第238話・
日本語にない漢字音
日本語と中国語では音韻構造がちがう。漢字は一
字一音節というのが原則である。中国語の音節は「声母」と「韻母」からできている。例えば、干[kan]、観[kuan]、巻[kiuan] の場合、声母は[k-] であり、韻母はそれぞれ[-an]・[-uan]・[-iuan] である。韻母はさらに分かれて[-a-] は主母音、[-u-]・[-iu-] は介音、[-n]
は韻尾ということになる。旧仮名づかいでは干(カン)、観(クワン)、巻(クワン)などと書き分けられることもあった。
漢字の「絵」が日本語では絵(カイ)となったり絵(エ)となったりすることは、すでに見たとおりであるがが、逆に中国語では異なる発音が日本語では同じ
に音になってしまう場合も多い。
例えば「カン」という漢字の中国語音は次のようになる。[
]
は古代中国語音であり、( ) は現代北京音である。
汗[kan ] (han)
甘[kam]
(gan)
完[huan]
(wan) 肝[kan]
(gan)
函[ham](han)
官[kuan] (guan)
冠[kuan]
(guan) 巻[kiuan]
(jian)
看[khan]
(kan)
陥[heam]
( xian)
乾[kan] (gan)
貫[kuan]
(guan)
寒[han]
(han)
敢[kam]
(gan)
閑[heam]
(xian)
間[kean ] (jian)
勧[khiuan]
(quan) 寛[khuan]
(kuan) 感[həm] (gan)
漢[xan]
(han)
監[keam] (jian)
管[kuan]
(guan)
関[koan]
(guan) 歓[xuan]
(huan) 韓[han]
(han)
日本漢字音では中国語の声母[k][kh]・[x][h]
が弁別されていないことがわかる。また、日本漢字音では介音[-i-][-u-][-iu]
などの違いは無視されている。一方、現代の北京語では韻尾の[-n] と[-m]
が弁別されなくなっていることがわかる。また、現代の北京語では語頭音が間(jian)、監(jian)などのように摩雑音化しているものもみられる。
陥(xian)、閑(xian) などの現代北京語音も介音[-i-] の影響で摩擦音化している。
○中国語喉音[h-]・ [x-]の転移
中国語の声母には喉の奥で調音される[x-]・[h-]
のような音がある。日本語にはない音なので、日本漢字音ではカ行に転移することが多い。
中国語の喉音[h-]・[x-]
は喉の奥で調音される音であり、日本語にはない音である。日本語のカ行音に近いため日本漢字音ではカ行であらわれることが多い。しかし、訓との対応を検討
してみると、中国語の喉音[h-]・[x-]&
amp;
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amp;
amp;
amp;
amp;
amp;
nbsp; は
日本語の訓(弥生音)の「は行」とたいおうしている可能性がある。[h] は濁音であり、[x] は清音である。
○ 中国語喉音[h-]・[x-] は日本漢字音ではカ行であらわれることが多い。
河[ha](かは・カ)、韓[han](から・カン)、茎[heng](くき・ケイ)、蛤[həp](かひ・コウ)、
涸[hak](かれる・コ)、混[huən](こむ・コン)、還[hoan](かえる・カン)、
壊[hoəi](こはれる・カイ)、畫・劃[hoek](かく・ガ)、漢[xan](から・カン)、
昏[xuən] (くれ・コン)、悔[xuə](くいる・カイ)、黒[xək](くろい・コク)、
○ 中国語喉音[h-]・[x-]
は音ではカ行であらわれるが、訓(弥生音)では「は行」に転移すことがある。
灰[huəi](は
い・カイ)、華[hoa](はな・カ)、脛[hyeng](はぎ・ケイ)、艦[heam](ふね・カン)、 戸[ha](へ・コ)、檜[huat](ひのき・カイ)、弘[hueng](ひろい・コウ)、
