第240話
漢字文化圏の漢字音
漢字文化圏ということばは最近あまり聞かなく
なったことばであるが、中国の文字である漢字を媒介として書きことばをもつようになり、共通の価値観や文化をもつようになった国、中国、韓国、ベトナムを
さ
す。しかし、現代の韓国ではほとんど漢字は使われてい
ないし、ベトナムでは漢字は全廃されている。
○
朝鮮漢字音
の特質
韓国では漢字はほとんど使われていない。しか
し、漢語起源のことばは日常生活のなかで数多く使われている。朝鮮漢字音は日本漢字音と違う場合がしばしばある。その違いをたどっていくと、朝鮮語の音韻
構造
を明らかにすることができる。そしてまた、逆に日本語の音韻構造の特質も明らかになる。朝鮮語の語頭子音についてみると、つぎのような特
色がある。
1.朝鮮語には喉音[h-]があり、喉音[h-]は日本語でカ行にあらわれることが多い。
例:学校(hak-kyo)、学生(hak-saeng)、画家(hwa-ga)、会話(hui-hwa)、会社(hu-isa)、
会議(hui-ui)、午前(o-jeon)、午後(o-hu)、漢字(han-ja)、韓国(han-guk)、降伏(hang-bok)、
現代(hyeon-dae)、海岸(hae-an)、環境(han-gyeong)、喜劇(hui-geuk)、許可(heo-ga)、
運河(un-ha)、憲法(hyeon-peop)、香水(hyeong-su)、故郷(ko-hyang)、地下鉄(ji-ha-cheol)、
落花生(nak-hwa-saeng)、話術(hwa-sul)、拡大(hawk-tae)、鶴(hak)、灰(hui)、閑(han)、
惚(hol)、火(hwa)、戸(ho)、
古代日本語ではハ行であらわれることもある。
日本語の降(ふる)、花(はな)、話(はな し)、拡(ひろげる)、灰(はい)、閑(ひま)、惚(ほれる)、火(ひ)、戸(へ)など
は、朝鮮語と同じく古代中国語の喉音[h-]がハ行であらわれたものであろう。なお、広東音で
は花(fa)、灰(fui)、閑(haahn)、惚(fat)、火(fo)のように脣音であらわれるものもある。
2.朝鮮語ではラ行音が語頭にくることはない。中
国語の来母[l-]は朝鮮語では、語頭では(n-)であ
らわれる。また、介音(-i-)を伴う場合は脱落する。語中ではラ行音であらわれ
る。
例:老人(no-in)、楽園(nakwon)、労働(nodong)、冷麺(naemyeon)、冷蔵庫(naengjang-go)、
浪(nang)、狼(nang)、来年(nae-nyeon)、論語(non-eo)、籠城(nong-seong)、緑(nok)、
鹿(nok)、努力(no-ryeok)、真露(jin-no)、歴史(yeok-sa)、料理(yo-ri)、旅行(yeo-haeng)、
六(yuk)、陸(yuk)、柳(yu)、理髪(i-pal)、練習(yon-seup)、女優(yeo-u)、女流(yeo-ryu)、
流出(yu-chul)、流浪(yu-rang)、恋歌(yeon-ga)、竜宮(yong-gung)、良心(yang-sim)、
優良(u-riang)、理髪(i-bal)、理想(i-sang)、理解(i-hae)、梨(i)、
日本語の浪(なみ)、狼(のろ)、練(ねる)、
梨(なし)、流(ながれ)、良(よき)、陸(おか)、柳(やなぎ)、などは古代中国語の来母[l-]
がナ行に転移し、あるいは脱落したもので あろう。
3.中国語の日母[nj-]は朝鮮語では脱落する。
例:日本(i-lbon)、日記(il-gi)、人間(in-gan)、人形(in-heong)、牛乳(u-yu)、乳児(yu-a)、
譲歩(yang-bo)、仁川(in-cheon)、柔弱(yu-yak)、柔軟(yu-yeon)、耳目(i-mok)、人心(in-sim)、
