第236話
呉音と漢音はどう違うか
呉音、漢音ということばは中国でつかわれていた漢字音の名称である。呉音は江蘇省、浙江省あたりの方言音をさし、唐代には都から遠い地方のことばとして、どちらかと
いうと蔑まれていた。漢音はそれに対して唐代の漢字の正音とされた。
呉音:文書(もんじょ)、 経文(きょうもん)、金色(こんじき)、人間(にんげん)、
漢音:文章(ぶんしょう)、経書(けいしょ)、 金銀(きんぎん)、中間(ちゅうかん)、
日本で最初
に漢字文化をになったのは儒家と僧侶であるが、仏教では一般的に呉音をもちい、儒教では漢音を正音とした。日本で呉音、漢音という場合は中国の呉音、漢音
を規範としてはいるものの、いずれも日本語の音韻構造に合わせて変化しているので、日本漢字音の呉音、漢音ということになる。
このことから「もん」と「ぶん」は同じ「文」をあらわす異音であるということがわかる。おなじように経(きょう・けい)、金(こん・きん)、間(げん・
かん)は同じ文字があらわす異なる音であることがわかる。
同じ文字も異なる地方や、時代によって読み方が変わっている。「文字」は同じでも「発音」はかわる。書きことばである「文字」は話しことばの歴史の痕跡を背負ってい
るともいえる。呉音と漢音の特色をいくつか比較してみると次のようになる。
米 男
分; 日
食
絵
家
言 西 青 金 工
呉音:まい、なん、ぶん、にち、じき、 え、 け、ごん、さい、しょう、こん、 く、
漢音:べい、だん、ふん、じつ、しょく、かい、か、げん、せい、せい、 きん、 こ
う、
呉音も漢音も日本漢字音である。日本漢字音からみることばの歴史を、少し体系化してみると次のようなことがいえるのではなかろうか。「カタカナ」で表記したものが呉音
であり、「ひらがな」で表記したものが漢音である。
(1)同じ行の発音は転移しやすい。
金(コン・きん)、食(ジキ・しょく)、家(ケ・か)、言(ゴン・げん)、西(サイ・せい)、
(2)清音と
濁音は転移しやすい。
分(ブン・ふん)、間(ケン・ゲン・かん)、
(3)マ行と
バ行は相通じる。
文(モン・ぶん)、米(マイ・べい)、
(4)ナ行と
ダ行は相通じる。
男(ナン・だん)、
(5)「ニチ」と「じつ」は相通じる。
日(ニチ・じつ)、
(6)拗音に
転移するものがある。
経(ケイ・きょう)、食(ジキ・しょく)、青(ショウ・せい)、
(7)頭子音
が脱落するものがある。
絵(エ・かい)、
(8)単音が
長音になるものがみられる。
工(ク・こう)、
古代日本語には濁音ではじまることばはなかったとされているが、呉音では食(ジキ)、分(ブン)のように濁音ではじまることばがみられる。また、呉音では青
(ショウ)のような拗音もみられる。拗音は中国では隋の時代に発達してきたものとされているので、呉音も漢音も唐代の中国語音に依拠しているものと考えざ
るをえない。
呉音は一般論としては濁音が少なく、拗音が少ないといえる。しかし、例外もかなりみられる。
呉音と漢音の区別は主として平安時代に明確になってきもので、一般的には呉音の方が漢音より古い音だと考えられているが、必ずしも呉音の方が漢音より古いとは断定しが
たいようである。呉音は仏教系日本漢字音であり、漢音は儒教系日本漢字音としての性格が強いようにみえる。ちなみに『時代別国語辞典 上代編』(三省堂)
について調べてみると「ん」で終わる音節はない。つまり、古代
日本語には「ん」で終わる音節がなかったのである。呉音、以前の
日本語について『時代別国語辞典 上代編』を調べてみると次のようになる。
金(かね)、言(こと)、分(わく)、間(ま)、米(こめ)、男(を)、日(ひ)、経(ふ)、絵(ゑ)、
これらのうち「金」「分」「文」「男」「経」「工」について古代中国語音、現代北京語音、現代広東語音、現代朝鮮語音を調べてみると次のようになる。古代中国語音は王
力の『同源辞典』による。
古代中国語音 北京語音
広東語音 朝鮮語音
日本漢字音
金[kiəm]
jin
gam
keum/kim
gon/kin
分[piuən]
fen
fan
pun
fun/pun/bun
文[miuən]
wen
mahn
mun
mon/bun
男[nəm]
nan
naahm
nam
nan/dan
日[njiet]
ri
yaht
il
nichi/jitu
経[kyeng]
jing
ging
keong
kei/kyou
絵[huat]
hui
kui
hui
e/kai
工[kong]
gong
gung
kong
ku/kou
「日」などは古代中国語音の痕跡をほとんどとどめないほど変化している。強いていえば日本漢字音は古い中国語音かなり踏襲しているともいえる。この一覧表をみる
