第192話 ひ(火)の語源

 
【ひ(火)】
能 登の海に釣する海部(あま)の漁火(いさりび)の光にい往(ゆ)け月待ちがてり(万3169)
斑 鳩(いかるが)の宮の甍(いらか)に燃ゆる火(ひ)の火群(ほむら)の中に心は入りぬ
(太 子伝暦)

  古代中国語の「火」 は火[xuəi] である。日本漢字音は火(カ・ひ)である。日本語 の火(ひ)はまた「ほ」ともいう。火中(ほなか)、火群(ほむら)などである。日本語の「ひ」「ほ」は中国語の火[xuəi] と同源であろう。中国語の喉音[x-][h-] がハ行であらわれる例としては、羽[hiua] は、匣[heap] はこ、挟[hyap] はさむ、荷子[hai-] はす、花[xoa] ・華[hoa]はな、灰[huəi] はひ、などがある。

 【ひ(日)】
草 枕旅にし居(を)れば刈薦(かりこも)の擾(みだ)れて妹(いも)に戀ひぬ日(ひ)は無し
(万 3176)
青 山に比(ひ)が隠らばぬばたまの夜は出なむ(記歌謡)

  古代中国語の「日」 は日[njiet] である。日本漢字音は日(ニチ・ひ)である。日本語の「ひ」は朝鮮語の日(hae) と同源であろう。日本 語の「ひ」は太陽(sun) のことも一日(day) のこともさす。古 代日本語では日(ひ)は日子(ひこ)、日女(ひ め・ひるめ)などのかたちでも使われている

【ひ(氷)】
吾 が衣手に置く霜も氷(ひ)に冴え渡り零(ふ)る雪も凍(こほ)り渡りぬ、、、(万3281)
栲 (たへ)の穂に夜の霜ふり磐床(いはとこ)と川の氷凝(こ)り寒き夜を、、、(万79)

 古代中国語の「氷」 は氷[piəng]である。古代日本語の氷(ひ)は中国語の氷[piəng]の韻尾が脱落したものであろう。
 日本語の「こほ り」「こほる」は中国語の凝
[ngiəng]と関係のあることばである可能性がある。「ひ」は 氷[piəng]の韻尾が脱落したものであり、「こほる」は凝[ngiəng]の韻尾の[-ng]がラ行に転移したものであろう。

 【ひ(簸)】
「是 (こ)の時に素戔嗚尊(すさのをのみこと)天より出雲國の簸(ひ)の川上に降到(いた)ります。」(神代紀上)

   日本語の「ひ」と は、米などをあおり上げてふるい 分けるための竹製の箕の類である「簸」の古代中国語音は簸[puai] である。。日本書紀では斐伊川に「簸」という漢字をあてている。斐伊川に「簸」の文字が用いられているということは、「簸」という農具が中国から輸入されて、中国名で呼ばれて使われてい たことをも示すものだろう。日本語の農具である簸(ひ)は稲作ととも に中国大陸から来たものである。

 【ひ(檜)】
田 上山(たなかみやま)の真木さく檜(ひ)のつまでを、、、(万50)
「栢 葉松身檜≪飛・ひ≫と曰ふ」(和 名抄)

  古代中国語の「檜」 は檜[huai]である。日本漢字音は檜(カイ・ひのき)である。 日本語の「ひ」「ひのき」は中国語の「檜」が語源であろう。古代中国語の喉音[h-][x-]は文字時代以前の弥生音(弥生時代、古墳時代に文 字によらずに伝えられた音)ではハ行になり、文字時代の音ではカ行になっているものがみられる。

 例:匣[hea](コウ・はこ)、挟[hyap](キョウ・はさむ)、荷子[hai-](カ・はす)、
   花
[xoa]・華[hoa](カ・はな)、灰[huəi](カイ・はひ)、火[xuəu](カ・ひ)、など。

 【ひえ(稗)】
打 つ田には稗(ひえ)はあまたもありといへど撰(え)らえし我ぞ夜を一人寝る(万2476)
水 を多みあげに種蒔(ま)き比要(ひえ)を多み撰(え)らえし業(しわ)ざぞ吾が一人寝る
(万2999)

