第233話  国語改革の歴史 

 国語審議会による国語改革は戦後すぐに着手され、 昭和21年には、早くも「当用漢字表」
1,850字と「現代かなづかい」が内閣告示され、また新字体が採用された。新字体というのは、それまで本字とされて きた畫数の多い漢字の表記を簡略化したもので、次にようなものをあげることができる。
 

乱(亂)、両(兩)、区(區)、学(學)、実 (實)、対(對)、断(斷)、会(會)、
帰(歸)、沢(澤)、独(獨)、
 

 これに対して は、作家などからかなり強い反対論があり、福田恆存は『私の國語教室』を発表し「『当用漢字』千八百五十字では無理です。『現代かなづかい』や『当用漢 字』の採用は古典と一般國民との間を堰(せ)くに至るだらう」と論陣をはった。なかには、国語改革には連合軍が「日本弱体化」を企図しているのではないか という議論もあった。
 しかし、事実は明治以来国語改革は幾度となく提案 されたが、そのたびに実行されることなく戦後に至ったのであった。明治35年にはすでに國語審議会の前身に当たる國語調査委員會が設置され、さまざまな提 案を行っている。
 

  一、       文字ハ音韻文字(フォノグラム)ヲ採用スルコトト シ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト
 二. 文章は言文一致體ヲ採用スルコトトシ是ニ 關スル調査ヲ爲スコト
 三. 國語ノ音韻ヲ調査スルコト
 四. 方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト

  明治41年に臨時假名遣調査委會が改定案を出した 時も、森鴎外、伊沢修二などが反対論を述べている。その後、大正 10年には臨時國語調査會が設置され、大正13年には、文部省の臨時国語調査會が文部大臣以下出席の下に、満場一致をもって、いわば今日の「現代かなづか い」や「当用漢字」に類したものを可決した。しかし、国語学者の山田孝雄博士が反対し、これに呼応するかのように芥川龍之介、藤村作、美濃部達吉、木下杢 太郎などが反対を表明し、文部省の「假名遣改定案」は単に「案」にとどまり、実施されるに至らなかった。 

 ○ 戦後の国語改革

 戦後の国語改革 もすんなり行われたわけではなかった。昭和36年には改革派(表音派)と表意派が国語審議会のありかたをめぐって対立し、舟橋聖一、宇野精一、山岸徳平な どの委員が辞任して、社会的に大きな反響を呼んだ。国語審議会での争点は常に同じ問題をめぐって繰り返される。その対立をひと口でいえば、西洋言語学を学 んだソシュール派と国学の伝統を守る本居宣長派の対立である。和魂派と洋才派の対立ともいえる。ソシュールと本居宣長が同じ委員会のなかにいて議論をする のだから、結論はそう簡単ではない。
 結果的にみると、日本が戦後の荒廃からたち上が り、復興が進むにつれて、国語政策も復古に向かってきたということになる。

 昭和41年国語 審議会の時には当時の中村文部大臣から「当然のことながら、國語の表記は、漢字假名交り文によることを前提とする」という発言が冒頭にあったという。これ によって、学者の間にあった表音派と表意派の対立は終結の方向へ向かう。しかし、漢字をもっと増やすべきだ、という世論はおさまらなかった。
 昭和56年には「当用漢字」という呼び方は廃止さ れ、「常用漢字」という名のもとに95字増えて1945字になる。そして次の原則が提示された。
 

 固有名詞を対象とするものではない。
 振り仮名は原則として使わない。
 当て字は仮名書きにする。
 代名詞、副詞、接続詞、感動詞、助動詞、助詞は なるべく仮名書きにする。
 動植物の名前は、仮名書きにする。
 当用漢字字体表の字体は変更しない。
 科学、技術、芸術その他の各種専門分野や、個々 人の表記に及ぼそうとするものではない。
 

 ○ 漢字制限

 昭和56年常用漢字(音訓)表により増えた漢字に は次のようなものがある。 

 ○ 音訓の漢字
 猿(さる・エン)、渦(うず・カ)、靴(くつ・ カ)、稼(かせぐ・カ)、殻(から・カク)
 挟(はさむ・キョウ)、矯(ためる・キョウ)、 襟(えり・キン)、隅(すみ・グウ)、
 蛍(ほたる・ケイ)、嫌(きらう・いや・ケン)、 溝(みぞ・コウ)、傘(かさ・サン)、
 遮(さえぎる・シャ)、蛇(へび・ジャ・ダ)、酌 (くむ・シャク)、汁(しる・ジュウ)、
 宵(よい・ショウ)、縄(なわ・ジョウ)、唇 (くちびる・シン)、甚(はなはだ・ジン)、
 逝(ゆく・セイ)、挿(さす・ソウ)、藻(も・ ソウ)、挑(いどむ・チョウ)、
 釣(つる・チョウ)、泥(どろ・デイ)、棟(むね・ト ウ)、洞(ほらあな・ドウ)、
 扉(とびら・ヒ)、猫(ねこ・ビョウ)、泡(あわ・ホウ)、褒(ほ める・ホウ)、
 磨(みがく・マ)、癒(いやす・ユ)、竜(たつ・リュウ)、戻(もどる・ レイ)、

