第148話  日本語は乱れているか 

 日本語は乱れているという。ら抜きことばが横行 し、敬語がすたれている。美しい日本語の規範が守られなくなってきている。 

 ことばは変わ る。現代の日本語は漱石や鴎外の時代の日本語とは同じではない。しかし、私たちはどこかで、美しい日本語の時代があったのだという思いをもっているのでは なかろうか。本居宣長にとってそれは『古事記』の「やまとことば」であり、良寛にとっては万葉集の日本語が理想の日本語であった。 

 最近では水村美苗の『日本語が亡びるとき』が多 くの読者の支持をえている。この本は副題が~英語の世紀の中で~となっていて、普遍語である英語が席捲するなかで、私たちのことばである日本語が亡びてし まうのではないかという視点で書かれている。 

  「言 葉の専門家である言語学者の多くは、私のこのような恐れを、素人のたわごととして聞き流  すにちがいない。私が理解するかぎりにおいて、今の言語学の主 流は、音声を中心に言葉の体系  を理解することにある。それは、文字を得ていない言葉も文字を得た言語も、まったく同じ価値  をもったものとして考察 するということであり、〈書き言葉〉そのものに上下があるなどという  考えは逆立ちしても入りこむ余地がない。言語学者にとって言葉は劣化するのではな く変化する  だけである。かれらにとって言葉が「亡びる」のは、その言葉の最期の話者〈より精確には最後  の聞き手〉が消えてしまうときでしかな い。」(p.51) 

 水村美苗は書き言葉に至上の地位を認めている。 日本語が明治維新以降名実ともに「国語」として成立したのは、まず日本の〈書き言葉〉が、日本人のなかで、高い位置をしめ、成熟していたからだという。

 そして、現代の国語教育について「誰にでも読める だけでなく、誰にでも書けるような文章を教科書に載せるという馬鹿げたことをするようになったのであった。」(p.304)となげいている。「日本語の国語教育はまずは日本 近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。」(p.317)「口語の変化がそのまま反映された文章を「新し い」などと言って喜ぶのは、〈書き言葉〉のもつ規範性がいかに文化を可能にするかを理解していないからだである。」(p.318)と断じている。

 かつて普遍語であったラテン語も中国語も書き言 葉こそが規範であり、学校では普遍語を書き言葉として学んだ。しかるに日本の国語教育はその理想を「〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てるところに設定 しなかった。」(p.303)という。水村美苗は福沢諭吉、二葉亭四迷、夏目漱 石、森鴎外、幸田露伴、谷崎潤一郎などの文章を読み書きできるようにするのが国語教育のあるべき姿だと考えているようである。 

 さて、日本語 の書き言葉はそんなに完成したものなのだろうか。まず「日本語が亡びる」というが「日本語」は「ニホンゴ」と読むのだろうか「ニッポンゴ」と読むべきなの だろうか。「亡びる」と「滅びる」とはどう違うのだろうか。日本語は「亡びる」のだろうか「滅びる」のだろうか。 

 ことばは文化を背負っていると同時に、歴史の垢 も蓄積している。漢字の読み方には音と訓があるばかりでなく、同じ音でも呉音あり漢音もある。 

  日本:(ニホン)日本画、日本海、日本酒、日本髪、(ニッ ポン)日本(国 号)、 日本永代蔵、
     (ニホン・ニッポン)日本語、日本一、日本記録、日本製、日本晴、日本犬、
  市場:(いちば)魚市場、青物市場、(シジョウ)市場価格、売り手市場、青果物市場、
  漁: (ギョ)漁獲、漁業、漁港、(リョウ)禁漁区、大漁、(ギョ・リョウ)休漁期、
  池: (いけ)用水池、養殖池、養魚池、(チ)貯水池、沈殿池、遊水池、配水池、
  地: (ジ)地で行く、(チ)地に落ちる、(ジ・チ)足が地につかない、地熱、
  頭: (トウ)頭角、頭取、頭髪、口頭、(ズ)頭蓋骨、頭痛、頭突き、
  大: (ダイ)大寒、大黒柱、(タイ)大安、(おう)大一番、大御所、大地震、
  小豆:(あずき)、商品市場に限って(ショウズ)、
  豚汁:(ぶたじる)関東、(トンじる)関西、

  同音のことばにいくつもの漢字を使い分けること もある。 

  ほろびる:亡びる、滅びる、
  おかす:犯す(法を~、 間違いを~)、侵す(領分を~、国境を~)、冒す(危険を~)、
  かする:科する(刑を ~、制裁を~)、課する(税を~、義務を~、制限を~)、