と、漢字文化圏のなかでの日本漢字音が相対的に、どのような位置づけになるかを概観することができる。「日本」は北京語ではri-ben、広東語ではyaht-bun、朝鮮漢字音ではil-bonとなる。細か
い点はあらためて検討しなければならないが、日本漢字音は広東語音や朝鮮漢字音に近いということがいえるのではなかろうか。
調音の場所が近い音は転移しやすい。また調音の方法が同じ音は転移しやすい。日本語について、調音の場所と調音の方法を一覧してみると次のようになる。横の列が調音の
場所であり、縦軸が調音の方法である。
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脣音
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前口蓋音
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中口蓋音
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後口蓋音
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破裂音
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ハ行
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タ行
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カ行
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摩擦音
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サ行
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鼻音
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マ行
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ナ行
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流音
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ラ行
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ア行は母音であり、ヤ行、ワ行は半母音である。ヤ行、ワ行は中国語の介音(母音の前に加わるi介音とu介音)にあたり、朝鮮語の表記体系であるハングルではア・ヤ・ワ行は同じ列で表記される。
上の表で横軸の音は転移しやすく、縦列の音も転移しやすい。また、破裂音(ハ行、タ行、カ行)は摩擦音化してサ行に転移しやすい。
縦列では脣音(ハ行、マ行)は転移しやすく、前口蓋音(タ行、ナ行、ラ行)は転移しやすい。
母音のア行とヤ行、ワ行は互いに転移しやすい。ワ行はまたマ行とも近い。
日本語の五十音図では清音と濁音は次のようになっている。
清 音
|
あ、ot;;">○ が、
ざ、 だ、 ○ ば、 ○ ○ ○ ○
|
ナ行とマ行には濁音がない。しかし、ナ行はタ行と調音の位置が同じ(前口蓋音)であり、音も近い。またマ行ハ行と調音の位置が同じ(脣音)であり、音も近
い。「ナ」行と「マ」行は鼻音であり、いわば半濁音である。つまり、バ行はハ行の濁音であると同時に、マ行の濁音でもある。また、ダ行はタ行の濁音である
と同時にナ行の濁音でもあるということになる。五十音のナ行、マ行に対応する濁音がないのは、ナ行、マ行自体が鼻音であり、半濁音だからである。これを整
理しなおせば次のような構造になる。
清音
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カ行
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サ行
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タ行
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ハ行