 ○ 音読みの漢字
 凸、 誘、生、恐色、詰、固、谷、水、虫、橋、 選択
 高、 土、一台、消火、 法界、水作、洗主、 探載、
 版、駐握、権、 沙露、繁、囲 気、給、素
 殺、想、年、然、列、

 ○ 訓読みの漢字
 垣(かき)、干(ひが た)、﨑(さき)、皿(さら)、据(す)える、杉(すぎ)、
  棚(たな)、塚(つか)、漬(つける)、肌(はだ)、 堀(ほり)、岬(みさき)、

 ○ 増えた音訓
 栄(はえる)、危(あやぶむ)、憩(いこう)、 香(かおる)、愁(うれえる)、謡(うたう)、
 

 日本語のなかに はかなりの数の漢語が取り入れられていて、日常的に使われているのだから音読みの漢字が制限されるのは不便である、という主張は理解できる。「誘拐」を 「誘かい」、「生涯」を「生がい」などと書いていてはかえって読みにくいだろう。しかし、和語にあてる漢字を増やすというのはいかがなものだろうか。

 この改革で音訓 の文字が37、訓読み専用の文字が12増えている。そのうえ、「栄(は)える」など訓読みをふやしたものが6あるから、増えた漢字の半数以上は和語のため の漢字であるということになる。私見であるが、音読みの漢字でも「塾」「鉢」「瓶」「塀」「僕」「枠」などは日本語として定着しているから無理に漢字にす る必要はないのではなかろうかと思われる。

 しかし、漢字制限を緩和する方向はさらに進み、平 成21年にはさらに約100字増えて2136字となっている。問題は増える漢字がお役所の文書の都合や便宜で決められていことであり、そこに原則がないこ とである。

 福田恆存はしき りに「表記法は音にではなく、語に随うべし」という。「音は文字にとって第二義的なものです」ともいう。確かに「稼業」を「か業」、「矯正」を「きょう 正」と書いたのでは語の単位が見えにくい。しかし、和語である「さる」を「猿」、「へび」を「蛇」、「すぎ」を「杉」、「ねこ」は「猫」と書かなければ 「語に随う」ことにはならないのだろうか。

 中国語の場合は 漢字一字は一音節であり、一文字の語が多い。しかし、日本語は二音節、あるいは三音節で一つの語をなすのが普通であり、音節を連ねて語を形成しているとい う違いがある。確かに、語の単位が文字によってしめされないのであれば、書記法によってそれを示す工夫をしなければ、文章は理解されにくくなる。それを解 決する方法は分かち書きの導入以外にないと思われるのだが、分かち書きについては一部の専門家を除いて議論がふかまっていない。 

 ○ 歴史的仮名づかい

 国語審議会では 漢字の制限もさることながら、仮名づかいが大きな争点であった。歴史的仮名づかいは和語については平安時代の発音に依拠しており藤原定家の仮名づかいを規 範としている。漢字音については江戸時代に発達した中国漢字音の研究である『韻鏡』をふまえており、契沖を規範としている。歴史的仮名づかいは主として国 学者流の尚古主義・国粋主義によって維持されてきた。福田恆存などは、藤原定家以来の歴史的仮名づかいについては強く主張しているが、漢字音の表記につい てはほとんど関心を示していない。 

 歴史的仮名づかいを正しく使いこなすにはまず、日 本語の歴史的変化を知らなければならない。

1.10世紀の末(平安中期)ごろ、単語の中のハヒフ ヘホと、ワヰウヱヲが統合されて、
  同じ音になった。
  顔(かほ→かを)、遠(とほい→とをい)、

2.平安時代の半ばを過ぎ、11世紀になると、語中・ 語尾のイとヰ、エとヱ、オとヲとの混同が  次第に多くなる。
  顔(かを→かお)、参(まゐる→まいる)、青(あ を→あお)、
  語頭ではオとヲなどは区別されている。
  兄(え)・絵(ゑ)、柄(え)・餌(ゑ)、越(こ える)・声(こゑ)、酔(ゑひ)、
  岳(をか)、侵(をかす)、惜(をしむ)、をみな へし、をくら山、
  織(おる)、趣(おもむく)、おく山、おもふ、お ほかた、

3.鎌倉時代から、開合の区別(アウとオウ)の混同、 ジヂ・ズヅの混同が進んだ。
  鴬(あう)・翁(おう)、荘(さう)・総(そ う)、悩(なう)・農(のう)
  盲(まう)・蒙(もう)、﨟(らう)・樓(ろ う)、往(あう)・応(おう)
  紅葉(もみぢ)、藤(ふぢ)、伊豆(いづ)、出雲 (いづも)、一途(いちづ)、

