第12話 邪馬台国は「やまと」である。 日本には3世紀の日本語の記録はない。しかし、中国の文献である『魏志倭人伝』に日本に関する記述があることばよく知られている。『魏志倭人伝』は晋の陳寿(233-297)の選んだ『三国志』のひとつで、日本は邪馬台国として登場する。邪馬台国は中国から見て僻遠の地であった。『魏志』巻30東夷伝のなかの国々には夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、馬韓、辰韓、弁韓、など が続き、ようやく倭人の条にいたる。 倭人は帯方郡(現在のソウル付近)の東南大海の中にあり、帯方郡より倭に至るには海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍 (あるい)は東し、倭の北岸狗邪(くや)韓国に到る。そこまでが七千里。はじめて一つの海を度(わた)る。その距離は千余里。対馬に至る。さらに澣海と呼 ばれる一つの海を千余里行くと一支(いき)国に至る。また一つの海を渡り千余里で末盧国に至る。東南に陸路を五百里行くと伊都(いと)国に到る。世々王あ るも、皆女王の国に統属す。帯方郡からの使が往き来する場合常に駐(とど)まる所である。東南の奴国までは百里。東に進んで不弥(ふみ)国まで行くには百 里。南の投馬(とうま)国までは水路で二十日かかる。南の邪馬台国に至る。女王が都する所で水路十日陸路一月かかる。 『魏志倭人伝』から約500年を経た、8世紀の日本で「邪馬台国」に似た「夜摩苔」という国名が記録されている。古事記、日本書紀にはそれぞれ約120首の歌謡が記録されているが、そのなかにつぎの歌が 含まれている。 やまとは 国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる やまとし美し この歌で「やまと」は、日本書紀では「夜摩苔」と表記されている。 夜摩苔波 區珥能摩保邏摩 多多儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之 于漏破試 『魏志倭人伝』では「邪馬台国」を「やまたい」と読み慣わし、『日本書紀』では「夜摩苔」を「やまと」と読むのが通例となっている。古代中国語音で邪馬台[jya-mea-də]であり、『日本書紀』が依拠している唐代の漢字音では「夜摩苔」は夜摩苔/jya-muai-də/である。(古代中国語音をあらわすのには[ ]を用い、唐代の中国語音をあらわすのには/ /を用いる。) 古代の日本語にはいくつかの特色があったことが知られている。古代の日本語では二重母音を避ける傾向がある。例えば、万葉集などでは「我妹」を「わぎも」と読み、「我家」を「わぎへ」とする。古代の日本
語には邪馬台「やまたい」のような二重母音はなかったものと思われる。
また、奈良時代までの日本語にはオ段の音が二種類区別されていたことが知られている。例えば、日本書紀の歌謡では「と(甲)」と「と(乙)」には、つぎのような漢字が使い分けられている。 と(甲)
斗、度、妬、図、渡、徒、杜、刀、都 夜摩苔の「苔」は日本語の「と(乙)」または「ど(乙)」を表わすためにのみ用いられていて、「と(甲)」に用いられことはない。『日本書紀』歌謡で用いられている漢字の隋唐の時代の漢字音は、つぎのように推定されている。
等/təng/、
謄/dəng/、
登/təng/、
鄧/təng/、
縢/dəng/、
藤/dəng/、
苔/də/、
廼/nə/、
耐/nə/、 日本語の「と(乙)」または「ど(乙)」には、中国語音の[-əng]または[-ə]が当てられていることがわかる。「と(甲)」または「ど(甲)」には、まったく違う漢字が当てられている。
斗/to/、
刀/tô/、
妬/ta/、
都/ta/、
度/da/、
図/da/、
渡/da/、
徒/da/、
杜/da/、
怒/na/、
奴 『随書倭国伝』では「倭国は邪靡堆に都す、即ち『魏志』のいわゆる邪馬台なる者なり。」という記述がある。『隋書』の「邪靡堆」は『魏志』の「邪馬台」にあたるというのである。しかも、「邪靡堆」は都
の名である。「邪靡堆」の古代中国語音は邪靡堆[jya-muai-tuə] であり、『魏志倭人伝』の邪馬台[jya-mea-də]と近い。文脈のうえからも「倭国はやまとに都す」とすべきであろう。『随書倭国伝』の「邪靡堆」を「やまと」と読むとすれば、『魏志倭人伝』の「邪馬台」も「やまと」であり、『日本書紀』の「夜摩苔」と同じ「やまと」を指していると考えるのが自然である。 しかし、わが国では伝統的に漢学者は「邪馬台国」を「ヤマタイ」と現代の日本漢字音で読み慣わし、国学者は日本書紀の「夜摩苔」を「やまと」と読み慣わしていて、「やまと」と「ヤマタイ」は別物のごとく
考えられている。 邪馬台国が九州にあったか、大和盆地にあったかについては、歴史学者の間でも議論がつきない。最近は邪馬台国九州説のほうが優勢のようだが、言語学的にはどうであろうか。『魏志倭人伝』では邪馬台国へは
投馬国から入る、とある。投馬の古代中国語音は投馬[do-mea]である。これは記紀歌謡にみえる當麻(たぎま)である可能性がある。當麻の古代中国語音は當麻[tang-mea]であり、発音がきわめて近い。
大坂に 会ふや乙女を 道問へば ただには告(の)らず 當藝麻(たぎま)路を告る 古事記では當藝麻となっているが、和名抄では當麻(たいま)となっている。この歌は履中天皇の歌で、天皇が大阪から大和に向かう途中で少女に会い、少女が「兵器をもっ
たものどもが数多く山にたてこもっているから、當藝麻路を廻っておいでくださいまし」と云ったのを聞いて天皇は難を免れた、と前書きにある。當麻は大阪か
ら大和へ向かう道筋にあたる。まさに邪馬台国への入口である。 |
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