認識(in-sik)、日光(il-gwang)、入学(ip-hak)、入口(ip-ku)、閏年(yun-nyeon)、潤(yun)、二(i)、
肉(yuk)、嬢(yang)、弱(yak)、
日本語の譲(ゆずる)、柔(やわら)、入(い
る)、閏(うるう)、潤(うるおう)、弱(よわい)は、朝鮮漢字音と同じく日母[nj-] が脱落したものであろう。
4.中国語の疑母[ng-]は語頭では脱落する。
例:牛乳(u-yu)、漁業(eo-eop)、議員(ui-win)、義務(ui-mu)、午前(o-jeon)、午後(o-hu)、
外貨(oe-hwa)、外国(oe-guk)、音楽(eum-ak)、楽団(ak-dan)、鰐魚(ak-eo)、
銀行(eun-haeng)、銀河(eun-ha)、海岸(hae-an)、国語(ku-keo)、五輪(o-ryeon)、乳児(yu-a)、 疑惑(uihok)、魚(eo)、御(eo)、顔(an)、眼(an)、岩(am)、牛(u)、仰(ang)、原因(won-in)、
月(wol)、
日本語の顎(あご)、魚(うお)、御(お)、牛
(うし)、仰(あおぐ)なども疑母[ng] の脱 落したものであろう。朝鮮語で「牛」は(so) である。日本語の「牛(うし)」は「牛」の朝鮮漢
字音(u)
と朝鮮語の訓(so) を重ねたもので、いわゆる両点である。
また、朝鮮語は閉音節であり、韻尾に(-p)(-k) あるいは(-m)(-n)(-ng)(-l) などの韻尾がくる。
1.中国語の入声音[-t] は朝鮮語では規則的に[-l] であらわれる。
例:出口(cheul-gu)、寝室(chim-sil)、説明[seol-myeong]、実感(sil-kam)、発見(pal-geon)、
発達(pal-tal)、出発(chul-bal)、滅亡(myeol-mang)、人物(in-mul)、動物(tong-mul)、
万年筆(man-nyeon-pil)、鉛筆(yeon-pil)、密林(mil-lim)、一生(il-saeng)、七(chil)、八(ppal)、
擦(chal)、払(pul)、奪(tal)、没(mol)、
日本語の出(でる)、滅(ほろびる)、擦(す
る)、刷(する)、払(はらう)、奪(とる)、没(うもる)、なども中国語の韻尾[-t]が転移したものであろう。
2.中国語の入声音[-p] は朝鮮語でも[-p] であらわれる。
例:入口(ip-ku)、十(sip)、手帖(su-cheop)、事業(sae-op)、漁業(eo-eop)、憲法(hyeon-peop)、
練習(yon-seup)、集中(jip-jung)、甲板(kap-pan)、入学(ip-hak)、合格(hap-kyeok)、
合併(hap-pyeong)、執筆(jip-pil)、接近(jeop-keun)、立身(ip-sin)、立法(ip-peop)、蝶(jeop)、
「甲府」は「甲斐
の国」といわれるが、古代中国語御では「甲」は甲[kap]
である。「甲斐」と「斐」をつけたのは、「甲」が音便化して、甲[kap]
だけでは甲(かひ)と読めなくなってしまったため
である。「甲斐」は峡[heap]
にも通じる。三峡(やまかい)の「峡」である。
「蝶」は旧仮名使いでは蝶(てふ)であり、中国語の韻尾[-p] の痕跡を留めている。
3.朝鮮語では中国語の韻尾[-m]・[-n] は弁別されている。
例:男(nam)、三(sam)、山(san)、新聞(sin-mun)、人心(in-sim)、南大門(nam-dae-mun)、
音楽(um-ak)、実感(sil-kam)、汚点(o-jeom)、汚染(o-yeom)、実感(sil-kam)、寝室(chim-sil)、
密林(mil-lim)、良心(yang-sim)、臨時(im-si)、