4.鎌倉時代中期から無声音の前では促音便(つまる 音)が一般化した。
  法(ホフ)・法華(ホツケ)、入(ニフ)・入魂 (ジツコン

  急(キフ)・急 度(キット)、

   5.「ん」が書き加えられたのは、江戸時代に入っ てからである。

  歴史的仮名づか いの規準とされているのは延喜天暦ごろの(10世紀前半)の日本語音の表記であるが、現代の発音とすぐに結びつかないことが多い。漢字の読み方については『韻鏡』を規範としていた ため、例えば「コオ」という音に対して、高(カウ)、甲(カフ)、広(クワウ)、叩(コウ)、劫(コフ)などの漢字があって、これを辞書を引かずに書くこ とは容易でなかった。 

 ○ いろはかるた
 歴史的仮名づかいは発音とのずれがあるから、規範 としては存在したものの、一般には必ずしもその通りに行われていなかった。明治時代の「いろはかるた」を調べてみると、仮名づかいの異例が多くみられる。
 

  いぬもあるけばぼうにあたる
  ほねをりぞんのくたびれもうけ
  むりがとふれどふりがひつこむ
  ゐものにへたもごぞんじない
  やすものかいのぜにうしない
  さんべんまわつてたばこにしよう
  もんぜんの子ぞうならわぬきやうよむ
 

 これは「いぬぼうかると」といわれるもので明治時 代以来長い間日本の家庭で広く使われていた。
「犬も歩けば棒にあたる」の「ぼう」は正しい。し かし、歴史的仮名づかいでは「坊主」は「ばうず」、帽子は「ばうし」である。
「骨折り損のくたびれ儲け」は「もうけ」でなく、 儲「まうけ」が正しい。
「無理が通れば道理が引っ込む」は、通「とほ」 る、道理「だうり」が正しい。
「芋の煮へたも御存じない」は、煮「にえる」が正 しい。
「安物買いの銭失い」は、買「かひ」が正しい。
「三べん廻ってタバコにしよう」は。廻「まはる」 が正しい。
「門前の小僧習わぬ経を読む」は、習「ならはぬ」 が正しい。
 

 築島裕の『歴史的仮名遣い~その成立と特徴』(吉 川弘文館)によると、明治39年に発行された夏目漱石の『坊っちゃん』(「ホトゝギス」)にも、時折異例もみられるという。(p.151) 

  何をしやうと云ふあてもなかつたから (「しよう」が正しい)
  飯を済ましてからにしやうと思つて居た が(同上)
  断はつて帰つちまはうと思つた(「断わ つて」が正しい)
 

 自筆原稿と印刷物では違っている場合もあり、自筆 原稿では「植」「答た」などとあったのを、印刷では「植ゑ」「答へ た」と訂正されている部分もあるという
 また、明治45年に初版が発行された、石川啄木の 『悲しき玩具』ではかなり異例があるという。 

  ちようど(「ちやうど」が正しい)、外套「ぐわいとう」(「ぎわいたう」が正しい)、机「つく
 へ」(「つくえ」が正しい)、
筈「はづ」(「はず」が正しい)、 騒「さはがしき」(「さわがし
 き」が正しい)、氷嚢「へうのう」(「ひょう」が正しい)、
弱「よはる」 (「よわる」が正しい)、傷「き  づ」(「きず」が正しい)、坐る「すはる」(「すわる」が正しい)、小「ちいさい」(「ちひさい」が正しい)、人形「にんげ  う」(「にんぎやう」が正しい)、

  歴史的仮名づかいが、世間一般に定着するまでに は、明治初期の政府の施策から以後30~40年を要したようである。戦後の国語改革も「仮名づかい」については、戦後60年を経てようやく定着してきたと いえるのではなかろうか。しかし、漢字制限については、まだ揺れている。
 世界的に見ても国語改革は革命など時代の変革期に 行われている。それが成功するかどうかは、表音派、表意派などの技術論によるのではなく、それを支えている理念によるように思われる。

 中国では国語改革論は古くからあったが、毛沢東に よってはじめて実行に移された。文字が支配と被支配の構造を支えてきたことが糾弾され、国民のすべてが文字を読み書きするようにするためには漢字を簡略化 することしかないという考え方が人民から支持されたからである。

 朝鮮半島では李朝の時代にハングルはできていたが ハングルによる表記が一般に行われるようになり、漢字文化圏からの離脱をはたしたのは、第二次大戦後、民族意識がたかまってから後のことである。

 また、ベトナムではフランス統治時代からアルファ ベット表記は試みられていたが、漢字を廃し、アルファベット表記が採用されるようになったのは、やはり第二次大戦後、国家とした独立を果たしてからのこと である。

もくじ

第227話 1年生の「こくご」

第228話 かなづかいを学ぶ

第229話 1年生で習う漢字

第230話 小学校で習う漢字

第231話 学校の「国語」と社会の「日本語」

第232話 書きことばの変遷

第234話 漢字文化圏の教科書

第235話 漢字が亡びるとき