第243話・ やまとことばの原像

 日本書紀歌謡につぎのような歌がある。

   沖つ鳥 鴨着く島に 我がゐ寝し 妹は忘らじ 世のことごとも

  これを原文でみると次のように書かれている。

   飫企都鄧利 軻茂豆句志磨爾 和我謂禰志 伊茂播和素邏珥 譽能據鄧馭鄧母

 意味は「沖に鴨が飛ぶあの島で 抱いて寝た女を忘れることはない この世のある限り」ということになろうか。この歌は「やまとことば」でかかれている。漢字で表記した部分も漢語ではない。漢字の訓と音で 示すとつぎのようになる。

  沖(おき・チュウ)、鳥(とり・チョウ)、鴨(かも・オウ)、着(つく・チャク)、島(し
  ま・トウ)、我(わが・ガ)、寝(ねる・シン)、妹(いも・マイ)、忘(わすれる・ボウ)、
  世(よ・セ)、

  古代日本語の一人称にあたる「あ」「あれ」「わ」「わが」などは中国語の我[ngai] あるいは吾[nga] の和音化したものであり、「な」「なれ」も中国語の「汝」と同源である。現代日本語の「僕」も「君(きみ)」も、「朕」も中国語語源である。

  音と訓は別々の言語のようにみえる。音は漢語であり、訓は和語である、というのが一般的な説明である。しかし、これらの「やまとことば」の語彙は古い時代における中国語からの借用語である可能性はないだ ろうか。

 ○ 沖:
 日本語の「おき」にあたる漢字に澳
[uk] という字があり、和語の「おき」は漢語の「澳」につうずる。
 ○ 鳥:
 漢語の「鳥」の古代中国語音は、音韻学者董同龢の「上古音韵表稿」によれば鳥
[tiog] であり、日本語の「とり」は古代中国語の音韻を継承しているものと思われる。
 ○ 鴨:
 「鴨」の現代北京語音は鴨
(ya) であり、日本漢字音は鴨(オウ)である。しかし、「鴨」の声符号は「甲」であり、甲の古代中国語音は甲[keap] である。「鴨」も中国である時代に、ある地方で「甲」と同じ音をもっていた可能性が高い。和語の「かも」は漢語の「鴨」と同源である。日本語では語中、語尾の清音は濁音になることが多いので、鴨[keap] の韻尾[-p] は「も」に転移した。
 ○ 着:
  「着」の古代中国語音は着
[diak] であり、和語の「つく」は漢語の「着」と同源である。「つく」は漢語で介音[-i-] の発達する前の古い音を留めているものと思われる。
 ○ 島:
  「島」の古代中国語音は島
[tô] である。しかし、中国語には同じ島をあらわす「洲」ということばがあり、白川静の『字通』でも洲[tjiu] は島[tô] に声が近い、としている。和語の「しま」は中国語の「洲」と関係のあることばであろう。
 ○ 我:
 「我」の古代中国語音は我
[ngai] である。朝鮮漢字音では中国語の声母・疑[ng-]は規則的にうしなわれるから我(a) となる。古代日本語の我(あ)あるいは我(わ)は中国語の声母[ng-]の失われたものである。日本の史(ふひと)には朝鮮半島出身者が多く、古代日本語の発音は朝鮮語の影響を受けているものがある。また、朝鮮語は日本語と同じく膠着語であり、時代を遡れば、遡るほど日本語 は朝鮮語に近い。
 ○ 寝:
 「寝」の古代中国語音は寝
[tsiəm] である。しかし、中国語には「ねる」にあたることばに、寐[muət]あるいは眠[myen] がある。和語の「ねる」は中国語の「寐」あるいは「眠」と同源である。語頭の[m-]は鼻音であり、調音の位置も[n-]に近いので古代日本語ではナ行に転移した例がいうつか見られる。