例:漢字(han-ja)、韓国(han-guk)、日本(il-bon)、現代(hyeon-dae)、楽園(nak-won)、
人間(in-gan)、仁川(in-cheon)、柔軟(yu-yeon)、冷麺(naeng-myeon)、来年(nae-nyeon)、
閏年(yun-nyeon)、海岸(hae-an)、運河(un-ha)、銀河(eun-ha)、
朝鮮漢字音では古代中国語の韻尾[-m]・[-n]
を弁別している。日本漢字音ではいずれも「ン」で
あらわれる。現代の北京語も[-n] と[-m]
は弁別されなくなっている。広東語、朝鮮漢字音で
は[-n]・[-m]が残っている。
4.中国語の韻尾[-ng] は朝鮮語でも[-ng] であらわれる。
例:放送(pang-song)、東大門(tong-dae-mun)、冷蔵庫(naeng-jang-go)、籠城(nong-seong)、
竜宮(yong-gung)、農業(nong-op)、良心(yang-sim)、優良(u-riang)、浪(nang)、羊(yang)、
揚(yang)、養(yang)、川(江)(kang)、自動車(ja-dong-cha)、観光(kwang-wang)、
水泳(suy-eong)、旅行(yeo-haeng)、流浪(yu-rang)、年齢(yeol-lyeong)、理想(-isang)、
人形(in-heong)、譲歩(yang-bo)、日光(il-gwang)、故郷(ko-hyang)、落花生(nak-hwa-saeng)、
古代日本語には[-ng] という韻尾がなかったので、古代日本語では[-ng]と調音の位置が同じカ行か、調音の方法が同じ(鼻
音)マ行であらわれることが多い。
例:良(よき)、羊(やぎ)、揚(あげる)、泳
(およぐ)、光(かげ)、浪(なみ)、
日本漢字音では生(セイ)、長(チョウ)、放送(ホウソウ)、東大門(トウダイモン)などで中国語の韻尾[-ng]を表記する。最近は東大門(トンデモン)、香港
(ホンコン)などと「ン」で表記することもあるが、東[tong]と門(mun)が同じ表記になってしまうという欠点がある。
「東」は東(トン゜)、「門」は門(モン)とするなど、工夫が必要であろう。
日本語のなかには、朝鮮語の語彙と同源のものも
多い。日(hae) は日本語の日(ひ)と同源であり、雲(kureum)
は日本語の雲(くも)と同源であろう。「鳥」は朝鮮語では鳥(sae)
であり、日本語の「からす」「うぐいす」などの「す」は朝鮮語の鳥(sae) と同源である。「海」の朝鮮漢字音は海(hae) であり、朝鮮語では海(pada)
である。古代日本語の「海」にかかる枕詞「わたつみの」の「わた」は朝鮮語の海(pada)
であり、「み」は日本語の海(うみ)である。しかし、これらの語彙もさらに時代を遡れば古代中国語の雲[hiuən] あるいは、鳥をいみする隹[tjiuəi] にたどりつく可能性もある。
○
ベトナム漢字音の特質
ベトナムは、秦の時代に北部に象群がおかれて以
来中国の文化圏に入った。そのためベトナムの古典や歴史的記録は漢文で書かれている。現在では漢字が完全に廃止され、ベトナム語はアルファベット表記に
なっ
ているが、ベトナム語のなかには漢語起源のことばが多く含まれている。
ベトナム語はクメール語(カンボジアのことば)などと同じ系統のことばであるとされているが、用言の活用がない、声調がある、助詞にあたるものがあまり
つかわれない、語順によって文法関係をあらわす、な
ど中国語との共通点もある。形容詞を名詞のあとに置くなどの点では東南アジアの多くの言語と共通である。
「ベトナム」という国名は中国語の「越南」のベト
ナム語読みであり、「越」は越(viet) であり、「南」は南(nam) である。ベトナム漢字音では文(van)、武(vo)、尾(vi)、万(van)、王(vuong) などがv であらわれる。
