第82話 大槻文彦の語源研究 日本語はほとんど語源が分からないことばだといわれている。明治時代に日本ではじめて、日本普通語の辞書『言海』を作った大槻文彦は、西欧の近代的な辞書と同じように、日本語の語源を示そうとした。大槻 文彦は『言海』編纂の大意のなかで、つぎのように書いている。 語原ノ説クベキモノハ、載スルヲ要ス。例ヘバ、くれなゐ[紅]ハ、[呉(クレ)ノ藍(アヰ)]ノ約ナル、ほしいままに(恣)ハ、[欲シキ儘ニ]ノ音便ナル、だんな(檀那)ハ、梵語、陀那鉢底(ダナバテ=施主)ノ略轉ナル、びろうど[天鵞絨]ハ、西班牙語Velludaノ轉ナルガ如キ、是等ノ起原、記サザルベカラズ。 日本ではじめての近代的国語辞書、『言海』は17年の歳月をかけて明治24年に完成した。従来辞書というものは難解な語を解明するものであったが、『言海』 では普通に使われる日本語の語彙についても記述がある。人の体のように誰でもしっていることばに関してもその語源も示している。
肌 [端ノ義ト云]、
大槻文彦は洋書調査所に学んでいて、ウエブスターの辞書など西洋の辞書がどのようなものであるか、よく知っていた。ことばへの関心も国学者のそれというより は洋学者の肌合いである。従来の辞書はだいたい漢字に和訓をつけたり、和語に漢字をあてたもので漢和対訳辞書である。大槻文彦は新しい時代にふさわしい辞 書、ウエブスターのような辞書を作ろうと志していた。しかし、日本語の語源についての蓄積はあまりにも貧しかった。 「胸」の項では「生根(ウムネ)ノ約、心ヲ原トスルカト云、或云、身根ノ轉、或ハ群骨ノ約略ト云、イカガ」、といくつかの案を出して読者に問いかけてさえいる。「いかが」とは普通辞書では使わない問いか けである。「肌」を端、「鼻」を端とするのもいかがなものだろうか。 大槻文彦の前に日本語の語源について書いたものといえば、新井白石の『東雅』ぐらいしか参考文献はなかったはずである。だから、大槻文彦はほとんどすべての単語について、独自の見解を示さなければならな かった。有名な猫の項は、つぎのように記されている。 ね-こ(名) 猫 〔ねこまノ下略、寐高麗ノ義ナドニテ、韓国渡来ノモノカ、上略シテ、こまトモイヒシガ如シ、或云、寐子ノ義、まハ助語ナリト、或ハ如虎(ニョコ)ノ音轉 ナドイフハ、アラジ〕古ク、ネコマ。人家ニ畜フ小キ獣、人ノ知ル所ナリ、温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ、然レドモ、窃盗ノ性アリ、形、虎ニ 似テ、二尺ニ足ラズ、性、睡リヲ好ミ、寒ヲ畏ル、毛色、白、黒、黄、駁等種種ナリ、其晴、朝ハ圓ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガ リテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ、陰處ニテハ常ニ圓シ。(大槻文彦『言海』) 新井白石の『東雅』では、猫の項はつぎのように書いてある。 猫 ネコマ 倭名鈔に野王説を引て、猫ネコマ、似レ虎而小シク、能捕リレ鼠ヲと注せり。ネとは鼠(ネ)也。コマとは、コマといひクマといふは転語也。鼠の畏るゝ所なるをいひし也。即今俗にネコといふは、其語の省(ハブ)ける也。(新井白石『東雅』) 新井白石が参考にした資料となると、平安時代に編纂された『倭名抄』まで遡る。『倭名抄』では猫の項はこうなっている。 猫 野王案猫音苗和名禰古萬似虎而小能捕鼠為粮(源 順『倭名抄』) 大槻文彦は新井白石に学び、新井白石は『和名抄』の編者である源順に学んでいる。しかし、これらの語源説はいずれも民間語源説の域をでない。 「猫」の古代中国語音は猫[miô] であり、猫の鳴き声からきた名称である。倭名抄も「猫音苗」といっているように、「猫」の中国語音は「苗」と同じである。夏目漱石の『吾輩は猫である』の中国語訳は『我是猫』で、「ニャーニャーと泣く」は「猫 猫地哭泣」と翻訳されている。