第228話
かなづかいを学ぶ 日本人は漢字を本字ともいい、「ひら仮名」や「か
た仮名」は文字どうり「仮」の字だという思いがある。文部省による『小学校学習指導要領』の付録にある『学年別漢字配当表』によると、小学校1年生が習う
漢字は80字である。 日本語の’o’ を表記するのに現代のかな表記では「お」と「を」
使い分けることがあることについては、すでに述べた。ここでは、「は」と「わ」、「へ」と「え」、それに「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」について考えてみ
たい。 ○「は」と「わ」
かわに、わに
が すんで いた。 1年生はすでに「は」は’ha’ と読むことを知っている。
むかし むかしの はなしだよ。 しかし、「わには かわか
ら」では「わ」も「は」も’wa’ とよむことを、新たに学ぶことになる。「はなし」のときは「は」は’ha’ と読んだのになぜだろうと思わないだろうか。1年
生は助詞も歴史的仮名づかいも知るよしもない。先生も、それは文部省の「現代かなづかい」という告示で決まっているんだよ、と説明するわけにもいかないだ
ろう。 歴史的仮名づかいでは川(かは)、皮(かは)、庭
(には)など、助詞以外にも「は」が用いられていた。しかし、現代仮名づかいでは助詞以外のwaは「わ」と書くことになった。「かはは ながれる」と書いて「川は 流れる」よ
りは「かわは ながれる」と書いて’kawawa
nagareru’ と
読ませるほうが現代の日本語の発音に近いともいえる。しかし、次の場合はどうだろう。
ぼくを みつけたら 「こんにちは」
の「は」は確かに歴史的には助詞の「~は」だったかもしれない。しかし、現代の日本語では「おばあさんが さかなつり したら にあわないわ」とか「さかなつりに いくわ」の「わ」と同じような機能をもっているのでは
ないだろうか。「こんにちたって」では「今日這って」と読まれてもおかしくない。 ○「え」と「へ」
みんなは、大きな こえで これは歴史的仮名づかいになおすと、つぎのように
なる。
みんなは大きなこゑで ○「ず」と「づ」、「じ」と「ぢ」 [ず] ね
ずみ(鼠)、みず(水)、すず(鈴)、すずめ(雀)、かず(数)、じょうず(上手)、 [じ] じ
ぶん(自分)、じかん(時間)、じめん(地面)、かんじ(漢字)、もくじ(目次)、 (1) 同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」 (2) 二語の連合によって生じた「ぢ」、「づ」 すいぶん例外規定の多い規則である。小学校1年生 の教科書にある「おれいに こづちを あげましょう」という例がある。「こづち(小槌)」は「現代仮名づかい」の規則では例示されていないが、「こづち」 が「こ+つち」であり、連濁と判断されたのであろう。しかし、現代の小学校1年生は「つち(槌)」というものに日常接する機会はないと思われるから「こづ ち」を一語と感ずるのではなかろうか。 また、「つづく(続)」「ちぢむ(縮)」は「同音 の連呼によって生じた「ぢ」「づ」」という規則に「つづく」「ちぢむ」なるが、「一ぴきずつ」はどうだろうか。「一ぴきづつ」と書いては間違いなのはなぜ だろうか。 「あいず」「じめん」は歴史的仮名づかいでは「合
図(あいづ)」、「地面(ぢめん)」である。 ○ 促音便 例:はしって(走って) かっき(活気) がっ
こう(学校) せっけん(石鹸*) 促音便は歴史的仮名づかいでは小書きにされていな かったから、特に「なるべく」と遠慮がちに「小書きにする」としたのである。歴史をさらにさかのぼると、促音は表 記すらされなかった。「専」は「もはら」であり、土佐日記の冒頭の部分は「男もすなるに きといふものを女もしてみむとするなり」とある。「にき」とは「日記」のことである。この時代に「日記」を日本 語の音韻構造にあわせて「にき」と読んだのか、’nikki’と読んでいたのに「にき」と表記したのかは必ずし も明確ではない。 内閣告示にある例でいえば、「活気」「学校」「石