  同音の漢字はほとんど無数にあり、あるものは区 別して使われ、あるものはほとんど同じ意味に使われている。

   意思・意志、異状・異常、観察・監察、幹事・監事、機運・ 気運、機械・器械、機具・器具、
  既製・既成、規制・規 正、起点・基点、共同・協同、計理・経理、最後・最期、次男・二男、
  実体・実態、粛正・粛 清、主席・首席、招集・召集、定跡・定石、食料・食糧、信書・親書、
  震動・振動、征圧・制 圧、制作・製作、清算・精算、成長・生長、体勢・体制、追求・追求、
  定型・定形、廃水・排 水、表記・標記、平行・並行、野生・野性、用件・要件、路地・露地、
 

 これらのほと んどは、現代ではあまり意味をもたないものも多い。「定石」は囲碁に用いられ、「定跡」は将棋の用語である。碁と棋はもともと「其」であり、語源は同じで ある。「召集」は旧日本語の用語であり、現在では国会の召集だけに使われている。「招集」は地方議会や自衛隊に使われていることばである。漢字には同音意 字が多いから、それをあえて区別しようとすると、衒学的にならざるをえない。 

  立ち合い(立ち合い演説)・立ち会い(相撲)、
  最少(~公倍数、~ 限)・最小(~得点)、
  野天風呂・露天風呂、
  世帯(戸籍、統計などの 場合)・所帯(~じみる、~やつれ)、
  違法(~建築、~駐 車)、不法(~入国、価格を~につり上げる)、
  不(~細工、~作法、~ 祝儀、~調法、~用心、筆~精)・無(~愛想、~遠慮、~礼)、
 

 日本人はまず 漢字によって文字を知り、中国語を書くために工夫され、積み上げられてきた文字によって、文字に表すことのできなかった日本語を表記してきた。平安時代に 仮名が発明されたて、現代の日本語は漢字仮名交じり文で書かれている。しかし、現代の日本語表記法は最善のものなのだろうか。

 このほかにも当て字や慣用句があって、知ってい る人にはあたりまえの読み方だが、国語を勉強している生徒や外国人は個別に覚えなければならない。当て字が公式な表記法として認められているのである。

   五月雨(さみだれ)、時雨(しぐれ)、梅雨(つゆ)、紅葉 (もみじ)、田舎(いなか)、
  土産(みやげ)、明日 (あす)、今朝(けさ)、小豆(あずき)、海女(あま)、
  海苔(のり)、海老(え び)、乳母(うば)、大人(おとな)、河岸(かし)、風邪(かぜ)、  七夕(たなばた)、

 水村美苗が日本語の書き言葉として推奨する夏目 漱石の文章はどのようなものであったのだろうか。『日本語が亡びるとき』のなかから『三四郎』についての部分を引用してみる。 

  前 の晩、断る勇気がなかったとめに、名古屋で汽車を一緒に降りた女とずるずると同じ宿に泊ま  り、わけがわからぬうちに、なんと女と同じ蒲団に寝ることに 相成ってしまった三四郎である。  理由にならない理由をつけ、横にわった女と自分とのあいだにくるくるとタオルを巻いて敷き、  体を硬直させてまんじ りともせず一夜をすごした。そして、そのあげくに、翌日、別れ際になっ  て、女に「あなたは余つ程度胸がない方ですね」と冷笑されてしまった。(p.205) 

 このなかの 「あなたは余つ程度胸がない方ですね」という部分をすんなりとは読める現代人は少ないだろう。漢字仮名交じり文では漢字はことばのまとまりを際立たせる役 割をしているから「余(あま)つ程度(ていど)胸(むね)がない」と読んだとしても、それは読者がわるいのではなく、日本語の書き言葉の規範に問題がある のではなかろうか。旧仮名使いでは「つ」を小さく書くという習慣もなかったから、なおさらである。

 この部分を岩波文庫で見ると「あなたはよっぽど 度胸のない方(かた)ですね」となっていて、これなら現代の日本語の文章に慣れ親しんでいる人にもよみやすい。岩波文庫では漱石の作品の表記を次のような 方針で改めているらしい。 

  1.旧仮名づかいを現代仮名づかいに改める。
  2.「常用漢字表」に掲げられている漢字は新字体に改める。
  3.漢字語のうち代名詞・副詞・接続詞など、使用頻度の高いものを一定の枠内で平仮名に改め    る。
  4.平仮名を漢字に、あるいは漢字を別の漢字にうつすことは、原則としておこなわない。
  5.読みにくい語には振り仮名を使用する。
 

