第37話 魏志倭人伝の日本語 日本には3世紀の日本語の記録はない。しかし、3世紀になると、中国の文献に日本に関する記述があらわれるようになる。『魏志倭人伝』は晋の陳寿(233 -297)の選んだ『三国志』のひとつで、日本の地名や日本人の名前が、漢字で表記されている。『魏志倭人伝』によって弥生時代の日本語のかたちを垣間見 ることができる。三国志の『魏志』巻30は烏丸伝、鮮卑伝、東夷伝の三部構成になっていて、3世紀当時中国の東北部にあった異民族の国家を列挙している。 「東夷伝」の冒頭の部分は次のような書き出しになっている。 『尚書』(禹貢篇)に は次のような記述がみられる。「東の海に入るまで、西は流沙に及ぶまでの地域に、中国の教化が広がった」中国の教化が広がった地域については、しっかりと した根拠に基づいて書くことができる。しかし、九州(中国の支配地域)からさらに彼方の地域については、そこからの使者が幾度も通訳を重ねて中国にやって くることはあっても、中国人の足跡や馬車の轍はそこに及ばず、その国々の民衆の生活、土地のありさまについて知る者はなかった。 邪馬台国は中国から見て僻遠の地であった。『魏志』巻30東夷伝のなかの国々には夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、馬韓、辰韓、弁韓、などが続き、ようやく倭人の条にいたる。 倭人は帯方郡(現在のソウル付近)の東南大海の中にあり、帯方郡より倭に至るには海岸に循(したが)って水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍 (あるい)は東し、倭の北岸狗邪(くや)韓国に到る。そこまでが七千里。はじめて一つの海を度(わた)る。その距離は千余里。対馬に至る。さらに澣海と呼 ばれる一つの海を千余里行くと一支(いき)国に至る。また一つの海を渡り千余里で末盧国に至る。東南に陸路を五百里行くと伊都(いと)国に到る。世々王あ るも、皆女王の国に統属す。帯方郡からの使が往き来する場合常に駐(とど)まる所である。東南の奴国までは百里。東に進ん不弥(ふみ)国まで行くには百 里。南の投馬(とうま)国までは水路で二十日かかる。南の邪馬台国に至る。女王が都する所で水路十日陸路一月かかる。 魏志倭人伝の 倭人の条には地名あるいは国名が31、官名14、人名8が記録されている。対馬(つしま)、一支(いき)、末盧(まつろ)、伊都(いと)、奴(な)、不弥 (ふみ)、投馬(とうま)、邪馬台(やまたい)が倭人の住んでいる国である。対馬、一支は現代の対馬、壱岐である。末盧は肥前松浦郡、現在の唐津の付近に 比定される。 『魏志倭人伝』の時代から約500年を経て、日本で編纂された『古事記』には末羅、『日本書紀』には松浦として登場する。『万葉集』には麻都良我多、麻都 良河波、松浦乃宇美、松浦船などとして出てくる古代の交通の要衝である。 松浦県(まつらがた) 佐用比賣(さよひめ)の子が 領布(ひれ)振りし 山の名のみや 二番目の歌は万葉集巻15にある歌で、「天平8年丙子夏6月、使を新羅に遣はしし時、使人等各別を悲しみて贈りて答へる、また海路の上に旅を慟み思を陳べて作れる歌、また所に當りて誦詠へる古き歌」という詞書がある。松浦は当時新羅や中国へ船出する港であった。 伊都は怡土郡、今の糸島郡のあたりであろうとされている。奴は一般に儺県、那津、今の那珂郡博多のあたりとされている。不弥(ふみ) の「弥」は卑弥呼(ひみこ)などと同じく、古くは弥(み)と読む。 場所は特定できない「弥」は呉音が弥(ミ)、漢音が弥(ビ)とされている。「弥」の尓は爾で中国語音韻学でいう日母であり、音価は爾[njiai]である。尓は尓[miai]が口蓋化して爾[njiai]になったものであろう。任那(みまな)、壬生(みぶ)などではマ行であらわれ、弥生(やよい)、弥太郎(やたろう)などではヤ行であらわれる。中国語の日母は朝鮮語では頭子音が規則的に脱落して日本(il-bon)、仁川(in-cheon)などとしてあらわれる。「弥」を弥(ヤ)と読みならわすのは朝鮮漢字音を継承したものであろう。 投
馬国については定説がない。投馬国は現代の日本漢字音では投馬国(とうまこく)と読んでいるが、当麻国(たぎまこく)に相当する可能性がある。日本の古地
名では相模(さがみ)、相楽(さがらか)、香山(かぐやま)、伊香(いかご)、望多(まぐた)などのように、現代日本語でウ音便であらわれるところがガ行