宏[hoəng](ひろい・コウ)、降[hoəm](ふる・コウ)、含[həm](ふくむ・ガン)、
火[xuəi](ひ・カ)、花[xoa](はな・カ)、惚[xuət](ほれる・コツ)、吼[xo](ほえる・コウ)、
哮[xeu](ほえる・コウ)、
○ 中国語喉音[h-]・[x-]
が音ではカ行であらわれるが、訓では「ま行」に転移することがある。
丸[huan](まる・ガン)、圓[hiuən](まる・エン)、回[huəi](まわる・カイ)、
廻[huəi](めぐる・カイ)、還[hoan](まわる・カン)、見[hyan]・現[hyan](みる・ケン)、
顕[xian](みる・ケン)、向[xiang](むく・コウ)、胸[xiong](むね・キョウ)、
中国語の喉音[h-][x-]は日本のカ行であらわれるが、訓(弥生音)では
「は行」であらわれるものも多い。古代日本語のハ行は後口蓋(軟口蓋)で調音される音だったのではないかと考えられる。
訓で「ま行」であらわれるものについては、少し
説明を要する。スエーデンの言語学者B.カールグレンは、古代中国語の[m]
の
前に入りわたり音[h]
があったのではないかとしている。たとえば、「海」は海[xuə] であるが、同じ声母をもつ「毎」は毎[muə] である。これは、「毎」の古代音に毎[hmuə] のような入りわたり音[h-]があって、それが脱落したものが毎[muə] になり[h-] が発達したものが海[xuə]
になったのではないか、というのである。まことに理にかなった説明だと思う。
そうであれば、日本語の訓 丸(まる)、円(まる)、回(まわる)、廻(めぐる)、還(まわる)、見・現(みる)、顕(みる)、向(むく・むこう)、胸
(むね)などはみな、中国語と同源だということになる。
英語でもknife, know, knit, kneel などのように鼻音nの前にk のついた単語がいくつかある。現代の英語ではk は発音されないが、古代の英語ではkも発音されていた。ドイツ語ではKnabe, Knebel, Kneif などの語があり、現代ドイツ語でも語頭のkは発音されている。語頭のmやn の前ににkやhの入りわたり音がつき、あるいは複合子音にな
ることは、古代中国語ばかりでなく、言語一般にみられる現象なのであ
る 。
中国語の喉音[h-]・[x-]
は摩擦音的要素が強いため、古代日本語(弥生音)では「さ行」であらわれるものもみられる。
例:狭[heap](せ
まい・キョウ)、吸[xiəp](す
ふ・キュウ)
また、[h-] は介音[-iu-] の前などで脱落する例もみられる。
例:雄[hiuəng](を・
おす・ユウ)、往[hiuang](ゆ
く・コウ)、行[heang](ゆ
く・コウ)、
横[hoang](よ
こ・オウ)、王[hiuang](わ
け<古語>・オウ)、越[hiuat](こ
える・エツ)、
雲[hiuən](く
も・ウン)、熊[hiuəm](く
ま・ユウ)、羽[hiuə](は・
はね・ウ)、
ヨーロッパの言語でもhは脱落することがある。フランス語などでは綴り字
ではhがあるが、発音されない場合が多い。
例:humour(ユー
モア)、huit(八)、huitre(牡
蠣)、homme(人)、hiver(冬)
など
英語でもh は綴り字にはあるが、発音されない場合がある。
例:hour(時
間)、honest(正
直)、honour(名
誉)、heir(相
続人)など
英語ではheirではhは脱落するが、hairではhは発音される。また、Hispanic は「イスパニア」であり、Hermitage は「エルミタージ」である。
○ 中国語声母[k-][kh-][g-][ng-]の
転移
中国語声母[k-][kh-][g-][ng-]
はいずれも後口蓋音(軟口蓋音)であり、口腔の後、喉に近いところで調音される。[kh-]