 これで漱石も大分読みやすくなった。しかし、冒 頭の部分をみてみても、現代の表記とは大分ちがう。( )内は振り仮名を示す。 

  う とうととして眼(め)が覚(さ)めると女は何時(いつ)の間(ま)にか、隣の爺(じい)さ  んと話し始めている。この爺さんは慥(たし)かに前の前の駅 から乗った田舎者(いなかもの)  である。発車間際(まぎわ)に頓狂(とんきよう)な声を出して、馳(か)け込んで来て、いき  なり肌を抜いだと思っ たら脊中(せなか)の御灸(おきゆう)の痕(あと)が一杯あったので、  三四郎(さんしろう)の記憶に残っている。 

 現代の読者は振り仮名の部分を読めないと想定さ れているようである。明治の日本語は意味宇を伝えるのは漢字であり、「てにをは」や活用語尾を伝えるのは仮名であるという役割分担ができているようであ る。漢字の部分だけ取り出してみると、おおむね意味が通じる。

  眼、覚める、女、何時、間、隣、爺さん、話、始め、爺 さん、慥か、前、前、駅、乗った、田舎  者、発車、間際、頓狂、声、出、馳け、込んで、来て、肌、抜いだ、思っ た、脊中、御灸、痕、  一杯、三四郎、記憶、残って、

  音読みであるとか、訓読みであるとかの問題ではなく、意味を伝えるものは漢字、日本語の文法を伝える助詞や活用語尾だけはひらがなという原則が貫かれてい る。明治の日本語の文章は漢文の読み下し文との整合性を保っていたのである。振り仮名の部分を平仮名になおして、振り仮名なしでも読める文章にすると次の ようになる。 

  う とうとしてめがさめると女はいつのまにか、隣のじいさんと話し始めている。このじいさんは  たしかに前の前の駅から乗ったいなかものである。発車まぎわ にとんきょうな声を出して、かけ  込んで来て、いきなり肌を抜いだと思ったらせなかのおきゅうのあとが一杯あったので、さんし  ろうの記憶に残ってい る。

   この方がずっと読みやすい日本語だといえないだろうか。しかし、このように意味を伝える部分をひらがなで書くなどということは漱石にとっては考えられない ことであったに違いない。この書き方の欠点は、どこまでが意味を担う単語で、どこからが文法の機能を担う助詞や語尾なのか分からず、文章の意味が捉えにく という点にある。  

 第 二次世界大戦後、北朝鮮では漢字を全廃してハングルだけで表記するようになった。韓国でも、一部漢字を混用しつつも、大部分ハングルでかくようになってい る。漢字文化圏といわれるなかで、ベトナムは約百年前に漢字の使用をやめ、ローマ字にアクセント(声調)の印をつけた文字を使うようになった。

 しかし、日本語や中国 語、タイ語、ビルマ語などは分かち書きをしない。日本語も仮名だけだとかえって読みにくい。また、英語などのように固有名詞を大文字で書くこともしないか ら「さんしろうの 記憶に残っている」というのも分かりにくい。漢字仮名交じり文は日本語の単語を際立たせるのに役立っていることがわかる。

  漱石や鴎外の 作品を現代の子どもにも普通に読めるようにする表記法はないのだろうか。中国では現在二千数百字の簡体字が使われている。しかし、それによって中国人は古 典が読めなくなってしまったわけではない。かなり以前から李白も杜甫も、『論語』も『史記』も、また中国最古の詩集である『詩経』さえも、簡体字で印刷さ れた本が数多く出版されている。そしてもちろん『三国志』も『水滸伝』もである。専門家をめざすのではなく、一般教養を身につけるためなら、簡体字を知っ ていれば十分だというわけである。 

 確かに漱石の 作品を恣意的に書き変えてしまうわけにはいかないだろう。しかし、これだけの振り仮名がないと、もはや漱石の作品は読めないのだろうか。常用漢字というの はそんなに不便なものなのだろうか。「慥(たし)かに」を「確かに」とし、「脊中(せなか)」を「背中」としたら、漱石の作品性は失われてしまうのだろう か。漱石や鴎外は幼少のころ漢文の教育を受け、漢詩も数多く残している。しかし、漢文をほとんど習わず、英語を習うようになった現代の人間が漱石や鴎外を 読みこなすことはむずかしくなってきている。

 ひらがの多い日本語は確かに読みにくい。しか し、分かち書きをするか、句読点をふやせばかなり読みやすくなるはずである。ちなみに『三四郎』の冒頭の部分を仮にひらがなだけで表記してみると次のよう になる。 

  う とうとと して、めが さめると、おんなは いつの まにか、 となりの じいさんと は  なしを はじめて いる。この じいさんは、たしかに まえ の まえの えきから のった   いなかもので ある。はっしゃ まぎわに、とんきょうな こえを だして、かけこんで きて  いきなり はだを ぬ いだと おもったら せなかに おきゅうの あとが いっぱい あった  ので、「さんしろう」の きおくに のこって いる。