ベトナム語の声調は6つあり、母音の数も多いのでアルファベット表記には、さまざまな補助記号が使われている。音節の構造は中国語と同じく子音で終わる
閉音節であり、声母(頭子音)+韻母(介音+主母音
+韻尾)からなる。韻尾には(-p)(-t)(-c)(-ch) のほか(-m)(-n)(-ng)(-nh) などがある。
○ ベトナム漢字音のDには日本漢字音にみられない発音がしばしばみられ
る。
例:da(野・
ヤ)、dan(寅・
イン)、dau (酉・
ユウ)、dien(延・
エン)、du (楡・
ユ)、
dung(溶・
ユウ)、dung(融・
ユウ)、dan(民・
ミン)、dang(名・
メイ)、
dieu(妙・
ミョウ)、
これらの古代日本語音(弥生音)はつぎのようにな
る。
例:野da(の)、
寅dan(と
ら)、酉dau(と
り)、延dien(の
べ)、楡du(にれ)、
溶dung(とける)、融dung(とける)、民dan(たみ)、名dang(な)、妙dieu(たえ)、
ベトナム漢字音はかなり古い時代の中国語音の痕跡をとどめているようにみえる。ベトナム漢字音は日本漢字音とは対応していないようにみえるが、訓と酷似している。
寅(とら)、酉(とり)、溶(とける)、融(とける)、民(たみ)、妙(たえ)はベトナム漢字音の頭音(d)
と同じであり、野(の)、延(のべ)、楡(にれ)、名(な)はベトナム漢字音(d) がな行に転移した音であり、ベトナム漢字音と同系である。
「野」の声符は「予」である。「野」と声符が同じ「杼」が古事記歌謡では杼(ド)に使われており、古代日本語音でもベトナム漢字音の野(da) に近い音価をもっていたことがわかる。
迩本杼理能(鳰鳥の)、知杼理(千鳥)、賣杼理能(女鳥の)、伊
耶古杼母(いざ子ども)、
許
々呂波母閉杼(心は思へど)、阿礼
波意母閉杼(我は思へど)、比
迦礼杼(光かれど)、
このように、ベトナム漢字音と古代日本の漢字音(弥生音)に規則的な対応があるのは、古代日本漢字音がベトナムから来たというよりも、中国南部の古代漢字音にこのような音があり、それがベトナム漢字音
と古代日本漢字音に痕跡をとどめている、と考えるべきであろう。ベトナム漢字音のtは日本漢字音ではサ行であらわれ、古代日本語音(弥生音)ではタ行であ
らわれるものが多い。
○ ベトナム語t:日本語「サ行」・「た行」
ベトナム語のt
は日本漢字音ではサ行であらわれ、古代日本語(弥生音)ではタ行であらわれるものが多い。
例:tac(作・つくる)、tan(散・ちる)、tac (財・たから)、thu(手・て)、
tuan(盾・たて)、tam (心・たま-しい)、the(妻・つ-ま)、thoi(時・とき)、
thuong(常・つね)、tuyet(絶・たえる)、thyet(説・とく)、ton (樽・たる)、
truong (丈・たけ)、 trung(杖・つえ)、
古代日本語音(弥生音)はベトナム漢字音と共通の祖語の発音をとどめていると考えることができる。「たましい」の「たま」の語源は心[tam] であり、「つま」は「妻[the]+女」であろう。「とき」は時[thoi]
と頭音が同じであり、古代日本語音(弥生音)は韻
尾に[-k] の痕跡をとどめている。
ベトナム漢字音をてがかりに、たとえば「百済」あるいは「百残」を「くだら」と読む訳が少し見えてくる。古来「百済」をなぜ「くだら」と読むかは謎であった。ベ
トナム漢字音では「済」は済(te)、「残」は残(tan) である。「百済」の「く」は百[peak] の頭音が脱落したものであり、「だら」は済(te)、あるいは「残」は残(tan)
が転移したものであると考えることができる。古代の漢字音には「済」「残」にはtに近い音価をもっていたのである。