  例:鳴[mieng] なく、無[miua] ない、苗[miô] なえ、猫[miô] ねこ、など

 ○ 妹:
 「妹」の古代中国語音は妹
[muət/muəi] である。和語の「いも」は漢語の「妹」の語頭に母音「い」がついたものである。古代日本語で中国語の声母[m-] の前に母音がついた例はいくつかみられる。

  例:夢[miuəng] いめ・ゆめ、梅[muə] むめ・うめ、馬[mea] むま・うま、など

 ○ 忘:
 「忘」の古代中国語音は忘
[miuang]である。中国語の声母[m-]は日本語ではワ行であらわれる例がいくつかみられる和 語の「わすれる」は漢語の「忘」と関係のあることばであろう。

 例:尾[miuəi]を、 綿[mian]わた、など

 ○ 世:
 「世」の古代中国語音は世
[sjiat/sjiai] である。古代中国語では口蓋音の発達によって声母が失われる場合が多い。

 例:邪[zya](ジャ・ヤ)、施(シ)・也(ヤ)、袖(シュ ウ)・由(ユウ)、
   除(ジョ)・余(ヨ)、序(ジョ)・予(ヨ)、秀(シュウ)・誘(ユウ)、など

 和語では声母が失われた例として次のようなものをあげることができる。

 例:世(セ・よ)、 射[djiyak](シャ・いる)、矢[sjiei](シ・や)、灼[tjiôk](シャク・やく)、
   床
[dzhiang](ショウ・ゆか)、臣[sjien](シン・おみ)、真[tjien](シン・ま)、
   身
[sjien](シン・み)、など

 『日本書紀』の編纂は8世紀初頭だが、日本は弥生時代以来中国文明の影響を受けてきた。日本語の語彙も中国語を受け入れることによって豊かになってきた。だから、和語と思われている語彙のなかにも、中国 語語源のものは多い。
 日本漢字音が成立する平安時代以前に日本語のなかに受け入れられ、日本書紀編纂の時点ではすでに和語として定着していたものを仮に弥生音と呼ぶことにする。弥生音は弥生 時代、古墳時代、飛鳥時代などに受け入れられた中国語起源のことばで、主に文字を通してではなく、音声として受け入れられたものと考えられる。

 日本書紀歌謡ではそれらの中国語語源のことばも、唐代の漢字音で書いた。

   澳(飫企)、鳥(都鄧)、鴨(軻茂)、着(豆句)、島(志磨)、我(和我)、寐(謂禰志)、
  妹(伊茂)、忘(和素邏珥)、世(譽)、

 これらの和語は中国語起源ではあるが、すでに8世紀の中国語音とはかなり違ってきてしまっていたので、日本書紀歌謡では当時の漢字音を使って表記した。8世紀の日本漢字音では「澳」は澳(オウ)であり澳 (飫企)とは読めなくなってしまっていた。

  漢和字典では漢字の読み方を音と訓に分けている。音には呉音と漢音に分けている。しかし、訓のなかにも二種類のタイプがあるのではなかろ うか。第一類は日本語が中国語と出会う前からあった「やまとことば」、第二類は記紀万葉が成立する500年前、卑弥呼の時代から中国との接触によって日本 語のなかに取り入れられた中国語起源の語彙である。第二類のはじまりは稲作や鉄とともにはじまった弥生時代まで遡ることができるかもしれない。
 唐代の漢字音に依拠するものを音と呼び、唐代以前の中国語音に依拠したものをすべて訓(和語)としてしまうのは、8世紀以前、約1000年にわたって行われてきた、中国文明との接触を無視してしまうこと にはならないだろうか。