  古代中国語の「稗」 は稗[pie] である。日本語の「ひえ」は中国語の稗[pie] と同源である。中国語に「稗」ということばがあっ て、それとはまったく別に「やまとことば」に「ひえ」ということばがあって、「やまとことば」の「ひえ」に中国語の漢字「稗」をあてはめたのだとは考えに くい。あまりにも音義ともに近すぎはしないだろうか。『古事記』を誦述したのは稗田阿礼とされている。弥生時代の初期には稗は五穀(米、麦、粟、黍、豆) とともに重要な作物であったのだろう。

【ひな(鄙)】
「新 しき富(とみ)入來(きた)れりといふ。都(みやこ)鄙(ひな)の人常世(とこよ)の蟲を取りて清座(しきゐ)に置きて歌い儛ひて福を求めて珍財を棄捨 つ。」(皇 極紀3年)
天 離(あまざか)る比奈(ひな)の長道(ながぢ)を戀來れば明石の門(と)より家のあたり見ゆ
(万 3608)

 古代中国語の「鄙」 は鄙[piə]である。日本漢字音は鄙(ヒ・ひな)である。日本 語の「ひな」は中国語の「鄙」と同源であろう。「ひ+な」の「な」は朝鮮語の国・地域を意味する(na-ra) である可能性がある。また、「な」は中国語の土[tha]である可能性も否定できない。中国語の[th-] が日本語でナ行であらわれる例としては、煮[tha]にる、脱[thauat]ぬぐ、沾[tham]ぬれる、呑[thən]のむ、などをあげることができる。

 【ひびく(響)】
「御 足跡(みあと)作る石の比鼻伎(ひびき)は天に到り。」(仏足石歌)
「苦 楽の響≪比々支波・ひびきは≫、谷の音に応(こた)ふるが如し」(霊異記・序)

  日本語の「ひびく」 は中国語の響[xuang] と同源であろう。中国語の喉音[x-]が日本語でハ行であらわれる例としては、花[xoa] はな、火[xuəi] ひ、などがある。
参照:【ひ(火)】、【ひ (檜)】など。

 日本語では括[kuat] くくる、鑑[keam] かがみ、掛[kuai] かける、限[hean] かぎる、進[tzien] すすむ、続[ziok] つづく、綴[tiuat] つづる、など清音と濁音を重ねることによって日本 語の音韻体系に適応させている例がいくつか見られる。「ひ+びく」もその一例であろう。

 韻尾の[-ng] は上古音では[-k] だったものが多く、カ行であらわれるものは数多く ある。

 例:鳴[mieng] なく、鏡[kyang] かがみ、影[kyang] かげ、性[sieng] さが、[dziang] とこ、など。

 【ひも(紐)】
淡 路の野嶋の埼の濱風に妹(いも)が結びし紐(ひも)吹き返す(万251)
何 故(なにゆえ)か思はずあらむ紐(ひも)の緒(を)の心に入りて戀ひしきものを(万2977)

  古代中国語の「紐」 は紐[thiô] である。日本漢字音は紐(チュウ・ひも)である。 しかし、日本語の「ひも」は中国語の「紐」ではなく絆 [puan] と同源であろう。「絆」は現代の日本語では絆(き ずな)として定着しているが、音義ともに「ひも」に近い。

 【ひら(平)】
さ さなみの平(ひら)山風の海吹けば釣りする海人(あま)の袖かへる見ゆ(万1715)
「天 (あまの)香具山の社(やしろ)の中の土(はに)取りて、天(あまの)平の平瓮≪毘邏介・ひらか≫八十枚を造り、幷(あは)せて嚴瓮(いつへ)を造りて、 天神(あまつやしろ)地祇(くにつやしろ)を敬(ゐやまひ)祭(まつ)れ。」(神武前紀)