は有気音であり、中国語音韻学では次清音ともいわれる。[kh-] は日本語にはない音である。[ng-]
は鼻音ではあり、日本語では語頭にはあらわれない。
古代日本語では語頭に濁音がくることはなかった。
語中、語尾の濁音は語頭では清音になるという音韻法則があったので、中国語の[g-] あるいは[kh-] も語頭では[k-]に近い音になるので、中国語の[k-][kh-][g-][ng-]は日本漢字音では弁別されない。
○ 中国語の声母[k-][kh-][g-][ng-] は日本語ではカ行であらわれることが多い。
乾[kan](かわく・カン)、軍[kiuən](くめ・グン)、光[kuang](かげ<古語>・コウ)、
帰[kiuəi](かえる・キ)、亀[kiuə](かめ・キ)、鴨[keap](かも・オウ)、
江[kong](かは・コウ)、葛[kat](かづら・カツ)、渇[khat](かわく・カツ)、
枯[kha](かれる・コ)、口[kho](くち・コウ)、 喫[khyat](くらう・キツ)、
苦[kha](くるし・ク)、刈[ngiat](かる・ガイ)、凝[ngiəng](こる・ギョウ)、
牙[ngea](きば・ガ)、顔[ngean](かほ<顔貌>・ガン)、
○ 中国語の声母[k-][kh-][g-][ng-]は日本漢字音ではカ行であらわれ、古代日本語(弥
生音)
では「は行」に転移することがある。
骨[kuət](かばね・ほね・コツ)、頬[kyap](ほお・ほほ・キョウ)筥[kia](はこ・キョ)、
広[kuang](ひろい・コウ)、古[ka](ふるい・コ)、光[kuang](ひかり・コウ)、
経[kyeng](へる・ケイ)、寛[khua](ひろい・カン)、筐[khiuang](はこ・キョウ)、
掘[giuət](ほる・クツ)、原[ngiuan](はら・ゲン)、牙[ngea](は・ガ)、臥[ngua](ふす・ガ)、
○ 中国語の声母[k-][kh-][g-][ng-]
は古代日本語(弥生音)では「ま行」に転移するこ
とがある。
宮[kiuəm](みや・キュウ)、観[kuan](みる・カン)、看[khan](みる・カン)、
群[giuən](むれ・グン)、芽[ngea](め・ガ)、眼[ngean](め・ガン)、元[ngiuan](もと・ゲン)、
御[ngean](み・ギョ)、迎[ngyang](むかえる・ゲイ)、詣[ngyei](もうでる・ケイ)、
○中国語の声母[k-][kh-][g-][ng-]は古代日本語(弥生音)では脱落することがある。
家[kea](いへ・いえ・カ・ケ)、甘[kam](あまい・カン)、今[kiəm](いま・コン・キン)、
間[kean](ま・あいだ・カン)、弓[kiuəm](ゆみ・キュウ)、吉[kiet](よし・キチ)、
岡[kang](をか・コウ)、犬[khyuan](いぬ・ケン)、焼[gyô](やく・ギョウ)、
我[ngai](あ<古語>・ガ)、吾[nga](あ<古語>・ゴ)、顎[ngak](あご・ガク)、
魚[ngia](うお・ギョ)、牛[ngiuə](うし・ギュウ)、仰[ngiang](あおぐ・ギョウ)、
中国語の声母[k-][kh-][g-]
が古代日本語(弥生音)で「は行」にあらわれるのは、古代日本語では後口蓋音の[k-][kh-][g-]
が
喉音の[x-][h-]
と弁別されなかったために起こった混同ではないかと考えられる。
中国語の声母[k-][kh-][g-]
が古代日本語(弥生音)で「ま行」にあらわれるのは、B.カールグレンがいうように、古代には入りわたり音があったことを裏づけるように思われる。つま
り、「海」は海[hmuə] のような入りわたり音があり、入りわたり音[h-]が発達したものが海[huə] になり、入りわたり音[h-] が脱落したものが、毎[muə] になった。
同じように宮(みや・キュウ)、観(みる・カン)、看(みる・カン)、群(むれ・グン)の古代中国語には頭音[hm]