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鼻濁音
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カ゜
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ナ行(ラ行)
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マ行
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濁音
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ガ行
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ザ行
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ダ行
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バ行
|
ラ行は流音
で
あり、調音の位置がタ行・ナ行と同じである。古代日本語では語頭に立つことはなかった。また、ヤ行、ワ行は半母音であり、ア行に近い。中国語には、
このほかに喉音(カ行より奥で調音される音)があって、日本語ではカ行またはハ行であらわれることが多い。「絵」の古代中国語音は絵[huat/huai]であると考えられている。日本語の絵(かい)は、中国語の喉音[h]がカ行に転移したものであり、絵(え)は喉音[h]が脱落したものである。
日本漢字音(呉音・漢音)について子音の転移を調べてみると次のようになる。
○
ハ行とマ行の転移
梅[muə](バイ・マイ)、米[myei](ベイ・マイ)、馬[mea](バ・メ)、
母[mə](ボ・モ)、
美[miei](ビ・ミ)、
木[mok](ボク・モク)、望[miuang](ボウ・モウ)、謀[miuə](ボウ・ム)、聞[miuən](ブン・モン)、
幕[mak](バク・マク・まく)、牧[miuək](ボク・まき)、文[miuən](ブン・モン)、眉[miei](ビ・ミ)、
無[miua](ブ・ム)、
武[miua](ブ・ム)、
苗[miô](ビョウ・メイ)、聞[miuən](ブン・モン)、
○
タ行・ナ の転移
男[nəm](ダン・ナン)、怒[na](ド・ヌ)、
内[nuət](ダイ・ナイ)、暖[nuan](ダン・ノン)、拿[na](ダ・ナ)、
○ カ行とタ行
の転移
戸[ha](コ・ト)、
勘[khəm](カン・タン)、
○ カ行とハ行
の転移
戸[ha](コ・ヘ)、
○ ア行・ヤ
行・ワ行の転移
遺[jiuəi](イ・ユイ)、右[hiuə](ウ・ユウ)、有[hiuə](ウ・ユウ)、唯[jiuət](イ・ユイ)、
益[iek](エキ・ヤク)、役[diuek](エキ・ヤク)、倭[iuai](イ・ワ)、
或[hiuək](イキ・ワク)、
穢[iuat](エ・ワイ・アイ)、蛙[ua](ア・ワ)、
依[iəi](イ・よる)、
○ 日母[nj-]の転移
児[njie](ジ・ニ)、
二[njiei](ジ・ニ)、
耳[njiə](ジ・ニ)、
日[njiet](ジツ・ニチ)、人[njiən](ジン・ニ
ン)、
仁[njiən](ジン・ニン)、忍[njiən](ジン・ニン)、弱[njiôk](ジャク・ニャク)、若[njiak](ジャク・ニャク)、
柔[njiu](ジュウ・ニュウ)、女[njiə](ジョ・ニョ)、入[njiəp](ジュ・ニュウ)、
また、カ行、タ行の音は摩擦音化してサ行に転移することがある。摩擦音化は[-i-]介音の発達と関係があるようである。
<カ行>石[zjyak](コク・セキ)、枝[tjie](キ・シ)、
耆[sjiei](キ・シ)、
祇[gie/tie](キ・ギ・シ)、
臭[thjiu](キュウ・シュウ)、
<タ行>蛇[djyai](ダ・
ジャ)、隋[duai](ダ・ズイ)、地[diet](チ・ジ)、
重[doing](チョウ・ジュウ)、
緒[dia](チョ・ショ)、貞[tieng](テイ・ジョウ)、頭[do](トウ・ズ)、図[da](ト・ズ)、
盾[djiuən](トン・ジュン)、直[diək](チョク・ジキ)、帖[thiap](チョウ・ジョウ)、
中国語の喉音は日本語にはない音であり、日本語ではカ行であらわれることが多いが、脱落することもある。
<カ行>会[huat](カイ・エ)、絵[huat](カイ・エ)、回[huəi](カイ・エ)、壊[huəi](カイ・エ)、