  「平瓮」は土で作っ た平らな容器で、祭具として用い られた。古代中国語の「平」は平[bieng]である。日本語の「ひら」は中国語の「平」と同源 であろう。古代日本語では濁音が語頭にくることはなかったの で中国語の頭音[b-] は清音になり、韻尾の[-ng] はラ行に転移した。韻尾の[-ng]がラ行に転移した例としては、乗[djəng] のる、狂[giuang] くるふ、香[xiang] かをり、凝[ngiəng] こる、通[thong] とほる、などをあげることができる。韻尾の[-ng] はラ行に転移するのは動詞の活用語尾に多い。

 【ひる(干)】
妹 (いも)が見し屋前(やど)に花咲き時は經(へ)ぬ吾が泣く涙未だ干(ひ)なく(万469)

  古代中国語の「干」は干[kan] である。日本漢字音は干(カン・ひる・ほす・か る・かれる)である。参照:第 168話【かる(干)】、第194話【ほす (干)】、

 あ ら玉の年經(ふ)るまでに白𣑥(しろたへ)の衣(ころも)も干(ほ)さず朝夕(あさよひ)にありつる君は、、、(万443)
う れたきや醜(しこ)霍公(ほととぎす)今こそは声の干(か)るがに來鳴き響(とよ)め
(万1951)

  古代中国語の頭音[k-]は日本語ではカ行にもハ行にもあらわれる。こだい 日本語のハ行は中国語の唇音[p-] ばかりでなく、喉音[h-] や後口蓋音[k-] にも対応している。古代中国語の[p-] 、[h-][k-]  はいずれも破裂音である。

 [k-]の例:廣[kuang] ひろい、古[ka] ふるい、經[kyeng] ふる、蓋[kat] ふた、骨[kuət] ほね、
 [h-]の例:羽[hiua] は、灰[huəi] はひ、匣[heap] はこ、華[hoa] はな、挟[hyap] はさむ、
 [p-]の例:濱[pien] はま、腹[piuək] はら、拂[piuət] はらふ、剥[peok] はぐ、稗[pie] ひえ、

 【ひろし(廣)】
靫 (ゆき)懸くる伴の雄(を)廣(ひろ)き大伴の國榮えむと月は照るらし(万1086)
天 皇(すめら)が朝庭(みかど)に彌(いや)高に彌(いや)廣(ひろ)に茂(いか)しやくはえの如く立ち榮えしめ仕へ奉(まつ)らしめ給(たま)へと、、、(祝詞、久度、古関)

  古代中国語の「廣」 は廣[kuang] である。日本漢字音は廣(コウ・ひろい)である。 日本漢字音の訓がハ行で、音がカ行であらわれる場合については前項の【ひる(干)】で例示した。韻尾の[-ng]の上古音は[-k] に近い音であったものと推定されるが、日本語では ラ行であらわれる例も多い。
参照:【ひる(干)】、【ひら(平)】、

 【ひろむ(弘)】
「徳 に答へ下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養ひたまひし心を弘(ひろ)めむ。」(神武前紀)
「余 (われ)謂(おも)ふに、彼の地は必ず以(も)て大業を恢弘(ひらきの)べて、天下に光宅るに足りぬべし。」(神武紀前)

 古代中国語の「弘」は弘[huəng]である。王力の『同源字典』には弘[huəng]と宏[hoəng]は同源であるとある。日本語の「ひろし」「ひろ む」は中国語の「弘」あるいは「廣」と同源である。中国語の喉音[h-]が日本語でハ行であらわれる例については【ひる (干)】で述べた。古代中国の喉音[h-]・[x-]は後口蓋音[k-]・[g-] と弁別されるが、日本語には喉音[h-]・[x-] がなかったため、の喉音[h-]・[x-] も後口蓋音[k-]・[g-] もハ行またはカ行であらわれる。
参照:【ひる(干)】、【ひら(平)】、【ひろし(廣)】

 【ふ(經)】
海 (わた)の底沖は恐(かしこ)し磯廻(いそみ)より漕ぎたみ行かせ月は經(へ)ぬとも
(万3199)

あ らたまの年が來布禮(ふれ)ばあらたまの月は來閉(へ)ゆく、、、(記歌謡)