 もうひとつの日本書紀歌謡をみてみることにする。

   莒母唎矩能 簸覩細能哿波庾 那峨例倶屢 駄開能 以矩美娜開余嚢開 謨等陛嗚麽 
 莒等儞都倶唎 須衛陛嗚麽 府曳儞都倶唎 符企儺須 美母盧我紆陪儞 能朋梨陁致 倭我彌細麽
  都奴娑播符 以簸例能伊開能 美那矢駄府 紆嗚謨 紆陪儞堤那皚矩 野須美矢矢 
 倭我於朋枳美能 於魔細屢 娑佐羅能美於寐能 武須彌陁例 駄例夜矢比等母 紆陪儞泥堤那皚矩  

   隠国の 泊瀬の川ゆ 流れ来る 竹の い組竹よ竹 本辺をば 
 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴らす 御諸が上に 登り立ち 我が見せば
  つのさはふ 磐余の池の 水下ふ 魚も 上に出て嘆くやすみしし
 我が大君の 帯せる ささらの御帯の 結び垂れ 誰やしひとも 上に出て嘆く

 この歌についても和語と漢語起源のことばとの関係についてみてみることにする。

 ○ 隠(莒母唎):
 「隠」の古代中国語音は隠
[iən] である。日本語の「こもる」の語源は籠[long]であろう。スウェーデンの言語学者B.カールグレンは古代中国語の来母[l-] には、入りわたり音[k-]があったのではないかと論じている。つまり、籠[long] は籠[klong] のような音であり、入りわたり音[k-] の発達したものが籠(かご・こもる)であり、入りわたり音[k-] が脱落したものが龍[long] であるというのである。
 その説を支えるものとして、同じ声符をもった漢字 にカ行であらわれるものとラ行であらわれるものをいくつかあげることができる。

 例:裸(ラ)・果(カ)、簾(レン)・兼(ケン)、練(レン)・諫(カン)、
   藍(ラン)・監(カン)、剣(ケン)・斂(レン)、楽(ラク・ガク)

  [long] の韻尾[-ng] は日本語にはない音であり、カ行であらわれること もあり、マ行であらわれることもある。[-ng] は調音の位置がカ行に近く、調音の方法は鼻音でありマ行に近い。
 ○ 国(矩):
 
「 莒母唎矩」 の「矩」は「くに」である。「国」の古代中国語音は国[kuək]である。現代の上海方言では韻尾の[-p][-t][-k] の区別が失われ、すべて閉鎖音の[?] になる。日本語の国は江南地方の国[kuə?]が転じたものだと考えることができる。
 また、B.カール グレンは日本語の「くに」は中国語の郡
[giuən] に由来するものだろうとしている。確かに漢の武帝の時代に朝鮮半島北部には楽浪郡、帯方郡などの植民地があり、郡をひとつの国ととらえていた可能性も否定で きない。郡には郡(こほり)という訓もあり、「郡」を郡(くに)と読んだかどうかは、断定できない。しかし、日本語の国が中国語の「国」あるいは「郡」と 関係の深いことばであることも事実であろう。
 ○ 川(哿簸):
 中国語の「川」には川
[thjyuən]、江[kong]、河[hai] などがある。声符「川」には訓[xiuən](クン)の読みもあり、「川」にも川[xiuən] に近い発音があったかもしれない。また、江[kong]、河[hai] も頭音は日本語ではカ行であり、日本語の川(か わ)に近い。日本語の「川」は旧仮名使いでは川(かは)であり、古代中国語の喉音[h-]は弥生音ではしばしばハ行であらわれるので、中国語の河[hai]が日本語の「かは」に最も近いといえるのではなかろうか。

 例:降[hoəm](ふる)、閑[hean](ひま)、華[hoa](はな)、脛[hyeng](はぎ)、戸[ha](へ)、

 古代日本語では中国語の語彙が濁音ではじまる場合、あるいは日本語に近い音がない場合、音を重ねることがしばしばある。

 例:壊[huəi](こ はれる)、含[həm](ふ くむ)、続[ziok](つ づく)、畳[dyap](た たみ)、

 ○ 流(那峨例):
 「流」の古代中国語音は流
[liu] である。古代の日本語にはラ行ではじまる音節はなかったので、調音の位置が同じナ行に転移することが多かった。