鹸」は漢語の輸入によって促音化した例であり、「走って」は「走りて」が促音化した例である。促音便が日本語で使われるようになり、それが定着するのは
11世紀も後半のことだとされている。 小学校1年生の教科書では促音便が多く使われてい
る。促音便なしで現代の日本語を表記することはできない。
例:「おや、なにかな。いっぱい はいっている。」 これらのうち「いっぱい(一杯)」「いっかい(一
回)」は漢語起源のことばである。「はいっている」「しまった」は和語であるが、古語では「はいりてゐる」「しも
うた」などであったものが促音便に変化したものに違いない。 いっぱい=ippai、はいって=haitte、しまった=shimatta、いっかい=ikkai、 小書きの「っ」は「つ」とはほとんど関係のない音 であることが分かる。小書きの「っ」は「つ」は次にくるp、t、kの前に閉鎖音があることをあらわす記号として使わ れているのである。その閉鎖音はtである場合もあるが、p、tでもよい。さらに「いっしょに よもう。」のよう な場合もあってsでもよい。また、「えっ。それから どう なる の。」のように次にp、t、k、sがこない場合にも使われている。 「ひらがな」は日本語にこのような音便形が定着す
る前に作られたものだから、それを現代の日本語の表記に応用するのは、必ずしも容易ではない。それを小学1年生が習うのも、なかなか容易ではないだろう。 ○ 拗音
例:「よんで みましょう。」「きょうかしょを よむ。」 これらのうち、「きょうかしょ(教科書)」「でん しゃ(電車)」「あくしゅ(握手)」「としょしつ(図書室)」「しょっき(食器)」「ぎゅうにゅう(牛乳)」は漢語に由来することばである。 また、「よんで みましょう」は歴史的仮名づかい
では「読んで みませう」と表記されていて、古代日本語のなかではウ音便として扱われている。「よんで みましょう」のようなことばは拗音であると同時に
長音でもある。これを拗長音として区別することもある。小学校1年生の教科書では次のような例がある。
例:そらが、きゅうに まっくらに な
りました。たんじょうび、きょうかしょ、 これらはいずれも漢語起源のことばである。確認の
ために漢字で表記してみると次のようになる。
例:きゅう(急)、たんじょうび(誕生日)、きょうかしょ(教科書)、がくしゅう(学習)、 日本語の拗長音は漢語に由来していることは明らか
であろう。「発表しましょう」の「しょ
う」は、すでに述べたように日本語のイ音便「せう」に由来するものである。日本漢字音は基本的には唐代の中国語音をもとにしているから、これらの漢字の唐
代中国語音を調べてみると、次のようになる。
例:急[kiəp]、
生[sheng]、
教[keô]、
習[ziəp]、
吸[xiəp]、
場[diang]、
章[tjiang]、
乗[djiəng]、 中国では唐代の初めに[-i-]介音が発達してきたとされており、これらの漢字は
みんな[-i-]介音を伴うものである。また韻尾は[-p] あるいは[-ng] であるものが多い。韻尾が中国語の入声音[-p] である漢字は歴史的仮名づかいでは「ハ行」で表記
されたものが多い。 例:急(きふ)、練習(れんしふ)、深呼吸(こきふ)、
猟師(れふし)、蝶(てふ)、 「ひらがな」ができたのは平安時代後期は国 風の時代であるから、ひらがなで拗音や拗長音を表記するなどということになろうとは、想定外だったのではないかと思われる。現代仮名づかいは歴史的仮名づ かいのうえにたって、表音に近づけているが、まだ多くの点で歴史的仮名づかいの痕跡を留めている。そのことが現代の日本語の表記を新たに習う子ども たちにとっては、かなりの負担になっているのではなかろうか。 |
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