○ ベトナム語t:日本語「サ行」・「な行」
ベトナム語のtは日本漢字音ではサ行であらわれ、
古代日本語(弥生音)ではタ行であらわれるものもある。
例:tan(残・のこる)、tap(習・ならう)、thanh(成・なる)、thang(昇・のぼる)、
than(申・のべる)、tru(呪・のろう)、tru(除・のぞく)、
[t][d][n]
は調音の位置が同じ(前口蓋)であり、転移しやすい。 thon(呑・ドン・のむ)、troc(濁・ダク・にごる)、trung (長・チョウ・(ながい)、trung(中・チュウ・なか)、などの例をあげることができる。サ行の日本漢字音は[t][d][n]
が音が摩擦音かしたものであり、「な行」が古く「サ行」があたらしい。サ行音の発生は介音[-i-] の発達と関係があると考えられている。
○ ベトナム語T:日本語「サ行」・「か行」
ベトナム語のtは日本漢字音ではサ行であらわれ、古代日本語(弥生音)ではカ行であらわれるものもある。
例:tang(蔵・ゾウ・くら)、tan(辛・シン・からい)、than(神・シン・かみ)、
thanh (清・セイ・きよい)、thanh(声・セイ・こえ)、thao(草・ソウ・くさ)、
thu(首・シュ・くび)、thu (樹・ジュ・き)、thu (書・ショ・かく)、
tieu(消・ショウ・けす)、tuoc(削・サク・けずる)、tram(斬・ザン・きる)、
tung(叢・ソウ・くさ)、tu/ty (子・シ・こ)、
中国語音韻学ではサ行音はタ行音の摩擦音化したものであると説明してきたので、サ行とカ行の関係については説明が困難であった。
ところが、同じ声符をもった漢字でカ行とサ行に読み分ける漢字がいくつかある。これらの漢字の原音ははどのような音価をもっていたのか決定できなかった。
しかし、ベトナム漢字音が古い中国語音の痕跡を残しているとすれば、カ行でもサ行でもなく、タ行音に近かったのではないかという仮説をたてることができる。神(シン)は神(than)
が摩擦音化したものであり、神(かみ)は神(than)
の有氣音(th-)
がカ行に転移したものであたことを示唆している。
同じ声符の漢字がサ行とカ行にあらわれる例:
支(シ)・岐(キ)、斯(シ)・其(キ)、旨(シ)・耆(キ)、氏(シ)・祇(ギ)、
神(シン)・坤(コン)、腎(ジン)・賢(ケン)、歎(タン)・漢(カン)、
同じ漢字が、音ではタ行であらわれ、訓がカ行であらわれる例:
thanh(聴・チョウ・きく)、tram(砧・チン・きぬた)、tri(雉・チ・きじ)、
trung(懲・チョウ・こらす)、
同じ漢字が、音ではタ行であらわれ、訓ではサ行であらわれる例:
tham(探・タン・さぐる)、trac(沢・タク・さわ)、trao/trieu(潮・チョウ・しお)、
tram(沈・チン・しずむ)、tran(鎮・チン・しずめる)、tri(知・チ・しる)、
trinh(貞・テイ・さだか)、
ベトナム漢字音のtは日本語音ではカ行、サ行、タ行、ナ行にわたってあらわれることになる。日本語音が直接ベトナム語音の影響を直接受けたとは考えにくい。しかし、ベトナムにはすでに秦の始皇帝によっ
て、前3世紀に象郡が置かれ、その後も10世紀までは北属期とよばれて、中国文明の影響下にあった。そのためベトナム漢字音は、中国語の古い音の痕跡をとどめて
いる可能性が高い。
ベトナム漢字音に中国の古代音の痕跡がベトナム語音に残されていて、それが時代とともに、あるいは地域によって変化し
たと考えることができる。ベトナム漢字音の頭子音Tのなかにはさまざまな音に転移する前の漢字音が含まれていて、漢字音の変遷をたどる手がかりを与えてくれる。
古代中国語音
ベ
トナム漢字音
広東語音
朝鮮漢字音 日本漢字音
作[tzak]:
tac
jok