があり、それが脱落したものが古代日本語(弥生音)の「ま行」であらわれていると考えることができる。
中国語の声母[k-][kh-][g-]
が古代日本語(弥生音)では脱落するケースがみられる。その多くは介音[-i-][-y-]
の発達と関係があるように思える。朝鮮語では、中国語の声母[ng-]は規則的に脱落する。日本語でも中国語の疑母[ng-]、日母[nj-]は脱落することが多い。
○ 中国語の[t-][th-][d-][n-]
の転移
中国語声母[t-][th-][d-][n-] はいずれも前口蓋音(硬口蓋音)であり、歯茎の裏
で調音される。[th-]
は有気音であり、中国語音韻学では次清音ともいわ
れる。[th-] は日本語にはない音である。[n-]は鼻音ではあり、日本語では語頭にはあらわれな
い。
古代日本語では語頭に濁音がくることはなかった。
語中、語尾の濁音は語頭では清音になるという音韻法則があったので、中国語の[d-]
あ
るいは[th-] も語頭では[t-] に近い音になるので、中国語の[t-][th-][d-][n-]は日本漢字音では弁別されない。
○ 中国語の声母[t-][th-][d-][n-]は日本語ではタ行であらわれることが多い。
唾[thuai](つば<唾沫>・ダ)、蓄[thiuk](たくわえる・チク)、屯[duən](たむろ・トン)、
断[duan](たつ・ダン)、段[duan](たな・ダン)、耐[nə](たえる・タイ)、
○ 中国語の声母[t-][th-][d-][n-]は日本漢字音ではタ行であらわれ、古代日本語(弥
生音)では「な行」に転移することがある。
長[tiang](ながい・チョウ)、中[tiuəm](なか・チュウ)、展[tian](のべる・テン)、
登[təng](のぼる・ト・トウ)、嘆[than](なげく・タン)、涕[thyei](なみだ・テイ)、
陳[dien](のべる・チン)、騰[dəng](のぼる・トウ)、啼[dyei](なく・テイ)、
逃[do](にげる・トウ)、遁[duən](にげる・トン)、塗[da](ぬる・ト)、
○ 中国語の声母[t-][th-][d-][n-]は日本漢字音ではサ行に転移することがある。
盾[djiuən](たて・ジュン)、詔[tjiô](のる・ショウ)、沼[tjiô](ぬま・ショウ)、
縄[djiəng](なは・ジョウ)、乗[djiəng](のる・ジョウ)、順・馴[djiuən](なれる・ジュン)、
中国語の声母[t-][th-][d-][n-]
は古代日本語では「た行」または「な行」であらわ
れる。日本漢字音では「サ行」であらわれるものもある。「サ行」であらわれるものは、口蓋化の影響で摩擦音化したものである。
古代中国語音の声母が[dz]
であると考えられていることばのなかにも、古代日本語音(弥生音)が「た行」であらわれるものがある。
例:造[dzuk](つ
くる・ゾウ)、就[dziuk](つ
く・シュウ)、絶[dziuat](た
える・ゼツ)、
これらのことばは摩擦音化する前に、造[duk]、就[diuk]、絶[diuat] に近い祖語があったことを示唆している。
中国語の声母[th-]
のなかには古代日本語音(弥生音)が「は」行であらわれるものもみられる。中国語の声母[th-]
は日本語にはない音であり、有気音なので呼気の印象が「は行」に近く聞こえたためと思われる。
例:吐[tha](は
く・ト)、太[that](ふ
とい・タ)、歯[thjiə](は・
シ)、吹[thjiuai](ふ
く・スイ)、
春[thjiuən](は
る・シュン)、
古代中国語音が[tj-] あるいは[dz-]
などであったと考えられていることばのなかにも、古代日本語音(弥生音)が「は行」であらわれるものがある。 これらのことばは口蓋化する前に、何らかの有気音
的要素をもっていた可能性がある。
例:鍼[tjiəm](は