   この文章は漢字仮名交じ り文に慣れてしまった大人には受け入れがたい表記かもしれない。しかし、子どもや、はじめて日本語を習う外国人には、よみやすく、読み間違えのしようのな い表記 法なのではないだろうか。文章は句からなり、句は単語からなり、語は語幹と語尾からなっている。日本語は前置詞などがないから、句は必ず意味を担う部分か らはじまり、文法を担う部分で終わる。日本語、中国語、タイ語などは分かち書きをしないが、世界中の多くのことばは分かち書きされている。分かち書きをす ることによって、文章の構造をつかみやすくしているのである。

  世界のすう勢は表音表記の方に向かっている。漢字ですらが7~8割は声符をもったいわゆる形声文字であり、中国語はすべて音読みだから、中国語も表音文字 を目指しているとさえいえる。漢字仮名交じり文にするとしても、もっと読みやすい、ルビを振らないでもすむ表記法はないものだろうか。例えば、 

  う とうととして 目がさめると、女は いつのまにか、隣のじいさんと 話を始めている。この  じいさんは 確かに 前の前の駅から 乗った いなかもので ある。発車まぎわに とんきょう  な 声をだして、かけ込んで来て、いきなり 肌を脱いだと 思ったら、背中に おきゅうのあ  とが 一杯あったの で、「三四郎」の 記憶に 残っている。 

 現在、中国の 小中学校で学ぶ漢字は約三千だといわれている。一方、日本の常用漢字は約二千である。しかし、日本の漢字の読み方には呉音・漢音、それに訓があり、日本人 は二千の漢字の形だけでなく、約四千の音・訓を覚えなくてはならない。中国では三千だが大部分は一字一音である。しかし、漢字仮名交じり文が、漢字を減ら せば減らすほど文章の意味がとりにくくなるという性質をもっている限り、分かち書きを取り入れない限り、漢字を増やそうという潜在的な圧力増していくだろ う。

 中国の教科書 は全編横書きで統一されている。漢文には本来句読点はなかったが、句読点が施されるようになった。これによって読む時の息継ぎの場所が分かりやすくなった ばかりでなく、中国語の文の構造がとらえやすくなった。また、簡体字を用いることで古典も現代中国語の表記で読めるようになっている。中国ではまた、小学 校の低学年からローマ字を取り入れ、漢字の北京音を標準的な共通音として全国に普及しようとしている。

 漢字文化圏の なかでベトナムと北朝鮮が表音文字化し、韓国もほとんどハングルだけで文章を書けるようになった時代に、日本だけが漢字の数をふやし、明治の日本語を規範 として教えようとすることになると、日本は漢字の呪縛から取り残されてしまうことはないのだろうか。漢字は常用漢字を二千としても、その奥には四万を越え る予備軍がひかえている。 

 水村美苗は、 それをあえて漱石・鴎外の時代の漢字仮名交じり文に帰れと主張している。美しい日本語の原点は明治時代にあり、というのである。明治は遠くなり、明治は近 代日本の始祖であり、日本語も明治をはじまりとするというロマン主義が、日本人に受け入れやすくなってきている。 

 日本人は記紀万葉の時代から、いかに漢字を手な づけて日本語という外国語を書くのに適した使い方ができるか、工夫に工夫を重ねてきた。万葉集は原文の万葉仮名を現代の表記法に変えても、その文学的価値 を失うものではない。

   東野炎立所見而反見為者月西渡(柿本人麻呂)
  茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流(額田王)
 

  東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾き ぬ(万48)
  あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(万20)
 

 専門家は万葉 仮名で読めるようになるのが望ましいだろう。しかし、高校の教科書では現代文で万葉集はじゅうぶん味わえるのではなかろうか。明治の日本文学もまだまだ工 夫の余地が残されているのではなかろうか。少なくとも明治の日本語に帰ることをもって足れりとするのではなく、歴史の垢を洗い落とす作業も必要なのではな かろうか。

 日本語が乱れ ているとすれば、乱れているのは若者ことばでも、ら抜きことばでもなく、現代の日本語の規範が、歴史の垢をため込み過ぎているともいえる。必要なのは漢字 を増やすことでも、明治の日本語をもって模範とすることでもなく、現代の日本語にふさわしい表記法を未来に向かって作り出すために、その第一歩を踏み出す ことではなかろうか。


もくじ

☆第142話 漢字検定に挑む

★第143話 四文字熟語の世界

第144話 部首を探す

★第145話 虹はなぜ虫偏なのか

☆第146話 韓流ドラマで学ぶ朝鮮語

★第147話 小学1年生の「こくご」