であらわれることが多い。古代中国漢字音の韻尾[-ng]は調音の位置が[-k]と同じであり、日本語のカ行音に近かった。 『魏 志倭人伝』のなかに漢字で表記されている日本の人名や地名を正しく読み取り、3世紀の日本語を復元するためには、3世紀の中国語音を再構成できなければな らない。しかし、漢字は象形文字であるため、時代とともにその読み方が変わっても、その痕跡を文字のうえに残してくれない。 随唐の時代の漢字がどのように発音されていたかについては、かなり研究が進んでいる。唐代には杜甫、李白などの漢詩が多く作られた。漢詩は韻を踏んでいる から、その韻を調べていけば、どの漢字がどの漢字と押韻していたかが分かる。また、漢字は象形文字として出発したが、音を表わす声符をもったものが多い。 声符の一致する文字は、ある時代に同じ発音であったことが推測される。たとえば、「江」は声符が「工」であり、「河」の声符は「可」であるから、「江」は 「工」と同じ発音であり、「河」は「可」と同じ発音であることが知られる。しかし、3世紀の中国語音を復元するのは、唐代の中国語音を再構築するよりは困 難である。時代を遡るにしたがって、残されている文字資料が限られてくるばかりでなく、その音価を復元するために必要な、押韻などの事例が少ない。 唐 代以前にも漢詩は残されていて、たとえば紀元前600年ころに成立した『詩経』の韻は、唐詩の韻とはかなり違っていることが知られている。唐代の音で読ん で韻を踏まない文字が『詩経』では脚韻字として使われていることがある。そこで、『詩経』などの韻を調べてみることによって、唐代以前の漢字音について も、その音価を推定することができる。王力、董同龢などの学者が古代中国漢字音の音価を推定している。しかし、随唐の時代以前になると学者によってかなり 復元された音が違う場合がある。 王 力は中国の学者であり、『詩経』の押韻を研究して、『詩経韻読』、『同源字典』などを著わした。王力の古代中国語音は、白川静の『字通』にも載録されてい るので、日本でも簡便に参照することができる。王力によると、『魏志倭人伝』に出てくる日本の地名の古代中国語音は、つぎのように復元できる。 倭人[iuai-njien]、
邪馬台[zya-mea-də]、
対馬[tuət-mea]、
一支[iet-gie]、
末盧[muat-la]、
伊都[iei-ta]、 中 国語の音韻体系は日本語と違うので、中国語の発音をそのまま古代の日本語にあてはめることはできない。また、王力の古代中国語音は、紀元前600年ころに 成立した『詩経』の韻をもとに復元されているので、『魏志倭人伝』の時代である3世紀の中国語音とは異なっている部分もあることを、前提としなければなら ない。そのうえ、朝鮮半島や日本などの地名や人名は、朝鮮語音の影響を考慮しなければならないので、復元はさらに困難になる。 ○「邪馬台国」 王力によれば邪馬台国の古代中国語音は邪馬台国[zya-mea-də]国である。王力の 『同源字典』(p.161)をみると、邪[zya] は耶[jya]と同源であり、與[jia]と声が近いという。「邪」 には「耶」の音もあるので、邪馬台国[jya-mea-də]と読むこともできる。邪の朝鮮漢字音は邪 (sa/ja)であり、邪を邪(や)と読むのは朝鮮ご読みであるということもできる。中国語ではサ行 の頭音がi介音の前で脱落することが、しばしばある。たとえば、つぎのような漢 字は同じ声 符をもっていながら、一方はサ行で発音し、他方はヤ行で発音する。 詳[ziang]・ 羊[jiang]、 俗[ziok]・ 欲[jiok]、 誦[ziong]・ 甬[jiong]、 舒[sjia]・ 予[jia]、 説・悦、船・沿などもサ行頭音が脱落した例といえる。サ行の頭音の次にi介 音(わたり音)が くるとき頭音が失われる、という法則性が認められる。したがって、邪馬台国は「やまだ」ある いは「やまと」に限りなく近い。日本書紀 歌謡には「やまとは 国のまほろば たたなづく 青 垣山籠れる やまとし うるわし」の「やまと」に「夜摩苔」の漢字があてられている。魏志 倭人伝の 「邪馬台」も「やまと」を漢字で表記したものであろう。 古代音の復元はかなり専門的な分野にならざるをえないが、台湾の言語学者董同龢は『上古音韻表稿』のなかで旨、耆、赤、郝、示、祁などの上古音は旨[k-]、耆[k’-]、赤[g-]、郝[c-]、示[c’-]、祁[j-]であったのではないかとしている。一支は一支[iet-tjie]ではなく、一支[iet-gie]と再構される。