮語音・日本漢字音