  記紀歌謡は全部音表 記だから漢字の「布」「閉」が あてられているが、意味は「經」である。古代中国語の「經」は經[kyeng]である。日本漢字音は經(ケイ・ふ・ふる)であ る。日本漢字音で音はカ行で訓はハ行であらわれるものがいくつかある。

 例:火(カ・ひ)、花(カ・はな)、灰(カイ・は ひ)、骨(コツほね)、原(ゲン・はら)、    匣(コウ・はこ)、蓋(ガイ・ふた)、頬(キョウ・ほほ)、挟(キョウ・はさむ)
   干(カン・ひる)、掘(クツ・ほる)、降(コウ・ ふる)、など。

【ふな(鮒)】
香 (こり)塗れる塔にな依りそ川隅(かはくま)の屎鮒(くそふな)食(は)めるいたき女奴(めやつこ)(万3828)
「故 (かれ)腹辟(はらさき)の沼と号(なづ)く。其の沼鮒(ふな)等、今に五歳(わた)无(な)し。」(播磨風土記賀毛郡)

  古代中国語の「鮒」 は鮒[pio] である。日本語の「ふな」は「付[pio]+魚[ngia]」、つまり中国で鮒(フ)という魚の意味であろ う。漢字には鰹(堅+魚=かつを)、鳰(入+鳥=にほどり)、鴉(牙+鳥=からす)、駒(句+馬=こま)、などのように声符に部首をつけてつくられたもの がある。
 「魚」の日本漢字音は魚(ギョ・うお・いお・な) である。魚(うお)は中国語の声母
[ng-][-i-] 介音の影響で脱落したものであり、魚(な)は[-i-] 介音発達以前の上古音、魚[nga] の転移したものである。参照:第164話【うを(魚)】、第187話【な (魚)】、

 【ふくむ(含)】
「飯 含(ふく)むるに珠玉(たま)以てすること無(なま)。珠(たま)の襦(こしごろも)玉の柙(ほこ)施(お)くこと無(まな)。諸(もろもろ)の愚俗(お ろかひと)のする所なり。」
(孝 徳紀)

「故 (かれ)、其の木の實を咋(く)ひ破り、赤土(はに)を含(ふふ)みて唾(つば)き出(いだ)したまへば、、、」(記神代)
「御 頸(みくび)の璵(たま)を解きて、口に含(ふふ)み、その玉器に唾(つばき)入(いれ)たまひき。」(記神代)

  古代中国語の「含」 は含[həm] である。日本漢字音は含(ガン・ふくむ・ふふむ) である。日本語の「ふ+くむ」の語源は包含[peu-həm] であろう。古代中国語の喉音[h-]は日本語ではカ行にもハ行にもあらわれる。参照:【ふ(經)】、

 カ行にあらわれる例:莖[hyeng]くき、韓[han]から、峡[heap]かひ、鑑[heam]かがみ、
 ハ行にあらわれる例:羽
[hiua]は、灰[huəi]はひ、華[hoa]はな、挟[hyap]はさむ、

 【ふさ(總)】
射 目(いめ)立てて跡見(あとみ)の岳邊(おかべ)の瞿麥(なでしこ)の花總(ふさ)手折(たを)り吾は去(ゆ)きなむ寧樂(なら)人のため(万1549)
「萬 (よろづの)機(まつりごと)を總(ふさ)ね攝(かは)りて天皇(みかど)事(わざ)したまふ。」(用明紀元年)

  古代中国語の「總」 は總[tzong] である。日本漢字音は總(ソウ・ふさ)である。日本語の「ふさ」の語源は恐らく房[biuang]+總[tzong]であろう。中国語の「房」は「部屋」であり「總」は「ふさ」「すべて」である。

 現代日本語では「房總」は房總(ボウソ ウ)であるが、古代日本語には房(バウ)という音節も總(サウ)という音節もない。そこで「房總」は古代日本語では房總(ふさ)となったもの と考えることができる。房総半島というのは安房、上総、下総を会わせて呼ぶが、「ふ さ」の形をしているから「房總」と呼ばれたのであもろう。

 

☆もくじ

★第161話 古代日本語語源字典索引

つぎ第193話 ふさぐ(塞)の語源