確かに稲荷山鉄剣の銘は獲加多支鹵(ワカタケル)とあり、支は支(ケ)とカ行で読まれている。 投馬国についても董同龢は投[d’ûg]と復元している。日本の古地名でも相模(さがみ)、香山(かぐやま)、望多(まぐた)、楊生(やぎふ)、當麻(たぎま)など現在ではウ音便で発音している文字が[-g]であらわれる例は多い。投が投げ(とぐ)あるいは投(たぐ)だったとすると投馬国は當麻(たぎま)に比定できる。記紀歌謡に履中天皇と歌としてつぎのような歌がある。 大坂に 会ふや乙女を 道問へば ただには告(の)らず 當麻路を告る。(記紀歌謡) 當麻は難波から大和へ向かう道筋にあたり、魏志倭人伝の投馬国が邪馬台国の直前に置かれているのと整合する。 ア ジアにおいて中国以外に国家という概念が存在しない時代にあって、大陸の東北部と日本列島は「東夷」として、一つの地域として位置づけられていた。邪馬台 国だけを独立してとらえる視点ではなく、東アジアの一地域としてとらえてみる視点の必要になる。同じ『魏志倭人伝』の韓の条には「卑弥(ひみ)国」という 国もある。 韓。
帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接している。民は定住していて、穀物を植え、蚕桑の技術を知っていて、綿や布を作る。伯済国、狗廬国、
卑弥国、不弥国など五十余国がある。漢の時代には楽浪郡の支配下におかれ、季節ごとに役所にやってきて朝謁していた。その後倭と韓は帯方郡の支配を受ける
ことになる。男たちは時に入れ墨をする者がある。 高
句麗。高句麗の五族として涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部があげられている。魏志東夷伝の高句麗の条には「言語諸事は多く夫余と同じ」とあり高句
麗は夫余と同じ濊貊系の民族であったと考えられる。同書東沃沮の条に「その言語は句麗と大いに同じくして、ときにすこしく異なる」、また濊の条に「言語風
俗は大抵句麗と同じ」とあることから、夫余・高句麗・沃沮・濊が同一の言語であったことがわかる。倭人は濊貊系とまではいわなくとも、これに近い民族で
あって、夫余、高句麗、沃沮と同じく中国東北部から朝鮮半島に漁労をともなった原始的な農業を営んでいた。 濊。南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と境を接している。同姓の者は結婚しない。虎を神として祭る。 辰韓。辰韓では、自分たちは秦の労役を逃れて韓の国にやってきた、という言い伝えをもっている。楽浪郡の人のことを阿残と呼ぶ。楽浪郡の人はもの残余だから「阿残」というのだという。 弁 辰。弁辰楽奴国、弁辰弥烏邪馬国、弁辰狗邪国、斯廬国などの国がある。土地は肥えていて、五穀や稲を植えるのに適し、人々は蚕桑の業に通じて、布を織る。 国は鉄を産し、韓、濊、倭はそれぞれここから鉄を手に入れている。男女の様子は、倭人たちに近く、入れ墨もしている。弁辰は、辰韓の者と住む所が入りくん でいる。言語や掟もにている。 このような地域の一つに邪馬台国はある。邪馬台国のさらにむこうには、弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、邪馬国、烏奴国、奴国、狗奴国などがあることになっている。 モンゴル学者 で、中国語、朝鮮語にも通じる長田夏樹は魏志倭人伝が書かれたころの洛陽の中国語をもとに再構している。(長田夏樹『邪馬台国の言語』学生社)そこでは邪 馬台国の地名や人名は次のように再構されている。邪馬台(ヤマド)、投馬(ドマ)、卑弥呼(ヒムカ)、難升米(ナニソゴム)、臺与(ドキ)、卑奴母離(ヒ ナモラ)などとあるが、あまり成功しているとはいえない。それは長田夏樹の再構が粗雑だからではない。むしろ精緻すぎるくらい精緻を極めている。しか し、中国語の音韻構造は東夷諸国の言語と音韻構造が違う漢字で外国の地名や人名を写すとき必ず転移が起こるからである。 アメリカは日 本では米国、中国では美国帝国主義である。フランスも日本では仏国、中国では法国である。漢字の米と美、仏と法をいくら厳密に再構してもアメリカやフラン スにはたどりつけない。パリは日本では巴里、中国では巴黎である。夏目漱石はロンドンを倫敦として『倫敦塔』を書いたが、森鷗外は「竜動」と書いている。 文字はちがっても指しているものは同じである。 |
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