jak
サ
ク・つくる
昇[sjiəng]:
thang
sing
seung
ショウ・のぼる
蔵[dzang]:
tang
chohng/johng
jang
ゾウ・くら
聴[thyeng]:
thanh
teng/ting
cheong
チョウ・きく
知[tie]:
tri
ji
ji
チ・しる
ベトナム漢字音の頭子音には日本語にはない喉音[h]
がある。これらは日本漢字音ではカ行・ガ行であらわれ、古代日本語音(弥生音)ではハ行であらわれる。
例:ham(艦・ふね)、hang(降・ふる)、hiep(挟・はさむ)、ho(戸・へ)、
hoa (花・はな)、hoa(華・はな)、hoa(火・ひ)、hoang(弘・ひろい)、
hoat(骨・ほね)、hong (吼・ほえる)、hot (惚・ほれる)、hung
(響・ひびく)、
huy(揮・ふるう)、
喉音[h-]
は日本語ではガ行(濁音)に近い。古代日本語には語頭音が濁音ではじまる音節はなかったのでハ行に転移した。喉音にはx音もあり、「春」のベトナム漢字音は春(xuan)である。日本語の「はる」は春(xuan)と関係のあることばである可能性もある。
ベトナム語音にはkh、nh、ph、th、で表記される有気音があり、弥生音ではハ行であらわれることがある。こ
れらはいずれも古代中国語語にあった有気音のhの要素が継承されたものであろう。
[kh]:khai(開・ひらく)、khai (啓・ひらく)、kham(衾・ふすま)、khan(墾・ひらく)、 khoa(誇・ほこる)、khoan (寛・ひろい)、khong(控・ひかえる)、
khuech(拡・ひろげる)、
[nh]:nha(牙・は)、nhan (閑・ひま)、nhan(人・ひと)、nhat(一・ひとつ)、
nhi(二・ふたつ)、nhat(日・ひ)、
[ph]:phan(奮・ふるう)phat (仏・ほと-け)、phien(翻・ひる-がえる)、phong(房・ふさ)、 phong(防・ふせぐ)、phong(放・はなつ)、phuc(伏・ふす)、phuon(幡・はた)、
[th]:thai(太・ふとい)、thanh(聖・ひじり)、thi/thuy(始・はじめ)、thi(貼・はる)、
thi(恥・はじ)、thoai(話・はなし)、tho (吐・はく)、thyen(船・ふね)、
中国文明は東アジアで唯一の文明であった。東アジアの文明は中国を中心に周辺に広がっていった。南アジアでは唯一の文明はインドの文明であった。南アジア
の文明はインドから南アジア一帯に広がっていっ
た。東南アジア諸国は今もサンスクリットを改良した文字を使っている。東南アジアの文明はサンスクリット系の文字を用いて、それぞれの地域のことばを記録
した。東アジアでは漢字文化圏が形成され、中国文明は漢字という文字によって広がっていった。文字は文明化をすすめる起爆剤として、それぞれの地域に文明
圏を形成していった。
日本の漢字音は呉音も漢音も中国の漢字音を忠実に写したものと考えられているが、漢字音には唐の都、長安の正音ばかりでなく、時代により、地域によりさまざまな発音があり、それがベトナム漢字音、朝
鮮漢字音、日本漢字音となってあらわれている。
日本語の歴史を知るためには方言の研究が不可欠だとされているが、漢字音の研究にも漢和辞典なある唐の時代の音ばかりでなく、漢字文化圏のひろがりにも眼をくばる必要があると考えられる。
歴史言語学では言語波動説あるいは言語波紋説という考え方があって、言語は中心から波状的に周辺に広がり、周辺部ほど古い形が残るという考え方がある。日本でも柳田国男が『蝸牛考』を書いて「かたつむ
り」をあらわす方言が周辺部に古い形を残していることを指摘している。
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