り・シン)、箴[tjiəm](は
り・シン)、針[tjiəm](は
り・シン)、
秦[dzyen](は
た・シン)、榛[tzhen](は
り・はる・シン)、
○ 中国語日母[nj-]の転移
中国語声母[nj-]は調音の位置は[n-] と同じであるが、口蓋化により、[n-] とはちがった転移のしかたをすることがある。
○ 中国語の日母[nj-]は古代日本語では脱落するものが多い。
熱[njiat](あつい・ネツ)、入[njiəp](いる・ニュウ)、潤[njiuən](うるほふ・ジュン)、
柔[njiu](やはら・ニュウ・ジュウ)、弱[njiôk](よわい・ジャク)、軟[njiuan](やわらか・ナン)、
若[njiak](わかい・ニャク・ジャク)、譲[njiang](ゆずる・ジョウ)、茹[njia](ゆでる・ジョ)、
如[njia]何(いかに・ジョ・ニョ)、汝[njia](いまし<古語>・ジョ)、餌[njiə](え・えさ・ジ)、
女[njia](をみな・ジョ)、
○ 中国語の日母[nj-]
は古代日本語では「な行」または「ま行」であらわれる。
<ナ行>濡[njio](ぬれる・ジュ)、汝[njia](な<古語>なれ・ジョ)、爾[njiai](なんじ・ジ)、
柔[njiu](にこ<古語>・ジュウ)、
<マ行音>壬[njiəm](みずのえ<壬生=みぶ・ニン)、任[njiəm](み<任那=みまな・ニン)、
稔[njiəm](みのる・ネン)、耳[njiə](みみ・ジ)、認[njiən](みとめる・ニン)、
女[njia](め・むすめ・ニョ・ジョ)、
中国語の日母[nj-] はきわめて不安定な声母で、唐代には日[nj-] であったが、その後、日[dj-] ないし日[zi]
に変化した。日本漢字音で呉音が日(ニチ)、漢音が日(ジツ)とされているのは中国語音の変化を反映している。古代日本語(弥生音)では脱落するものが多
いが、「な行」あるいは「ま行」であらわれるものもある。日母[nj-] はもと日[m-] に近い音であり、それが口蓋化の影響で日[nj-]になったと考えることができる。
「日本」は現代の中国語では日本(ri-ben) であり、朝鮮漢字音では日母[nj-] は規則的に脱落して日本(il-bon) である。
○ 中国語の[p-][ph-][b-][m-]
の
転移
中国
語声母[p-][ph-][b-][m-]
はいずれも脣音であり、調音の位置が同じである。[ph-]
は有気音であり、中国語音韻学では次清音ともいわれる。[ph-] は日本語にはない音である。
古代日本語では語頭に濁音がくることはなかった。
語中、語尾の濁音は語頭では清音になるという音韻法則があったので、中国語の[ph-][b-] あるいは[m-] も、語頭では[p-] に近い音になるので、中国語の[p-][ph-][b-][m-] は日本漢字音では弁別されない。
○ 中国語の声母[p-][ph-][b-][m-] は「は行」であらわれることが多い。
剥[peak](はぐ・ハク)、浜[pien](はま・ヒン)、泊[beak](はて・ハク)、鼻[biei](はな・ビ)、
匍匐[bua-bək](はふ・ホフク)、払[piuət](はらう・フツ)、祓[buat](はらう・バツ)、
伏[biuək](ふ す・フク)、蜂[biong](はち・ホウ)、文[miuən](ふみ・ブン)、
亡[miuang](ほろびる・ボウ)、滅[miat](ほろびる・メツ)、母[mə](はは・ボ)、
○ 中国語の声母[p-][ph-][b-][m-] は「ま行」であらわれることがある。
背[puək](まける・ハイ)、報復[pu-biuk](むくいる・フク)、播[puai](まく・ハイ)、
百[peak](もも<古語>・ヒャク)、舞[miua](まい・ブ)、萌[məng](もえる・ボウ)、
望[miuang](もち<望月>・ボウ)、目[miuk](め・モク)・眸[miu](め・ボウ・ム)、