中国の猫は「ミャオミャオ」と泣くのであろう。日本語では猫は「にゃー」あるいは「にゃーご」と泣く。中国語のm音は日本語 ではしばしばナ行で現れる。日本語の猫「ねこ」、苗「なえ」は中国語の猫[miô]、苗[miô]の頭音がナ行に転移したものである。 古代中国語の頭音[m-] が日本語でナ行で現れる例はほかにもある。鳴[mieng]、無[miua]が鳴(なく)、無(ない)となるのもその例である。日本語でも韮(にら)は古くは韮(みら)であり、蜷(にな)は蜷(みな)であった。また、王力によれば中国語の韻尾宵部[-ô] は覚部[-uk]に近く、校[heô]・学[heuk]、少[sjiô]・叔[sjiuk]は同源語である。『詩経』では昭[tjiô]・楽[lôk]、笑[siô]・棹[dôk]は韻を踏んでいる。古代中国語の猫[miô] は猫[miuk] に近く、日本語の「ねこ」は中国語の「猫」の古音を留めた借用語である可能性が高い。弥生時代には稲作や鉄とともに中国語の語彙が日本語のなかに数多く入ってきており、それが弥生音となってやまとことば のなかに残っている。 江戸時代の学者の語源論は、カミ(上)を転じてキミ(君)とし、タカ(高)を転じてタケ(竹)、クロ(黒)を転じてカラス(烏)とする類であった。大槻文彦はもちろん、このような語源論にくみしていない。しかし、現代でも日本語の語源論はその域を越えず、一流の学者が「雲」の語源は「こもる」で ある、「竹」は「丈が高い」などという説をなす。 日本で最初に五十音順の辞書が作られたのは、大槻文彦の『言海』である。それまでの辞書は事項分類別で、『倭名抄』にしても天部、地部、水部、とか船部、 車部、牛馬部など、項目別に分かれている。しかも、名詞がほとんどで、動詞などはほとんど辞書にない。大槻文彦は、英語の辞書『ウエブスター』がアルファ ベット順であるように、日本語の辞書も音順にしようと考えた。『言海』は五十音順に並べられた辞書だったため、出版された当初は「いろは」順のほうが引き やすいのではないかという意見もあったという。 五十音図では「ン」は五十音のあとに付け加えられているが、『言海』では「ん」はマ行に入っていて「ま、み、む、ん、め、も」の順番になっている。例えば心(し ん)ということばは「しむ」、「しん」、「しめ」という配列のなかで探す。 滲(しむ)、染(しむ)、占(しむ)、閉(しむ)、使(しむ)、心(しん)、 信(しん)、 大槻文彦は「ん」はマ行に近い音だと考えたのである。五十音図の最後にある「ン」は、サンスクリットのアルファベットで最後にあるɱという文字からきているという。日本の寺院にある仁王像の「阿吽」、あるいは「こまいぬさん」の「あうん」は、サンスクリットのアルファベットの最初の文字であるa と、最後の文字であるɱ の音を表わしている。 『言海』ははじめての本格的な日本語の辞書で、「文明者何。自單之複自粗之精之謂也。」で始まる格調高い漢文の序がついている。大槻文彦は1847年に生まれ た。父は儒学者、祖父は蘭学者として知られる大槻玄沢である。大槻文彦は開成所の前身である洋書調所に入学して洋学を志し、後に仙台で漢学も学んでいる。 しかし、本当にやりたかったのは英学で、ウエブスターの英語辞書に匹敵する日本普通語辞書を作るという大事業に、ひとりで立ち向かう。開明派の大槻文彦の 言葉への関心は国学者というよりは洋学者の肌合いが感じられる。大槻文彦は漢学、蘭学、英学という幅広い学問を背景に、日本語を解明しようとしたのであ る。 大 槻文彦が『言海』を編纂してから約百年の間に近代言語学は進歩した。しかし、その成果は未だに日本語の語源論、日本語形成論に十分生かされているとはいえ ない。日本語の語源の究明は、日本語の成立に寄与した古代中国語音の研究、中国語方言の研究、さらには同じ漢字文化圏である朝鮮漢字音、ベトナム漢字音の 研究がさらに進まないと、前へ進むことができない。 |
||
|