 例:流[liu](ながれ)、浪[long](なみ)、狼[lang](のろ)、練[lian](ねる)、涙[liuei](なみだ)、

 朝鮮漢字音では語頭の[l-] は規則的に[n-] に転移し、介音[-i-] を伴う場合は[l-] は脱落する。

 例:流(ju/ryu)、 浪(nang/rang)、 狼(nang/rang)、 練(jeon/ryeon)、 涙(nu/ru)、 籠(nong/rong)

 ○ 来(倶屢):
 古代中国語の「来」は来
[lə] である。古代中国語の来母[l-] は入りわたり音[k-]をもっていたので、「來」の祖語は来[klə] であったと考えられる。日本語の来(くる)は古代 中国語の入りわたり音[k-] の痕跡を留めているものである、と考えることができる。
 ○ 竹(駄開・娜開・嚢開):
 「竹」の古代中国語音 は竹
[tiuk] であると推定されている。日本語の竹(たけ)は中国語で介音[-i-] が発達する以前の竹[tuk] に近い形に依拠しているものと考えられる。
 ○ 本(謨等):
 日本語の「もと」は中国語の本
[puən] あるいは元[ngiuan] と同源であろう。中国語音韻史では韻尾の[-t] が一定の条件のもとで[-n] に変化したことが知られている。漢字には同じ声符 を[-t][-n] に読み分けるものがあるが、[-t] が古く、[-n] が新しい。

 例:薩(サツ)・産(サン)、咽(エツ)・因(イン)、厭(アツ・エン)
   冊(サツ)・珊瑚(サン)、

 また、漢字の訓ではタ行にあらわれ、音では「ン」 であらわれるものについても、タ行音が古く、「ン」が新しい。古代日本語には「ン」で終わる音節はなかった。これらの訓(和語)は中国語と同源である。

 例:盾(たて・ジュン)、琴(こと・キン)、言(こと・ゲン)、鞭(むち・ビン)、
   満(みつる・マン)、幡(はた・バン)、堅(かたい・ケン)、音(おと・オン)、
   剣(かた
-な・ケン)、

 ○ 辺(陛):
  「陛」の古代中国語音は陛
[bei] である。この字は日本語の「辺」にあてられている。古代中国語音は辺[pyen] である。古代日本語には「ン」で終わる音節がなかったため、「陛」を使ったのであろう。しかし、日本書紀歌謡では[- n]・[-m] の韻尾を日本語の開音節に使った例もいくつかみられる。

 例:鐏[dzuən](ぞ乙)、幡[phiuan](は)、泮[phuan](は)、絆[puan](は)、煩[biuan](ぼ)、
   延
[jian](イエ)、涴[uan](わ)、

 ○ 琴(莒等):
 「琴」の古代中国語音は琴
[giəm] である。韻尾の[-m] も古代日本語にはない音節である。現代の日本語で も[-m][-n] は弁別されず、「ン」となってあらわれる。音韻学 では[-m][-p][-n][-t][-ng] [-k] は調音の位置がおなじであり、転移しやすいと考え られている。
 しかし、日本漢字音では立
[liəp] 、接[tziap] など[-p] 韻尾の漢字音が立(リツ)、接(セツ)のようにタ 行であらわれる。韻尾の[-p]は日本語では[-t]に近い音として受けとめられていたようである。
 琴
[giəm]が弥生音で琴(こと)であらわれるのも、日本語の音韻構造が[-m][-n]弁別しないことによるものとみられる。
 ○ 作(都倶唎):
 作
[tzak] の頭音が都[ta] であったことがわかる。古代中国語の「作」は作[tak] に近い音であり、それが摩擦音化して作[tzak] になったものと考えられる。日本語の「つくる」は中国語の「作」と同源であり、古い時代の中国語音を留めている。
 ○ 鳴(儺須):
 古代中国語では「鳴」は鳴
[mieng] であった。古代日本語では語頭でも中国語の[m-]がナ行であらわれる例がみられる。[m-][n-] はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じなので転移しやすい。