恵[hyuet](ケイ・エ)、黄[huang](コウ・オウ)、横[hoang](コウ・オウ)、皇[huang](コウ・オウ)、
胡[ha](コ・ウ)、
<サ行>邪[zya](ジャ・ヤ)、葉[jiap](ショウ・ヨウ)、詳[ziang](ショウ・ヨウ)、
中国語の音節は、日本語の音節と違って、複雑な構造になっている。[子音+母音]の音節ばかりでなく、[子音+母音+子音(-p,-t,-k,-n,-m,-ng)] あるいは[子音+介母音(-i-,-u-)+子音] というような構造の音節もある。
中国語の拗音(i介音)は隋の時代に発達してきたと考えられており、日本漢字音もその影響を受けて、中国語音に近づけようとしている。
久(ク・キュウ)、求(グ・キュウ)、形(ケイ・ギョウ)、行(コウ・ギョウ)、京(ケイ・キョウ)、
経(ケイ・キョウ)、兄(ケイ・キョウ)、競(ケイ・キョウ)、敬(ケイ・キョウ)、迎(ゲイ・ギョウ)、
強(ゴウ・キョウ)、業(ゴウ・ギョウ)、郷(ゴウ・キョウ)、去(コ・キョ)、居(コ・キョ)、
拠(コ・キョ)、御(ゴ・ギョ)、香(コウ・キョウ)、極(ゴク・キョク)、客(カク・キャク)、
興(コウ・キョウ)、紗(サ・ジャ)、色(シキ・ショク)、食(ジキ・ショク)、州・洲(ス・シュウ)、
主(ス・シュ)、守(ス・シュ)、手(ズ・シュ)、赤(セキ・シャク)、青(セイ・ショウ)、
声(セイ・ショウ)、生(セイ・ショウ)、正(セイ・ショウ)、性(セイ・ショウ)、盛(セイ・ジョウ)、
情(セイ・ジョウ)、寂(セキ・ジャク)、手(ズ・シュ)、相(ショウ・ショウ)、燭(ソク・ショク)、
続(ゾク・ショク)、椿(チン・チュン)、白(ハク・ビャク)、兵(ヘイ・ヒョウ)、平(ヘ・ビョウ)、
瓶(ヘイ・ビョウ)、名(メイ・ミョウ)、明(メイ・ミョウ)、令(レイ・リョウ)、力(リキ・リョク)、
嶺(レイ・リョウ)、霊(レイ・リョウ)、流(ル・リュウ)、留(ル・リュウ)、旅(ロ・リョ)、
緑(ロク・リョク)、良(ロウ・リョウ)、
また、古代日本語には二重母音はなかったので、呉音では短母音であらわれることがある。
遺(イ・ユイ)、憂(ウ・ユウ)、有(ウ・ユウ)、唯・維(イ・ユイ)、工(ク・コウ)、紅(ク・コウ)、
弘(グ・コウ)、公(ク・コウ)、解(ゲ・カイ)、外(ゲ・ガイ)、夢(ム・ボウ)、
中国語の韻尾[-p,-t,-k]
は脱落することがある。
[-k]
:
度[dak](ド・タク)、悪[ak](オ・アク)、易[jiək](エ・エキ)、奥[uk](オウ・オク)、
涸[hak](コ・カク)、酢[dzak](ス・サク)、作[tzak](サ・サク)、塞[sək](サイ・ソク)、
[-t]
:尉[juət](イ・ウツ)、泄[jiat](セイ・セツ)、説[jiuat](ゼイ・セツ)、切[tsyet](サイ・セツ)、
出[thjiuət](スイ・シュツ)、殺[sheat](サイ・サツ)、
[-p]
:雜[dzap](ゾウ・ザツ)、立[liəp](リュウ・リツ)、法[piuap](ホウ・ハツ)、接[tziap](ショウ・セツ)、
執[tiəp](シュウ・シツ)、甲[keap](コウ・カン)、合[həp](ゴウ・ガツ)、
中国語の韻尾[-p] は蝶[thyap](てふ)のようにハ行であらわれることもあるが雜(ざつ・ぞう)のようにタ行あるいはウ音便であらわれることが多い。また、中国語の韻尾[-k]
もウ音便であらわれることがある。
[-k]
;蹴[tziuk](シュウ・シュク)、読[dok](トウ・ドク)、祝[tjiuk](シュウ・シュク)、
拍[peak](ヨウ・ハク)、暴[bôk](ボウ・バク)、
韻尾[-p,-t,-k]
は現代の中国語では南部の広東語では保たれているものの、上海語では(-t)だけになっており、北京語では完全に失われている。日本漢字音でも冊[tshek](サク・サツ)、撒[sat](サン・サツ)、
分[piuən](ブ・ブン)、など発音の揺れがみられる。
呉音といい、漢音といい、中国漢字の日本式読み方であることにおいて変わりはない。日本漢字音は中国漢字音に依拠している。しかし、絵(ヱ・カイ)などのようにほとん
ど外見上類似点のない発音になっていることもある。
一方、現代の北京語音も古代の中国語音からはかなり乖離しているものもあり、日本漢字音の方が古代中国語音に近いものもみられる。しかし、音韻変化の方向
には一定の規則性がみられる。その変化の方向は、調音の方法が同じものは転移しやすく、調音の位置が近いものは転移しやすい、とい
うことである。
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