命[mieng](みこと・メイ)、物[miuət](もの・ブツ)、麦[muək](むぎ・バク)、
黙[mək](もだす・モク)、
○ 中国語の声母[p-][ph-][b-][m-] は「わ行」に転移することがある。
分[piuən](わける・ブン)、別[biat](わかれる・ベツ)、煩[biuan](わづらう・ハン・ボン)、
忘[miuang](わすれる・ボウ)、尾[miuəi](を・ビ)、綿[mian](わた・メン)、
沸[piuət](わく・フツ)、罠[mien](わな・ビン)、
中国語の声母[p-][ph-][b-][m-]
は両脣音である。「わ行」は合口音であり、調音の位置や方法が両脣音に近い。調音の位置や方法が近い音は転移しやすい。万葉集の時代の枕詞に「わたつみ
の」ということばがある。「海」にかかる枕詞で、「わた」は朝鮮語の海(pada) に由来するとされている。声母[p-][b-][m-] は介音[-u-] あるいは[-iu-] を伴うことが多く、[w] と親和性がある。
○ 中国語の[m-] の転移
中国語の声母[m-] は日本語では「な行」であらわれることがある。[m-]・[n-]
はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じである。
調音の方法が同じ音は聴覚的にも近く、転移しやすい。
例:眠[myen](ね
むる・ミン)、鳴[mieng](な
く・メイ)、名[mieng](な・
メイ)、
苗[miô](な
え・ビョウ)、猫[miô](ね
こ・ビョウ)、無[miua](な
い・ム)
中国語の韻尾[-n]・[-m]
も古代日本語(弥生音)では、しばしば混同されて
いる。(参照:第237話「日本漢字音と中国語漢字音のあいだ」)
○ 中国語の来母[l-] の転移
古代日本語ではラ行音が語頭にくることはなかっ
た。そのため、中国語の来母[l-]は「た行」「な行」などへ転移することが多かっ
た。
○ 中国語の来母[l-]
は古代日本語(弥生音)では「た行」に転移するものが多い。
龍[liong](たつ・リュウ)、滝[keong](たき・ロウ)、粒[liəp](つぶ・リュウ)、
立[liəp](たつ・リツ)、露[lak](つゆ・ロ)、蓼[lyu](たで・リョウ)、
冷[leng](つめたい・レイ)・涼[liang](つめたい・リョウ)、力[liək](ちから・リキ)、
利[liet](とし・リ)、連[lian](つらなる・レツ)、
○ 中国語の来母[l-]
は古代日本語(弥生音)では「な行」に転移することがある。
浪[liang](なみ・ロウ)、涙[liuei](なみだ・ルイ)、梨[liet](なし・リ)、練[lian](ねる・レン)、
流[liu](ながれ・リュウ)、臨[liəm](のぞむ・リン)、
○ 中国語の来母[l-]
は古代日本語(弥生音)では「ま行」であらわれることがある。
漏[lo](もる・ロウ)、嶺[lieng](みね・レイ)、乱[luan](みだれる・ラン)、
陸[liuk](む つ・リク)、六[liuk](むつ・ロク)、連[lian](むらじ・レン)、
○ 中国語の来母[l-]
は古代日本語(弥生音)では「か行」であらわれることがある。
来[lə](くる・ライ)、栗[liet](くり・リツ)、籠[long](こ・かご・ロウ)、
笠[liəp](かさ・リュウ)、恋[liuan](こひ・レン)、
○ 中国語の来母[l-]は介音[-i-] の影響で脱落することがある。
陵[liang](おか・リョウ)、陸[liuk](おか・リク)、梁[liang](やな・リョウ)、
良[liang](よき・リョウ)、綾[liəng](あや・リョウ)、
中国語の来母[l-] は「た行」に転移することが多い。中国語韻尾[-t]
が日本語や朝鮮語でラ行音に転移することはすでに
述べた。(参照:第237話「日本漢字音と中国語漢字音のあいだ」)