 例:鳴[mieng](なく・なる)、無[miua](ない)、名[mieng](な)、眠[nyen](ねむる)、

 ○ 御(美):
 日本書紀歌謡では御諸(みもろ)の 「み」に美
[miei] が使われている。御[ngai] は鼻音であり、調音の方法が[m-] と同じであり、転移しやすい。「御」は御(ミ・オ・ゴ・ギョ)などであらわれるがいずれも中国語の疑母[ng-] の転移である。

 例:眼[ngean](め)、芽[ngea](め)、元[ngiuan](もと)、雅[ngea](みや・び)、
   迎
[ngyang](むかえる)、

 疑母[ng-] はナ行に転移する例もある。疑母[ng-] は鼻音であり「な行」と調音の方法が同じである。

 例:訛[nguai](なまり)、額[ngeak](ぬか)、偽[ngiuai](にせ)、魚[ngia](な)、

 ○ 登(能朋梨):
 「登」の古代中国語音は登
[təng] である。日本書紀歌謡の表記に使われている「能」は能[nə] である。[t-][n-] は調音の位置が同じであり、転移しやすい。登[təng]の韻尾の[-ng] は朋[bəng] の韻尾の音価と同じである。日本語の「のぼる」は中国語の「登」と同源であろう。
 ○ 立(陁致):
 「立」の古代中国語音は立
[liəp] である。古代日本語にはラ行で始まることばななかったことは、すでに述べた。中国語のラ行ではじまることばは古代日本語ではタ行に転移するものが多い。[l-][t-] は調音の位置が同じであり、転移しやすい。日本語の「たつ」は中国語の「立」と同源である。 中国語の韻尾[-p] がタ行であらわれることについてはすでに述べた。 

 例:龍[liong](たつ)、滝[leong](たき)、頼[lat](たよる)、連[lian](つらなる)、
   列
[liat](つらなる)、卵[lan](たま・ご)、冷[lieng](つめたい)、霊[lyeng](たま)、
   留
[liu](とどまる)、力[liək](ちか・ら)、

 ○ 我(倭):
 一人称の名詞「われ」は音では倭
[iuai] であり、訓では我[ngai] である。中国語の疑母[ng-] は鼻音であり、群母[g-] とは違う。疑母[ng-]は明母[m-] に近い。明母[m-] は両脣音であり、介音[-u-]を伴うことが多い。そのため、明母[m-] や疑母[ng-] は声が近く、日本語ではワ行であらわれることがある。

 例:我[ngai]、 吾[nga](われ)、魚[ngia](を)、綿[mian](わた)、尾[miuəi](を)、

 ○ 見(彌細):
 「見」の古代中国語音は見
[hyan] であり「彌」は彌[miai] である。スウェーデンの言語学者B.カールグレン は、古代中国語の明母[m-] には入りわたり音があったのではないかと考えている。中国語には同じ声母をカ行とマ行に読み分けるものがいくつかある。

 例:海(カイ)・毎(まい)、忽(コツ)・物(モツ)、黒(コク)・黙(モク)、など

 「海」の古代中国語御は海[xuə]、「毎」は毎[muə] だとされているが、これらは共通の声符をもっている。「海」も「毎」も文字ができた時代には海・毎[xmə] のような発音であったのではないかというのであ る。入りわたり音[x-]が発達したものが海[xə] になり、入りわたり音[x-]が脱落したものが毎[mə]になったのではないか、というのである。これはきわめて整合性のある説明である。

 同じように見[hyan] には見[hmyan] という前史があり、入りわたり音[h-]の発達したものが見[hyan](みる)になり、入りわたり音[h-]の脱落したものが見[myan] となり、日本語の見(みる)になっていると考えることはできないだろうか。日本語の「みる」にはさまざま漢字があてられており、それらはいずれもカ行の音、マ行の訓をもっている。