スウェーデンの言語学者B.カールグレンは古代中国語の来母[l-]
には入りわたり音があったのではないか、と指摘している。同じ声符をもった漢字にカ行とラ行に読み分けるものが多い。
例:果(カ)・裸(ラ)、兼(ケン)・簾(レン)、諌(カン)・
錬(レン)、
格(カク)・
洛(ラ
ク)、
「来」「栗」なども来[hlə]、栗[hliet] のような原音があって、入りわたり音の[h-]が発達したものがカ行であらわれ、[h-] が脱落したものがラ行であらわれていると考えれば整合的に説明がつく。
○ 介音[-i-]の発達と頭母音の摩擦音化
中国語の音韻史をたどってみると、六朝から隋唐の時代にかけて介音[-i-]の発達ということがみられる。それにともなって端系[t-] の音が照[tj-] になり、精系[tz-] の音が荘[tzh-]
になった。日本の漢字音では古代日本語(弥生音)は「た行」であらわれるが、日本漢字音ではサ行であらわれるものがいくつかみられる。「た行」音は古い端[t-]・精[tz-]系の音に準拠しており、「サ行」音は照[tj-]・荘[tzh-]系の音を反映している。「た行」音が古く、「サ行」音のほうが新しい。
例:照[tjiô](てる・ショウ)、盾・楯[djiuən](たて・ジュン)、杖[diang](つえ・ジョウ)、
丈[diang](たけ・ジョウ)、衝[thjiong](つく・ショウ)、
例:樽[tzuən](たる・ソン)、足[tziok](たる・ソク)、就[dziuk](つく・シュウ)、
作[tzak](つくる・サク)、牀[dzhiang](とこ・ショウ)、取[tsio](とる・シュ)、
採[tsə](とる・サイ)、執[tzhiəp](とる・シツ・シュウ)、
介音[-i-]の発達による口蓋化は日本の古代音(弥生音)と日本漢字音(呉音・漢音)のちがいにさまざまな形でその痕跡を残している。
例:手[sjiu](て・シュ)、辰[sjiən](たつ・シン)、舂[siong](つく・ショウ)、
続[ziok](つぎ・ゾク)、常[zjiang](つね・ジョウ)、舎[sjia]人(とねり<古語>・シャ)、
臣[sjien](とみ・おみ<古語>・シン)、
例:竹[tiuk](たけ・チク)、着[diak](つく・チャク)、調[dyô](つき<古語>・チョウ)、
釣[tyô](つり・チョウ)、弔[tyôk](とむらう・チョウ)、
例:純[zjiuən](すみ・ジュン)、尺[thjyak](さか・シャク)、住[dio](すむ・ジュウ)、
摺[tjiəp](する・シュウ)、鎮[tien](しずめ・チン)、知[tie](しる・チ)、
沈[tiəm](しずむ・チン)、
○ [-i-] 介音の発達と頭母音の脱落
古代日本語には中国語の介音[-i-]に対応する音韻構造がなかった。日本語の音節の構造は基本的に[子音+母音]である。そのため、古代日本語(弥生音)のなかには介音[-i-] の影響で頭音が脱落したとみられるものがいくつかみられる。
例:居[kia](をる・キョ)、家[kea](いへ・カ・ケ)、掲[kiat](あげる・ケイ)、
例:織[tjiək](おる・ショク)、折[tjiat](をる・セツ)、赤[thjiak](あか・セキ・シャク)、
丑[thiô](うし・チュウ)、天[thyen](あめ・テン)、射[djyak](いる・シャ)、
牀[dzhiang](ゆか・ショウ)、枝[tjiə](え・シ)、猪[tjia](ゐ・チョ)、
例:誦[ziong](よむ・ショウ)、息[siək](いき・ソク)、石[zjyak](いし・セキ)、
生[sheng](いきる・セイ)、臣[sjien](おみ・シン)、色[shiək](いろ・シキ・ショク)、
舎[sjya](や・シャ)、矢[sjiei](や・シ)、社[zjya](やしろ・シャ)、山[shean](やま・サン)、 夕[zyak](ゆふ・ゆう・セキ)、小[siô](を・ショウ)、緒[zia](を・チョ)、