 例:見[hyan](みる・ケン)、看[khan](みる・カン)、観[kuan](みる・カン)、
   鑑
[keam](みる・かがみ・カン)、

 そのほかにも、音がカ行、訓がマ行であらわれるものはいくつかある。

 例:巻[giuan](まき・カン)、丸[huan](まる・ガン)、眼[ngean](め・ガン)、

 ○ 魚(紆嗚):
 「魚」の古代中国語音は魚
[ngia] である。日本語の「うを」は古代中国語の声母[ng-] が脱落したものであろう。古代日本語には疑母[ng-] ではじまる音節はなかった。朝鮮語にも濁音ではじ まる音節はなかったから、現代の朝鮮漢字音で「魚」は魚(eo) である。
 ○ 出(堤堤・泥堤):
 「出」の日本漢字音は出(シュツ)であり、訓は出(でる)である。「出」の古代中国語音は出
[thjiuət] であり、「出」と同じ声符をもった「咄」は咄[tuət] である。伊日本語の「でる」は出[thjiuət] が口蓋化される前の出[thuət] に依拠した弥生音である可能性が高い。出(でる)は濁音ではじまるため、日本語の音韻体系にはなじまず、古代日本語では母音を添加して出(いでる)とすることが多い。
 ○ 歎(那白豈*矩):
 「歎」の古代中国語音は歎
[than] である。日本書紀歌謡の表記は那[nai]となっているが、歎[than] の頭音[th-] は、調音の位置が日本語のナ行と近い。歎(なげく)の「げ」は「げ」ではなく鼻音の「け゜」である。[than] の韻尾[-n] は鼻音であり、[ng-] と親和性が強い。結論として和語の「なげく」は漢語の「歎」と同源である。
 ○ 君(枳美):
 「君」の音は君(クン)、訓は君 (きみ)である。「君」の古代中国語音は君
[giuən] である。古代日本語には「ン」で終わる音節がな かったので、中国語の韻尾[-n]に母音を添加して君(きみ)とした。日本語では韻尾の[-n] [-m] を弁別しないから、韻尾の[-n]はマ行であらわれることがある。

 例:文[miuən](ふみ)、浜[pien](はま)、嬪[pien](ひめ)、困[khuən](こまる)、

 ○ 垂(陁例):
 「垂」の古代中国語音は垂
[zjiuai] である。同じ声符をもった漢字に唾[thuai] があり、「垂」も垂[thuai] に近い音価をもっていたと推定できる。白川静の『字通』によれば「墮[duai]、墜[diet]はみな下垂の意があり、声義の近い語である」という。日本語の垂(たれる)は中国語の「垂」と同源であろう。
 ○ 誰(駄例):
 「誰」の古代中国語音は誰
[zjiəi]である。同じ声符をもった漢字に堆[tuəi] があり、「誰」も誰[tuəi] に近い音をもっていたと思われる。日本語の誰(たれ・だれ)は中国語の「誰」と関係の深いことばであろう。

  以上の検討をふまえて、日本書紀歌謡の歌を、漢語起源のことばは漢字で、和語は仮名で書くとつぎのようになる。

   籠国のハツセの河ゆ 流れ来る 竹のいくみ竹よ竹、
  本辺をば 琴に作り すえ辺をば ふえに作り、
  ふき鳴す 御もろがうへに 登り立ち 我が見せば、
  つのさはふ イハレのいけの みなしたふ 魚も うへに出て歎く、
  やすみしし 我がおほ君の おばせる ささらの御おびの むすび垂れ、
  誰やしひとも うへに出て歎く。