○ 母音添加
古代日本語では濁音が語頭にこない、ラ行音が語頭にこない、などの制約があったため、語頭で発音しにくい子音は母音を語頭に添加することがあった。馬(うま)、梅(うめ)などはその代表的な例である。
例:馬[mea](うま・バ・メ)、梅[muə](うめ・バイ)、母[mə](おも<古語>・ボ)、
味[miuət](うまい・ミ)、妹[muət](いも<古語>・マイ)、未[miuət](いまだ・ミ)、
網[miuang](あみ・モウ)、夢[miuəng](いめ・ゆめ・ム・ボウ)、負[biuə](おふ・フ)、
例:弟[dyei](おと・デイ)、出[thjiuət](いで・シュツ)、痛[thong](いたい・ツウ)、
打[tyeng](うつ・ダ)、當[tang](あたる・トウ)、到[tô](いたる・トウ)、
東[tong](あづま・トウ)、
例:氏[zjiə](うじ・シ)、
例:県[hyen](あがた・ケン)、活[huat](いきる・カツ)、興[xiəng](おこる・キョウ)、
幾[kiei](いくつ・キ)、
例:露[lak](あらわ・ロ)、郎[liang]女(いらつめ・ロウ)、裏[liə](うら・リ)、
粒[liəp](いひぼ・いぼ・リュウ)、
○ 頭子音の重複
古代日本語では語頭音に関して、さまざまな制約があったため、語頭の濁音など「やまとことば」にない発音は子音を重複して表現することがあった。
例:伝[diuan](つたえる・デン)、畳[dyap](たたみ・ジョウ)、停[dyeng](とどめる・テイ)、
定[dyeng](さだめ・テイ)、貞[tieng](さだか・テイ)、啄[teok](つつく・タク)、
慎[tjien](つつしむ・シン)、鎮[tien](しずめ・チン)、沈[tiəm](しずむ・チン)、
注[tjio](そそぐ・チョウ)、
例:続[ziok](つぎ・ゾク)、静[dzieng](しずか・セイ)、集[dziəp](つどふ・シュウ)、
雀[tziok](さざき・すずめ・ジャク)、進[tzien](すすむ・シン)、
例:限[hean](かぎり・ゲン)、鵠[huk](くぐひ・コク)、懸[hiuan](かける・ケイ)、
含[həm](ふくむ・ガン)、鑑[keam](かがみ・カン)・鏡[kyang](かがみ・キョウ)、
関[koan](かかわる・カン)、冠 [kuan](かがふり・カン)、掛[kuai](かける・ケイ)、
牙[ngea](きば・ガ)、
例:蓼[lyu](たで・リョウ)、留[liu](とどめる・リュウ)、連[lian](つらなる・レン)、
乱[luan](みだれる・ラン)、連[lian](むらじ・レン)、
このほかにも、南[nəm](みなみ・ナン)、耳[njiə](みみ・ジ)、女[njia](むすめ・ジョ)、媚[miuet](こびる・ビ)、百[peak](もも<古語>・ヒャク)なども、語頭子音重複の
例としてみることもできる。
従来、音(漢語)と訓(和訓)はまったく別系統のことばとしてとらえられてきた。漢和字典なども音は中国語音に準拠したものであり、訓は中国語を表記するために作られた漢字に同義の「やまとことば」を
あてはめたものであると説明してきた。
しかし、記紀万葉が成立する8世紀までには、約1000年に及ぶ中国文明との接触の前史があった。8世紀以前の日本列島ではほとんど文字が使われることはなかった。けれども、稲作や鉄とともに中国文明
は日本列島にも波及し、それとともに「ことば」も入ってきた。日本語の「いね」の語源は中国語で「うるち」をあらわす秈[shean](しね)であり、「鉄」は鉄(てつ)として「やまとことば」のなかに定着している。そのため、いわゆる「やまとことば」のなかには弥生時代以来、日本語のなかに取り入れられた漢語起源のことば(弥生音)
が数多く含まれている。
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