   日本書紀歌謡は漢字の音だけを使って書かれているため、当時の日本語をかなり正確に復元することができる。記紀歌謡は8世紀の日本語を知るための基準点と もいえる。その歌謡を読み解いてみると、日本書紀の時代の日本語の語彙には、かなりの数の漢語起源のことばが使われていたことが分かる。

 日本の伝統的 な国学では、古事記、日本書紀、万葉集が作られた8世紀以前の日本には「やまとことば」があって、「やまとことば」のなかには漢語は含まれていないとされ てきた。漢字の辞書である漢和辞典には、一般に漢字の読み方として呉音、漢音などの「音」、と漢字に「やまとことば」をあてはめた「訓」とが併記されてい る。

 呉音、漢音と いい、いずれも8世紀の中国語の漢字音に依拠した日本漢字音である。唐代の規範的な漢字音にあてはまらない読み方はすべて訓(やまとことば)とされてい る。 しかし、日本列島が中国文明の洗礼を受けたのは弥生時代のはじめであり、記紀万葉の時代からは約1000年も遡る。その間に文明とともに、それを支える 「ことば」も入って来ていたはずである。ただ弥生時代の中国の漢字音は唐代の漢字音とはかなり違うので、それが日本語の訓のなかに混ざっていても、中国語 音韻学の知識がないと、それを見分けることは困難である。

   古事記、日本書紀は日本という国家が成立した以降に編纂されているから、蕃夷が大和朝廷を慕って帰化してきたという物語になっている。しかし、その大和朝 廷そのものが中国文明の波及によって成立したものであり、古事記、日本書紀は中国の歴史書である『史記』のミニ中華思想を受け継いでいるともいえる。

 現代の人類学の知見によると、文字をもたない民族が文字をもった民族と遭遇するとき、まず文字をもった民族が文字をもたない民族の言語を記録するのが普通だと思われる。日本でも、話ことばは「やまとことば」書きことばは漢文というのが最初だったのではなかろうか。

 魏志倭人伝や稲荷山古墳をみても、「やまとことば」でまず記録されているのは地名と人名である。いずれも漢字の音で書かれている。

   乎獲居(をわけ)、意富比垝(おほひこ)、多加利(たかり)足尼(すくね)、
 弖已加利獲居(てよかりわけ)、多加披次獲居(たかはしわけ)、半弖比(はてひ)、
 多沙鬼獲居(たさきわけ)、獲加多支鹵(わかたける)など、、

  獲加多支鹵(わかたける)は雄略天皇のことであるとされている。ことなかに「獲加」ということばが数多くでてくる。これは現代の日本語から類推して普通「若」とか「稚」にあたることばだろうとされている。しかし、筆者は、古代中国語の原音から考えて王[hiuang] に相当することばではないかと考える。「王」「皇」は現代の中国語では王(wang)である。古代中国語の韻尾[-ng] は入声音[-k] に近かったから、当時の「やまとことば」のなかに「わけ」とし受け入れれられていて、獲加[hoak-keai] と表記されたのではなかろうか。

 聖徳太子の時代になっても、現在伝えられている十七条憲法は漢文で書かれている。日本書紀推古天皇十二年夏四月の条にその記録がみえる。「皇太子、親ら肇めて、憲法十七条作りたまふ」とあるが、すべて漢文である。原文とその読み下しを示すと次のようになる。

   一曰、以和為貴、無忤為宗、人皆有黨、亦少達者。是以、或不順君父、乍違于隣里。
  然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

  一に曰く、和を以て貴とし、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。
 人皆党(たむろ)あり、また達(さと)る者少し。是を以て、あるいは君父に順(したが)はず。 また、隣里に違(たが)ふ。然れども、上和(やはら)ぎ、下睦(むつ)びて、事を論(あげつ  ら)ふに諧(かな)ふときは、事理自(おの)づからに通(かよ)ふ

  現代では読み下しているが、当時の宮廷では漢文として読んで理解されたものではなかろうか。少なくとも十七条憲法として伝わっているものは漢文であり、読 み下し文ではない。当時の朝廷では、話し言葉には「やまとことば」の語彙が多かったであろうが、書き言葉は中国語であったと考えられる。
 「憲法」ということばを現代では憲法(いつくしきのりと)と読ませているが、これも中国語の「憲法」ということばや概念が入ってくる前にすでに「やまとことば」には「憲法」にあたることばがあったと、考えてのことである。
 「憲法」という概念は現在の「憲法」が西洋では市民革命以降の概念であるのに対して「十七条憲法」では詔(みことのり)のことである。少し余談になる が、あるとき「平等院」に外人を案内したところ、日本では「平等」ということばはいつからあったのか、と聞かれてはっとしたことがあった。漢字語の意味は 明治以後再定義されているものがあるので、気をつけなければならない。

   記紀万葉の時代になると「やまとことば」を漢字で表記する方法がいろいろ工夫されるが、日本最初の漢詩集『懐風藻』は万葉集より先に成立している。万葉集 には僧侶が読んだ歌は記録されていないが、『懐風藻』には僧侶の作った漢詩ものせられている。僧正呉学生智蔵師2首、唐学士弁正法師2首、律師大唐学生道 慈師2首である。いずれも唐に渡って仏法を修めたことのある留学経験者である。ちなみに釈弁正の漢詩には次のようなものがある。

   五言 与朝主人 一首

  鐘鼓沸城闉       役所の仕事はじめを知らせる鐘が城内に沸き
  戎蕃預国親
       蕃夷もみな国親の処遇をうけている
  神明今漢主
       明神(天皇)は今や中国の皇帝のごとく
  柔遠静胡塵
       遠く胡国の者まで静めている
  琴歌馬上怨
       琴を弾いて馬上で歌を歌ったかの地(唐)のことが思いだされる
  楊柳曲中春
       春は楊柳の芽ぶきを愛でたものだ
  唯有関山月
       今は関山にかかる月だけを眺めて
  偏迎北塞人
       ただ北の果てから帰る人を迎えるのみだ。

  百人一首の時代になると僧侶も歌を読むようになり、西行法師をはじめ天台座主慈円の歌などもとられているが、万葉集には僧侶の歌はない。万葉の時代の仏教は漢字文化の世界だったのである。

   8世紀の日本の識字率はきわめて低く、懐風藻の作者は宮廷の官人と僧侶である。万葉集の詞は漢文で書かれている。歌は漢字の音で書かれてものばかりでな く、音と訓を併用しているものが多い。 万葉集などを記録したのは文字の専門職である史(ふひと)であろうと思われる。日本語は中国語の異なり、助辞が多 く使われており、動詞や形容詞には活用がある。そのような接辞や助辞を書きそえる書記法で書かれた歌もあり、接辞や助辞をまったく表記しない歌もある。東 歌や防人の歌は漢字を読み書きできる専門職によって漢字の音だけを使って書かれている。

 日本書紀もこ のような言語環境のなかで成立したものと考えられる。日本人が「やまとことば」だけを話し、中国人が「中国語」だけを話す時代ではなく、朝鮮半島からの渡 来人がほとんどをしめる史(ふひと)や中国語を母語とする技術者が、やまと朝廷の中枢をになっていた。高松塚古墳の壁画をみても大和朝廷の風俗の国際性が うかがわれる。記紀万葉時代のやまと朝廷は、やまおとことばを母語としながらも、文字をになった少数の識字階級によって支えられていたことがわかる。文字 は ことばを写すものであるが、文字が「やまとことば」を変えていった側面も見逃すことができない。

もくじ

第236話 呉音と漢音はどう違うか

第237話 日本漢字音と中国語漢字音のあいだ

第238話 日本語にない漢字音

第239話 漢字は表音文字である

第240話 漢字文化圏の漢字音

第241話 日本書紀は誰が書いたか

第242話 和語と漢語のあいだ